「8050問題 ひきこもりの実態と背景」(視点・論点)
2019年10月21日 (月)
ジャーナリスト 池上 正樹
最近、「8050問題」という言葉が注目されています。8050問題というのは、80代の親が50代の収入のない子の生活を支えて、行き詰ってしまう世帯のことを指します。
その背景にあるのは、ひきこもり状態にある子が長期高齢化している現実です。親は、そんな子の存在を恥ずかしい、知られたくないからと、周囲から隠そうとします。子は、自分が親から隠される存在であることを感じて、ますます重荷になって動けなくなります。こうして子の姿は周囲から見えにくくなり、家族全体が地域から孤立しているのです。
5月末の川崎市の通り魔殺傷事件や、練馬区の元事務次官による事件など、一連の事件をきっかけに、この8050問題は、良くも悪くも広く社会に知られるようになりました。最初の事件の翌日、川崎市が会見で「容疑者はひきこもり傾向にあった」「叔父や叔母からお小遣いをもらっている」などの趣旨の発表をしたことから、メディアもそれに乗っかる形で「ひきこもりが事件を引き起こした」かのように受け取れる偏見を拡散して、世間の敵意が“ひきこもり”に向けられました。容疑者は51歳の男性で、80歳代の叔父と叔母と同居する、収入のない50歳代の甥という、まさに8050家族だったのです。
以来、KHJ全国ひきこもり家族会などには「うちの子も同じような事件を起こすのではないか」とか、「もう限界」「相談しても行政は何もしてくれなかった」といった家族からの電話が、朝から晩まで鳴りやみませんでした。私のもとにも、母親から「報道を見た夫が、息子に“おまえを殺して俺も死ぬ”などと責めて取っ組み合いのけんかになった」という悲鳴が届くなど、家庭の中で危機的状況に陥り、新たな悲劇を誘発しかねない状況でした。本人の側からも「周囲の目線が怖い」「ひきこもりというだけで犯人と同一視される」「ますます外に出られない」という相談が急増。本人も家族も心が不安定になり、入院してしまった人もいます。いずれも、ほぼすべてが初めて電話をかけてきた人たちで、誰にも相談できずに孤立していました。助けてと言えない親子に代わって、兄弟姉妹や親族が初めて相談してくる例も増えました。
これに対し、当事者団体、家族会、支援者、専門家のすべてのステークホルダーが、「ひきこもりは犯罪者予備軍や困った人間ではない」といった声明を発表して、とくに差別を助長するような報道のあり方には異議を唱えました。なぜなら、1人1人背景や状況が違う一方で、ひきこもる人たちの共通項には、職場や学校のハラスメントやいじめなどに傷つけられ、そんな安心できない社会から、自分の価値観を守るために退避した人たちであるという特徴があります。
これまで長年関わってきたひきこもり状態にある人たちの多くは、優しくまじめで遠慮深い心の持ち主たちでした。家の中は安心できる居場所であり、これ以上傷つけられることがなく、人に迷惑をかけないためにひきこもる。つまり、困った人間ではなく、困りごとを抱えている人たちです。1人ではなく100万人以上と推計されているということは、100万パターン以上の困りごとが、この社会にあるということです。そうやって安全安心な家という居場所に退避している人が、何の理由もなく外に飛び出していって無関係な人を殺傷するなど、とても考えにくい。問題があったとすれば、ひきこもる当事者たちが社会の中で追い詰められていく状況や思いを想像できない人たちのほうではないでしょうか。
川崎市の事件では、元々訪問介護サービスを受けていた叔父と叔母が、市の精神保健福祉センターのアドバイスに従って自立を促すような手紙を2度、容疑者に渡したところ、「自立してるじゃないか」「食事や洗濯、買い物を自分でやっているのに、ひきこもりとは何だ」と反発したそうです。その後の報道で、容疑者に渡した手紙は2度ともびりびりに破かれて発見されたこともスクープとして報じられました。
容疑者が亡くなった今、他の当事者の事例からの憶測の範囲にしか過ぎませんが、おそらく容疑者は、自分の生活領域に外部の者が侵入してくることに、脅威や恐怖心を抱いたのではないかと思われます。生活はできていて、とくに問題はないと思っているのに、外に連れ出されるのではないか、就労させられるのではないかと、命を脅かされるような危険を感じたのだと思います。また「自立」や「ひきこもり」というワードが手紙に入っていたのだとすれば、“ひきこもり”というネガティブな世間のイメージから、自分の生活を否定されたと受け止めたのかもしれません。もし手紙を出すのであれば、いきなり自立を促すのではなく、今できている生活をこれから支えるためのサポートを前提にすべきだったのではないかと思います。これからの支援は、縦割りではなく、本人の気持ちを理解できる当事者会や家族会に相談するなど、連携していくことも大事になります。
最近は、高齢者の介護などの相談サービスをしている各自治体の「地域包括支援センター」からも、「ひきこもりについて勉強したい」と言われ、職員研修に呼ばれる機会が増えました。ある自治体の地域包括支援センターの職員向け研修会では、主催した部署が受講者にアンケートしたところ、自分の担当しているエリアに「8050家族」がいて、その数も「1人」とかではなく、「5人」、「10人」、中には「50人」と答えた担当者もいました。地域で支援を呼びかけても、なかなか相談につながりにくかった姿の見えない8050家族の存在も、高齢の親の介護などで家庭に入る職員の間では、把握されています。制度の狭間にあっても、縦割りではなく、情報を共有して一緒に対応することが必要です。そのままの状態でいいから、「まずは生きていこう」というサポートができれば、本人も家族も生活の不安を取り除くことができて、もっと幸せに生きることができたかもしれません。
国の「ひきこもり支援」は従来、成果を目的にする「就労支援」中心の枠組みでした。しかし、元々、就労現場で傷つけられたり、トラウマになるような恐怖体験をしてきたりして、命の危機を回避し、安全・安心な居場所である自宅などにひきこもらざるを得なかった人たちにとっては、そうした就労の成果を求めることが目的の支援そのものがなじまなかったのです。その結果、支援の制度から取りこぼされた多くの人たちが、社会から遮断されて生きる希望をなくし、「8050問題」の要因にもなったともいえます。
本人たちは「働かなければいけない」「人や社会に迷惑をかけてはいけない」「働いてない自分は権利を行使してはいけない」といった無意識のバイアスに苦しめられています。国は「地域共生社会」を理念に掲げながら、一般的に地域は「孤立は本人の努力不足」という自己責任論に覆われ、助けてと言えない空気があります。親が「いつまでこんなことやっているんだ!」と責めるのも、子の存在を隠すのも、周囲に迷惑をかけたくないからという意向が強く、社会的監禁のような状態で、まさに社会によってひきこもらされているといえます。
周囲にできることは、本人よりもまず、親の愚痴を聞いてあげるなどして、親への支援を維持していくことです。本人の意思によって面会できる場合は、現状を受け止め、自立を迫るのではなく、本人の気持ちを分かち合えるような感性が安心感につながります。さりげない「大丈夫?」という声がけや、身体や生活上の困りごとがないかどうかを聞くのもいいと思います。誰もが潜在的に持っている趣味や好きなことは、外の世界につながるきっかけになります。「助けて」と言えない本人や家族に、どうアプローチすれば動いてもらえるのか。専門家だけでも支援者だけでも当事者だけでもなく、皆で一緒にアイデアを出し合って考えていく場づくりが大事だと思います。