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「原爆朗読劇 最後の夏に」(視点・論点)

女優 渡辺 美佐子

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いたといたの中に
はさまっている弟、
うなっている。
弟は、僕に
水、水といった。
僕は、
くずれている家の中に、
はいるのは、いやといった。
弟は、
だまって
そのまま死んでいった。
あの時
僕は
水をくんでやればよかった。   小学五年生

今、読みましたのは、現在6月から私達、夏の会が朗読劇「夏の雲は忘れない」という題名で全国をまわっている朗読劇の中の子供たちの言葉です。
1985年、戦後40年経った時に演出家であり制作者でもある木村光一さんが、世界で唯一の被爆国の日本の演劇人として何か残していきたい、一緒にやりませんかという声を掛けていただきました。

私は小学校の時、麻布の笄小学校に通っていました。
戦争が酷くなって、小学校4年か5年の時でしたかしら、みんな生徒達は学童疎開で先生に引率されて疎開に行ったり、あるいは縁故疎開で親戚の家に疎開したりして、何百人もいた生徒が1つのクラスで15人ほどになってしまいました。そんな時に珍しくよそから生徒が入ってきたんです。その子は私と家が同じ方向なもんですから。
その頃の小学校の男の子と女の子は口をきいたりしません。おはようとかこんにちは、も言わないです。目もほとんど合わせないですね。なんとなく後になり先になりしたりしながら、学校に通ったり、学校から帰ってきたりしていました。
 その子が急にいなくなっちゃったんです。ああ、あの子もやっぱり疎開したんだなと思っていました。でも私は、なぜかその子のことが忘れられなくて、ずっと戦争が終わってからも探していましたけれども、わかりませんでした。
ご対面番組というのに出て、探してもらいました。
当日、カーテンの陰から出てきたのは、年を取られた、その子のご両親でした。東京が、空襲が激しくなってきたので広島の祖母の家に疎開させました。そして8月6日、あの日、タツオは、中学1年になったタツオは作業に出かけて、建物疎開という作業に仲間と一緒に出かけて。そして彼が働いていた場所は、原爆が落ちた直下だったそうです。遺体はおろか、遺品も目撃者もいないので、35年経った今もお墓をつくることができません。そう淡々と話してくださいました。私はその話を聞いて、泣きはしませんでした。でも泣く代わりに、なんかすごい塊が胸の中にぐんと残って、それをずっと抱えていた時に木村光一さんからの朗読劇のお話を聞いて、もう真っ先に手を挙げました。ぜひ一緒にやらしてください、そして資料として送られてきたたくさんの本の中から1冊「広島二中一年生322人全滅の記録 いしぶみ」というご本がございました。   
もしやと思ってその巻末をめくりましたら、322人の生徒の名前が全部書いてあって、その中にタツオ君の名前がありました。その時の思いが、それから今日まで、今年まで35年間、私を支えてきてくれたんだと思います。
この子達の夏から始まって35年目の今年、寄る年波には勝てず今年、幕を下ろすことになりました。ほんとに残念です。でも「夏の雲は忘れない」になってからは、子供たちの声をたくさん台本に取り入れて、色んな中学校、高校、たくさんまわらせていただきました。若い人たちにも聞いていただきました。その若い人たちの中から、私たちが作った時は、みんな戦争経験者です。戦争の辛さを、愚かさをよく知っている私たちが選んだ台本と、まったく戦争を知らない若い人たちが選んだ新しい台本で、きっと後に続いて、この広島、長崎のことを伝えてくれることを信じて、そして願っております。


夜はとっても寒かった、川の水はおいしいね
兵隊さん、ぼくたちがどんな悪いことしたの
お母さん、文子はもうすぐ死にます。私のお墓の周りには、いっぱいお花を植えてください
父ちゃん、母ちゃん、おだいじに、満十三歳、広島一中 壇上竹秀
本当にお浄土はあるの? そこにはヨーカンもあるの?
できるだけボクのそばにいて、はなれないでね
おかあちゃーん、おかあちゃーん
いままでわるかったところを許してね、母さん。よか場所ばとっとくけんね
ねえちゃん、目が暗くなった
母さん、戦争だものね              朗読劇「夏の雲は忘れない」より

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