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「原爆資料館 あの日を伝え続ける」(視点・論点)

広島平和記念資料館 前館長 志賀 賢治

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 1945年8月6日午前8時15分、一発の原子爆弾が広島市の上空、約600メートルで炸裂いたしました。人類史上初めて、都市とそこに暮らす人々を標的に、この恐るべき兵器が用いられた瞬間です。
 原子爆弾から放たれた数千度の熱線は、一瞬にして街を火の海と化し、熱線を浴びた人々は黒焦げとなって死んで行きました。即死を免れた人々も、焼け焦げた自らの皮膚を体からぶら下げて逃げ惑いました。

猛烈な爆風は、家々をなぎ倒し、人々を押し潰しました。
そして、大量の放射線は人々の体内深く入り込み、辛うじて生き残った人々を未だに苛み続けています。

 広島平和記念資料館、いわゆる原爆資料館は、その10年後の1955年に開館致しました。以来、あの日、きのこ雲の下で何が起こったのか、その記憶を伝え続けてきました。
 資料館は今年4月に、十数年に亘る検討作業を経て、展示を全面的に見直してリニューアルオープンしました。本日は、新しい展示の概要、そして資料館が、ひいては被爆地ヒロシマが直面する課題について、お話を致します。

 まず、資料館の原点ともいうべき出来事についてお話をいたします。それは被爆の翌日、8月7日に遡ります。出張先から勤め先の広島文理科大学に向かっていた一人の地質学者が、熱線に溶かされた石の表面の異常に気づき、通常の爆撃によるものではないと確信します。後に初代館長となる長岡省吾氏です。彼は、直ちに瓦礫を拾い集め始めます。爆心地の周辺です。体調を崩しながらも焦土を歩いて集められた資料は、その後広島市の公民館の一室で展示されます。
 当初は、「拾い屋」と嘲笑っていた市民の中からも、次第に協力者も現れ、また、集められた資料の価値に気付いた広島市によって小さな「原爆記念館」が作られるなど、被爆資料の収集が理解されるようになってきました。
 彼の執念は、やがて「平和記念公園」の中心施設となる、資料館の建設へと引き継がれることになる訳です。
 今回の全面的な展示の見直しは、収蔵資料の劣化、施設の老朽化、海外からの来館者の急増など、さまざまな課題が背景にありましたが、大きなポイントは、二つの建物で構成される展示施設の位置付けと来館者の動線でした。

 本館は被爆した資料と遺品という実物資料の展示、東館は被爆に至る歴史的経緯、核兵器の現状など学術情報の展示という位置付けでした。展示の動線が東館から始まっていたため、後半の本館の見学時間が極めて短いことが分かりました。
 時間をかけて見て頂きたいのは本館の展示です。
 そこで動線の変更、さらに展示そのものを検討することにしました。
 その結果、感性を研ぎ澄まして遺品と向き合う本館にまず入り、次に東館で医学、物理学、歴史学などの学術的情報を知るという、動線の変更と二つの館の性格づけをしました。

 作業を進める際、私達スタッフの脳裏を常に過ぎったのは、冒頭述べた初代館長の執念と共に、地元新聞の論説委員、金井利博氏が残した次の言葉です。
 「原爆は威力として知られたか 人間的悲惨として知られたか」
 確かに、海外からの来館者は、上空から撮影されたキノコ雲の写真はよくご存知でしたが、そのキノコ雲の下でどんなことが起きていたのかは、殆どご存知ありませんでした。
 本館の展示では、この人間的悲惨を表現することに力を尽くしました。

 本館は、二つのゾーンで構成されています。1つは「8月6日の惨状」です。被爆者の視点であの日を再現することを目指しています。実物資料を中心とした展示は、あの日、あの場所に確かに存在した資料によって、声なき声で事実を伝えているはずです。
 もう1つの「被爆者」のゾーンでは、一つ一つの遺品と、亡くなった方と向き合って頂けるよう工夫しております。ここでは、原爆が広島から何を奪っていったのか、についても思いを馳せていただけるかも知れません。そしてあの瞬間まで、一人一人の暮らしがあったこと、それぞれの遺品に、犠牲者の苦しみや遺族の悲しみ、さまざまな思いが託されていることを感じとって頂けることでしょう。

 また、今回新たに設置された多数の朝鮮人、中国人、アメリカ兵捕虜など外国人被爆者の被害を伝えるコーナーでは、原爆による殺戮の無差別さを改めて感じていただけるのではないでしょうか。

 本館の展示は、かろうじて死を免れつつも、あの日の記憶を引き摺りながら生きてきた様々な被爆者の苦しみの物語で終わります。
 本館の展示には、最低限の説明しか用意されていません。展示された資料と静かに向き合っていただくためです。そこで感じるのは、無言の問い掛けかも知れません。
 来館者は、その問いかけを反芻しながら、東館へ導かれます。

 展示の更新に当たって、私自身が常に念頭に置いていたのは、次の言葉でした。
私がある大学で講義をした際の学生の感想です。6日の夕方、18歳の被爆した女性の出産時に使用された道具を紹介しました。


(メモを手に取り朗読) 
『確かにあの日、私達と同じ人間が生きていて、確かにあの時出産し、生まれた「個人」というものが存在し、そして遺品がたくさん残っている。
 今までどうしても、「過去のこと」「過去に起きたこと」という、まるで歴史の勉強のようにしかとらえられていなかったが、遺品の写真を見て、細かい話を聞いて、ものすごく心が痛かったし、自分が恥ずかしくなった。
 驚いたことに、私はうんざりしていた平和資料館に改めてもう一度行きたい。
確かにそこにある遺品を見て、確かに感じたい。多くの人が、もっともっとそう考えるようになって欲しい。』
(朗読おわり)

 この学生の言葉によって、次世代の人々に記憶をつなぐために、遺品がどれほど大きな力を持つのか、改めて教えられました。

 当初、被爆した石や瓦が中心だった収蔵資料は、被爆者や遺族からの寄贈によって種類も点数も増え、現在は約2万点に上ります。
 しかし、数千度の熱線ととてつもない爆風に襲われ、膨大な放射線にさらされた被爆資料は、通常の経年劣化より遥かにその度合いが進んでいます。現在資料館が直面する最大の課題です。

 それ以上の課題が、被爆者がいなくなってしまう時代を迎えることです。資料館は、ある意味被爆者の支援をいただきながら運営されてきたわけですが、間も無くそれは期待できなくなります。
 その後は、学術機関や研究者の支援、内外の博物館との連携という形での運営をするほかなくなります。歴史的事実を直視する博物館としての評価を、今後とも維持していくための仕組み作りが求められます。
 このことは、被爆地ヒロシマそのものについても言えるかも知れません。当事者がいなくなった時代の広島、むしろそのことが最大の課題かも知れません。

 広島は、74回目の8月6日を迎えようとしています。
私は資料館の館長として、何年もこの日を、早朝から夕刻まで平和公園の中で過ごしてきました。館長を退任した今年は、公園の外を、広島の街がどのように8月6日を迎えているのか、改めて見てみようと思っています。

 あの日を、あの瞬間を体験した人々が繰り返し語るのは、あの瞬間、何も聞こえない、全く音のない世界が訪れたことです。
 恐ろしいほどの静寂。爆発時刻は8時15分です。
 どうか、74年前広島で何が起きたのか、お一人お一人、キノコ雲の下の出来事に思いを馳せて頂くようお願い申し上げて、私の話を終えさせていただきます。

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