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「キトラ古墳壁画から考える古代絵画」(視点・論点) 

神戸大学 名誉教授 百橋 明穂(どのはし あきお)

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 奈良県明日香村のキトラ古墳壁画が国宝に指定されることとなりました。きょうは、キトラ古墳壁画の歴史的意味と美術史的重要性について三つの論点から考えてみたいと思います。
まずは高松塚壁画との比較検討です。そして、それによって判明するキトラ古墳壁画の特殊性。次いで東アジアの壁画墓の時代的推移と図像的な検討をします。さらにキトラ壁画の時代性とその被葬者への視点で考えてみたいと思います。

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まず、初めに高松塚古墳壁画とキトラ古墳壁画の比較です。終末期古墳とされる古墳の墓室内から最初に壁画が発見されたのは、奈良県明日香村の天武持統陵のほぼ真南に位置する高松塚古墳でした。1972年3月の発掘調査で、南壁の朱雀を除く四神図、天文図のほか、後に飛鳥美人といわれるようになった男女群像など、驚くべき大発見がありました。当時、中国大陸・朝鮮半島には存在する壁画墓は、日本にはないものと思われていたので、この壁画墓の出現は、日本も同じ東アジア文化圏にあることの証明として大きな意味を持ちました。同じ明日香村のキトラ古墳は、高松塚古墳よりさらに南にあります。
高松塚壁画発見から11年後の1983年、高松塚古墳の時の経験を踏まえ、慎重を期して墓室内部の調査が始められました。

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1998年には、東壁の青龍、西壁の白虎、天井に天文図などが精密な画像で確認されました。この時、四神図の内、白虎図は、高松塚の白虎とはその向きが反対であることが明らかになり、研究者を驚かせました。

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2000年には、南壁にうがたれた盗掘孔がやや西にそれていたため、南壁正面には高松塚壁画にはなかった朱雀が発見され、保存状態も良く、四神が完存していることが判明しました。
朱色をした尾の長い雉に似た鳥が地上を力強く疾駆して飛び立とうとする躍動的な姿は東アジアに先例のないものでした。

また高松塚とキトラの四神図を見ると、その表現描写の相違に目を見張ります。

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高松塚壁画の四神図では、全体に肥痩・濃淡の少ない描線と丁寧な描写が認められます。一方、キトラ壁画の白虎では激しい描線と躍動的な動きが感じられ、やや荒々しい描線が特徴です。殊に力強く爪を立てて踏ん張る前足や顔のどこか戯けたような表情が豊かに描かれています。尾を後ろ足に絡める図像は中国でも例の少ない珍しい図柄であり、高松塚とキトラとは、同じ手本から描いていることは間違いないと考えます。まずはお手本を忠実に引き写し、その図像に習熟した後に、手慣れた描線で活写したとみることができます。
2000年からは保存対策のための調査研究委員会が設置され、壁画の保存のために慎重に内部調査が進められました。
その予備調査の中で、飛鳥美人ならぬ、十二支像が四神図の下方に描かれていることが発見されました。初めは東壁の東北にあたる位置に虎の頭をした獣頭人身の像が見いだされ、これが十二支の「寅」であると判明しました。北壁の「子」から順に十二支が四周壁を循環していると推定され、この四神と十二支の発見は、キトラ古墳壁画の史的重要性を示唆するものでした。
さらに興味深い発見がありました。

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それは南壁の十二支にあたる「午」の像を剥がしたところ、そこには真っ赤な顔料に衣を包まれた「午」の像がありました。これにより、南壁は朱雀も十二支の「午」も赤く彩られていたことが判明したのです。すなわち北は玄武の黒、東は青龍の青、南は朱雀の赤、西は白虎の白となります。四神・十二支の彩色の色分けも理解されていたのです。

 これら一連の調査によって、四神図が完全に存在していること、また高松塚四神図とは、ほぼ同じ図様でありながら、白虎の向きが反対であること、しかしながら男女群像は見いだされず、それに替えて十二支像が描かれていたことがわかりました。

 あらためてキトラ壁画の特殊性から見えてくる歴史的視点から考えてみます。東アジアの墓葬思想、つまり墓をつくる考え方を踏まえて、キトラ壁画と高松塚壁画の図像的な違いの意味するところを指摘したいと思います。四神図の図様と大きさはほぼ同じで、同じ手本によっていると考えていいと思います。しかし、西壁の白虎の向きが逆でした。高松塚では東壁の青龍と、西壁の白虎はいずれも頭を南に向けています。つまり北に正殿を置き、すべてが南面するという中国での古来からの発想です。
日本でも、平城京・平安京では、天皇のいる内裏は北端に位置し、朱雀大路が南へと延びています。しかしキトラでは白虎のみが頭を北に向けています。つまり四神はあたかも四周を循環するように変更されているのです。
さらに男女群像ではなく、十二支像であったことの意味を考えてみます。墓主の生前の生活を、人物を交えて描くことは中国の壁画墓では古来から珍しくありません。しかし十二支像は思想的には古代からあるものの、墓室内に絵画・塑像で表現されるのは、隋代から始まり、比較的新しい図像です。まず東西南北の方位を表わし、さらに時間や年代を計る時の基準とされ、十二で一周する。四神と十二支とが合体して、空間だけではなく、時間を巡る構図となったのです。四神に十二支が加わることによって、大きく構図が変化したのでした。高松塚とキトラの間には、大きな図像的意味の変更、さらには東アジアにおける時代的推移を見ることができるのです。

 天井には高度な科学的天文図が描かれ、高松塚と比べて極めて精密なもので、東アジアでも他に類例がなく、天文図としては最も早い時期の作例であることが判明しました。
最新の科学技術のみならず、大陸における最新の墓葬知識を導入することによって造営されたキトラ古墳の墓主はいかなる被葬者だったのでしょうか。多くの議論があります。身分の高い皇族や貴族といった人を想定する向きもありますが、壁画があることが、被葬者の身分の高さを意味するものではありません。七世紀末・八世紀初めの天武・持統・文武朝時代の海外との交流や文物・技術の輸入などの当時の日本の状況を踏まえると、被葬者、あるいは造営を指揮した人物、また壁画を描いた画師はかなり特異な役割や出自をもった人物ないしは集団と考えられます。キトラ古墳の壁画が示す展望は、単なる美術史の視野に留まらず、古代の東アジア世界に大きく広がるのです。

 墓室内部の保存処置と発掘調査実施に当たっての課題について検討が重ねられました。2004年には、壁画の描かれた漆喰層がその土台となる石壁から剥離したり、剥落の恐れのある箇所が多数あり、極めて危険な状態にあることが報告され、壁画すべてを剥ぎ取ることに決定しました。困難な剥離作業が進められ、大部分の壁画が剥ぎ取られ、環境の整備された中で、保存・修復を行うことになりました。
国宝としての保存と活用について、壁画は石室から採取された小さな細片のため、公開展示には制約があります。また遺跡としての古墳と、石室内の壁画との関連を示す展示も求められると思います。

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