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「製鉄の起源を探る」(視点・論点)

中近東文化センター附属アナトリア考古学研究所長 大村 幸弘

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 私は1985年から、トルコ共和国の遺跡で、考古学の発掘調査を行なっております。
今年で35年目を迎えました。長きに渡って発掘を続けていく中で、「製鉄の起源」という、世界史の通説を覆す可能性のある発見にも出会うことが出来ました。
 今日は、私がこれまで続けてきた発掘調査の内容をご紹介するとともに、製鉄の起源が変わるかもしれない「歴史の転換点」について、お話ししたいと思います。

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 私が発掘調査をしているフィールドは、トルコのほぼ中央部に位置する、カマン・カレホユックという遺跡です。この遺跡は、首都のアンカラから南東100キロに位置し、台形の形をしており、その中には約1万年の歴史が含まれていることが明らかになっております。
 調査の目的は、「文化編年の構築」、つまり「年表」を作成することであります。東西文明の接点で、トルコ共和国の小アジアと呼ばれるアナトリア高原。そこで文化が積み重なる遺跡を上から掘り下げることにより、土器、青銅器、鉄器等の出土地点を確認し、それらを順序良く並べ、歴史の変遷の背景を読み取ることが出来るのではないかと考えております。

 この35年間で、約4400年の「年表」を作成することができました。

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第I層が15世紀から17世紀にかけてのオスマン帝国時代、ビザンツ帝国時代、第II層は、3200年前から2340年前までの鉄器時代で、フリュギア王国時代、アケメネス朝ペルシャ時代、ヘレニズム時代等が含まれております。第III層は、4000年前から3200年前までの中期・後期青銅器時代で、アッシリア商業植民地時代、ヒッタイト古王国時代、ヒッタイト帝国時代、そして第IV層は、4400年前から4000年前の前期青銅器時代後半で、アナトリアで都市国家が成立した時代でもあります。

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 さて、今年3月に、カマン・カレホユック遺跡から世界最古の鉄製品が出土したという報道がありました。ご存知の方もおいでになるかもしれません。この鉄製品は第IV層から見つかりました。

これまで製鉄の起源は3500年前から3400年前、つまり、ヒッタイト帝国時代にあると考えられてきました。
ヒッタイト帝国は、製鉄技術を他国に広がらないよう秘密裡に死守し、鉄器を駆使しながら、3500年前から3200年前、古代中近東世界で一翼を担っていたとされています。
一時はナイル河流域に本拠地を置いていたエジプト王国と対等の立場になるほどの勢力を持っていたというのですから、相当の力を兼ね備えていたことになります。

 私自身、現在の遺跡で発掘を始める前の1970年代には、調査研究に10年近くを費やした後、製鉄はヒッタイト帝国の都に近いアラジャホユックであるとする仮説を打ち立てました。

 1985年、カマンで発掘調査を始めてからも、私はこの仮説が正しいか否かを常に考え続けておりました。もし、製鉄が「秘密裡」にアラジャホユックで行なわれていたとすれば、カマンでは、製鉄に関する資料、特に「鉄滓(てっさい)」などは見つかるはずはないです。「鉄滓」とは、製鉄の際に出てくるカスのようなものですから、それが見つかるとなると、そこで製鉄が行なわれていたとする証拠にもなります。
 したがって、ヒッタイト帝国時代をさかのぼること約1000年前のカマンの文化層から、鉄製品を始めとして「鉄滓」が出土し始めた時には驚きましたし、発掘を間違えているのではないかとも思いました。
 これらの出土遺物は、ヒッタイト帝国が「秘密裡」に帝国内のアラジャホユックで製鉄が行なわれていたとする、これまでの私の仮説を完全に引っ繰り返すほどのものでありました。

 このように、自説を否定し、新たなる説を唱えることが出来た背景には、カマン・カレホユックで「年表」作成のテーマを一度も変えることなく、最も基本的な発掘方法と、整理作業を続けてきた結果ではないかと考えております。

 初めにお話ししたように、カマンの発掘調査目的は、「年表」を作ることであります。

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 作り上げるには、表層から数センチずつ掘り下げ、出土した遺物を順序良く並べていくことが基本になります。単純なことのようですが、この作業を丁寧に、そしてコツコツと続けてゆく中で、ろくろの技術がいつから始まったのか、彩文土器がいつから始まったのか、アナトリアでの文字使用はいつから始まったのかなど、時代の前後関係が一目瞭然となります。ですから、今回の「製鉄の起源」に対する新たな仮説も、こうした作業の中から生まれてきたものといえます。

 ただ、この単純ともいえる発掘調査、出土遺物の整理は多くの人手を必要としますし、数年で結果が出るようなものではありません。この作業を支えてくれたのが、発掘現場の側にあるチャウルカン村の人々でした。

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 最初のうちは労働者として発掘に参加してもらっておりましたが、調査を開始してから数年したところで、彼らの中には、いち早く発掘技術を修得する者や、出土した建築遺構、遺物等の図面を描く上で、驚く程の才能を持ち合わせた労働者が数多くいることに気が付きました。
 「なぜ一万キロメートルも離れた日本からアナトリア高原までやってきて発掘をするのか」と、何度も彼らから質問をされたことを覚えております。日本人は「財宝」を探しに来ていると思っていたようです。

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 発掘の目的の説明には大分手間取ってしまいましたが、毎週土曜日の12時から1時まで、発掘現場で作業をしている人たちに考古学の授業を行い、今ではその問いをほとんど耳にすることもなくなりました。
 彼らと何度も会話を交わすうちに、発掘調査は決して研究者だけのものではなく、彼らの生活の場所でもあり、彼らが将来、遺跡や出土遺物を守る主体者であることに気が付きました。そして彼らが集える場所、考古学博物館、さらには研究施設の建設の必要性を強く感じるようになりました。

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 多くの方々の支援をもとに、1993年に三笠宮記念庭園、2005年にアナトリア考古学研究所、2010年にカマン・カレホユック考古学博物館が完成しました。
 一つ一つ建物を建設する中で、多くの村人の働く場所が生み出され、過疎化が進んでいたチャウルカン村に再び活気が出てきたのは、私にとって大きな喜びでした。1993年に建設した三笠宮記念庭園は、当初は年間1500人程度だった来園者が、昨年は10万人近くまで増えてきております。子供から大人まで、歴史、文化財に関心を持って貰う地域の交流の場となっております。

 35年にわたる発掘調査を通して、私はこれまで唱えてきた製鉄に関する仮説が崩れ、新たな仮説が生まれ、それが「歴史の転換点」を考える上で大きな役割を演じるのではないかと思っております。

 発掘調査に終わりはありません。現在、カマン・カレホユック遺跡では、鉄製品、鉄滓が出土した層よりさらに下の層を盛んに掘り下げているところです。これからも発掘調査を継続して行って参りたいと思っております。その先には、また新たなる仮設が生まれてくるのではないかと期待しております。

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