「学校は何のためにあるのか?」(視点・論点)
2020年06月22日 (月)
熊本大学 准教授 苫野 一徳
新型コロナウィルスの影響が続く学校教育界は、今、「そもそも学校は何のためにあるのか?」、その存在意義を抜本的に問い直すことを余儀なくされています。
近代の学校制度が始まってから、およそ150年。そのシステムは、ほとんど変わることなく、これまで次のようなものとして続いてきました。すなわち、「みんなで同じことを、同じペースで、同じようなやり方で、同質性の高い学年学級制の中で、出来合いの問いと答えを勉強する」というシステムです。
しかしこのシステムが、コロナ禍のただ中にあっては、ほとんど機能しなくなってしまいました。つまり、みんなで同じことを、同じペースで、一律に進めていくことができない。
実は、コロナ禍の前から、このような一律一斉のシステムは大きな問題を抱えていることが知られていました。たとえば、「みんなで同じことを、同じペースで」進めていくと、必ず、授業についていけない子が出てしまいます。その逆に、すでに授業の内容が分かっているにもかかわらず、先へ進むことができないために、勉強が嫌いになってしまう子どもたちも大勢います。とても嫌な言葉ですが、「落ちこぼれ・吹きこぼれ」問題と言われています。
同質性の高い学年学級制も、大きな問題を抱えています。同調圧力が強いために、いじめが起こりやすいとか、空気を読み合う人間関係ができてしまうとかいった問題が起こりやすくなってしまいます。
出来合いの問いと答えを中心に勉強するシステムも、大きな問題を抱えています。なぜ、何のためにこんな勉強をしなければならないのか分からず、学びから逃走する子どもたちが大勢います。
今回のコロナ禍で、このようなシステムは一層機能しなくなってしまいました。
ただその一方で、オンライン授業を充実させることのできた自治体や学校では、全員一律ではなく、子どもたち一人ひとりの個別の学びをとことん支援するという経験を積んだことで、新たな教育のあり方への転換の可能性を見出すことにもなりました。私もまた、今こそ、このシステムを本気で転換していく時であると訴えたいと思っています。きょうは、そのためのビジョンをお話しします。
と、その前に、「そもそも学校は何のためにあるのか?」についてここでお話ししたいと思います。教育の構想や改革にあたっては、この“そもそも”を抜きにして議論することはできないからです。
端的に言うと、学校は、すべての子どもたちが「自由」に、つまり「生きたいように生きられる」ための力を育むために存在しています。「自由」と言っても、それはわがまま放題を意味するわけではありません。というのも、「自分は自由だ、何をやるのも勝手だ」と言っていたら、それは他者の自由とぶつかることになり、争いになり、結局はお互いの自由を奪い合うことになってしまうことになるからです。
そこで、私たちは、自らが「自由」に生きられるためには、他者の「自由」もまた認める必要があるということになります。
これを「自由の相互承認」と言いますが、この「自由の相互承認」の感度を育むことこそ、公教育の最も重要な本質です。
実はこの「自由の相互承認」は、私たちが暮らすこの市民社会、民主主義社会の根本原理でもあります。私たちの社会は、誰もが他者の自由を侵害しない限りで自由に生きてよいし、そしてそのような自由をお互いに認め合うことで、皆ができるだけ自由に平和に生きられることを保障するものなのです。
ちなみにこの「自由の相互承認」の原理は、ヨーロッパの哲学者たちによって250年ほど前に見出された考え方ですが、そこにいたるまでの間に、人類は1万年以上もの間、宗教が違えば虐殺したり、人種が違えば奴隷にしたりといったことを当たり前のように続けてきました。今、そのような凄惨(せいさん)な命の奪い合いがかつてに比べて激減したのは、「自由の相互承認」の原理が、この名前は知られていなくとも、多くの人に共有され、この原理に基づく民主主義が世界に広がっていったからです。
その過程において、教育はきわめて重要な役割を果たしました。学校教育を通して、私たちは、誰もが対等な人間同士であるという感度を育むことができるようになったのです。誰もが同じ人間同士。これは、2〜3世紀前まではほとんど誰も考えていなかったような、人間精神の大革命なのです。
以上から、学校教育の本質を改めて次のように言いたいと思います。
すなわち、すべての子どもたちが、「自由の相互承認」の感度を育むことを土台に、「自由」に生きられる力を育むことにあると。
さて、ところが今、学校は、先ほど述べたような落ちこぼれやいじめ、あるいは不登校など、「自由」とその「相互承認」の観点から言って大きな問題を抱えてしまっています。さらに、今回のコロナ禍において、一律一斉の教育によって学習権を保障することの困難も浮き彫りになりました。
では、どうすればよいか。
私は長らく、「学びの個別化・協同化・プロジェクト化の融合」への転換を提唱しています。
個別化とは、端的には、自分に合ったペースや学び方で学びを進められることです。ただしそれは、学びの孤立化であってはなりません。子どもたちが、必要に応じて人に力を貸してもらえたり、人に力を貸したりできる、「ゆるやかな協同性」に支えられた学びの環境を作ることが重要です。
個別化と協同化の融合を行うと、学年を超えた異年齢の学び合いも可能になります。日本でも異年齢での学び合いを実践している学校がありますが、そうした学校では、お兄さんお姉さんがとても頼もしく、年下の子たちに勉強を教えている姿などをよく見かけます。
先生の授業より、友達に教えてもらった方が分かりやすいとか、友達に教えることで自分の学びがより深まったとかいった経験は、多くの人が持っていることと思います。「学びの個別化と協同化の融合」は、そうしたダイナミックな学び合いの力を最大限発揮させるもので、一律一斉の授業に比べて、子どもたちの学習権の保障により一層寄与することも様々な研究で明らかにされています。
今回、オンライン授業が活発化したことで、そのような環境整備がこれまで以上に可能になりました。オンラインでの学びは、まさに個別化と協同化の融合をデザインしやすい利点があります。今後も、上手に活用していきたいと思います。
次に「学びのプロジェクト化」とは、出来合いの問いと答えを学ぶ学びではなく、「自分たちなりの問いを立て、自分たちなりの仕方で、自分たちなりの答えにたどり着く」、そんな「プロジェクト型の学び」をカリキュラムの中核にすることです。
たとえば、恐竜博士になる、映画を作る、アフターコロナの教育のビジョンを考える、など、子どもたち自身の問いから始まる探究型の学びです。こうした学びが、子どもたちに学ぶことの楽しさや意義を見出させ、学力向上につながるだけでなく、生涯にわたる立派な探究者へと成長していくという報告も数多くあります。ちなみに、学習指導要領においても、このような探究型の学びを中核にしたカリキュラムは、十分可能であるだけでなく、推奨されてもいるものです。
以上のような「学びの構造転換」は、実はその理論も実践も、すでに100年以上の蓄積のあるものです。とすれば、あとは公教育システムに実装していくだけです。そして実際、今、この「公教育の構造転換」とでも言うべき現象が、すでに全国のいたるところで起こり始めています。150年間、あまり大きくは変わってこなかった学校システムが、今、大きく変わろうとしています。変えていく必要があると私は考えています。
最後に、これからの学校や学びは、子どもたちの声をちゃんと聞きながら、子どもたちとともに作り合っていきたいということをお話ししたいと思います。
子どもたちは、これからの市民社会の担い手、作り手です。であるならば、自分たちのコミュニティは自分たちで作るという経験を、私たちはたっぷり保障する必要があります。
子どもたちが、何かを一方的に与えられ続ける受け身の存在としてではなく、来るべき市民社会の一員として、学校づくりに関わる。アフターコロナの学校は、そのような学校でありたいと思っています。