「ゲノム編集と人類の未来」(視点・論点)
2020年11月09日 (月)
九州大学 教授 石野 良純
2020年のノーベル化学賞は、欧米の2人の女性科学者に贈られました。
ドイツのマックスプランク研究所に所属するEmmanuelle Charpentier(エマニュエル・シャルパンティエ)とアメリカのカリフォルニア大学バークレー校のJennifer Doudna(ジェニファー・ダウドナ)は、共同で実用的なゲノム編集技術を開発し、その貢献が認められたことが受賞の理由です。
生物の遺伝情報は、ゲノムDNAの上に載っています。
ゲノム編集は、生きた細胞の中で、狙った遺伝子を自在に改変して、その生物の性質を変える技術であり、21世紀のポストゲノム時代、つまりゲノム配列を解読した後の生命科学にとって、間違いなく主役となる手法を提供します。今後の人類の生活を変えてしまうような、この新技術開発の意義は極めて大きいと言えます。
CharpentierとDoudnaが開発したゲノム編集技術は、細菌や古細菌の、獲得免疫システムを利用したもので、CRISPR/Cas9と呼ばれる分子を使います。このCRISPRというのは、私が30数年前に行っていた研究から発見した、独特の繰り返しDNA配列のことです。
私は大阪大学微生物病研究所で、当時、利用されはじめたばかりの、遺伝子操作技術を使って、大腸菌のある遺伝子の解析を行っていました。
そのときに、それまで見たことがない、規則正しいDNAの繰り返し配列を発見しました。
それは、DNA配列としての二回対称性を含んだ29塩基、つまり、DNAが一本の鎖だけで塩基対を形成できるような対称性のある配列、が一定の間隔で5回も繰り返すというものでした。この特徴は、当時、まだDNAの塩基配列データ量が乏しかったものの、まったく前例のないもので、あまりに綺麗に繰り返し配列が並んでいることにすっかり見とれてしまいました。これは、細胞が生きるために、何かの役割を果たしているに違いない、と思いましたが、その働きを具体的に予想することは不可能でした。
このような特徴をもつDNA配列は、その後、他の細菌や古細菌からも発見されたことで、大腸菌に固有のものではなく、もっと広い生物学的機能を担うものと、考えられました。1990年代後半には、塩基配列データの蓄積が急速に進み、同様な繰り返し配列の例が増えて行きました。
そして21世紀に入り、この繰り返し配列はCRISPRと名付けられました。
さらにCRISPRの近くに、必ず存在する遺伝子群があることも発見されて、それらはcas遺伝子と名付けられました。CRISPRとcasは共同して何かの働きをするのだろうと想像されましたが、まだその役割については、まったくわかりませんでした。
CRISPR/casの役割が解明されたのは、繰り返し配列の間を隔てるスペーサーの部分に、外からその細胞を攻撃して、侵入してくるウイルスやプラスミドの遺伝子断片が含まれている例が見つかったことによります。この発見により、CRISPR/casが生体防御の役目を果たすことが予想されました。
それが初めて実験的に証明されたのは、チーズ、ヨーグルトなどの乳製品を製造する、工業用の乳酸菌が、CRISPR/casの働きによって、ウイルスに感染しなくなる、という報告でした。つまり、乳酸菌のCRISPRの中に、ウイルスのDNAが挿入されていると、その菌は、そのウイルスに感染せず、CRISPRの中からウイルスDNAを取り除くと感染することから、CRISPR/casは、細胞をウイルス感染から衛る免疫の役割を果たすことが証明されました。
その後、細胞内に侵入したウイルスDNAが、CRISPR/Casによって切断されて、 もはやウイルスが増殖できなくなることで、細胞が感染から逃れられるということが、別の研究者によって、証明されました。
CharpentierとDoudnaは、CRISPR/Cas9が、侵入してきたウイルスDNAを選択的に切断することを応用して、ゲノム編集に使える実験結果を示しました。
Casにはいろいろな種類があるのですが、二人の論文では、Cas9が最も単純な分子としてDNAを切るはさみの働きをすること、そして、CRISPRの配列を人工的に操作すれば、ウイルスに限らず、どんな遺伝子でも、狙ったところを、Cas9で切断できることを示しました。そして、この結果は、ゲノム編集に使えることを示している、と明記しました。この論文が、今回のノーベル賞受賞に繋がったと言えます。
CRISPR/Cas9を使うゲノム編集は、今や、高校生が生物学の実習として体験できるほど簡単な試薬セットが販売されています。このような技術は単純であるほど実用的です。
CRISPR/Cas9を使ったゲノム編集は、それまで使われてきた従来の遺伝子操作法と比べて、より正確で、より安全で、効率のよい手法です。ゲノム編集技術は、現在、生命科学分野で急速に普及しており、基礎細胞生物学分野では、すでに日常的に使われています。
実用的な応用としては、農業と医療の分野で先行しています。 肉量の増えた、牛や、鯛、収穫量の多い小麦や、腐りにくいトマトなどの改良は食料問題の解決に直結するものです。また、医療分野においては、遺伝子の欠損によって起こる病気の治療として、原因になる遺伝子を、正常な遺伝子で書き換えるという、臨床応用が大いに期待されます。 しかしながら、技術には100%確実ということはなく、臨床的に応用する場合には、目的の編集だけがなされ、他の部分が変わっていないことを、できるかぎり、確認する必要があります。また、遺伝子組換え食品に対する一般的な嫌悪感や、デザイナーベビーの誕生が可能になるという、倫理的問題など、社会的に受け入れ難いマイナス点もあります。初期の遺伝子組換え実験でやられてきたように、きっちりとした規則を作り、その指針に基づいてゲノム編集を実施するという規制は必須であると思います。
そのうえで、ゲノム編集が与える影響は絶大なるものがあり、この遺伝子操作技術によって、もたらされる恩恵を、我々は拒否すべきではないと思います。
CRISPR/Cas9を使った、ゲノム編集技術開発の成功は、見事の一言に尽きます。
これを見つけた時には、何をするために存在するのかまったく予測がつきませんでしたが、年月を重ね、多くの研究者の努力によってその獲得免疫機能が解明され、その分子メカニズムを利用して、ゲノム編集技術が開発されたことを振り返りますと、たいへんに感慨深いものがあります。CRISPRを、このような人類に役立つ、すばらしい技術開発に繋げられた二人の科学者の、ノーベル賞受賞を、心より祝福したいと思います。
現在の生命科学の、重要な基本技術はすべて、細菌や古細菌という、原核微生物の、基礎研究から生まれています。直接にヒトを対象とした研究をすることはたいへん重要ですが、原核微生物の基礎分子生物学から、人類は遺伝子操作技術を手にしました。この度のゲノム編集技術は、その究極にも近い発展かと思います。これまでずっと細菌や古細菌の研究を行ってきた私にとって、たいへん嬉しいことです。これから人類は、この技術によって、多大な恩恵を受けることでしょう。
そして、今後の原核微生物の、分子生物学研究から、また新たな有用技術が誕生することを是非、期待してほしいと思います。