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「両陛下の歌に見る『象徴』の意味」(視点・論点)

歌人 永田 和宏

私は平成という時代のちょうど半分、平成15年より「宮中歌会始」の選者として「歌会始」に関わらせていただいてきました。 両陛下は折に触れて多くの歌を詠んでこられましたが、それらの歌を読みなおすことによって、平成という時代のなかで、両陛下が「象徴」としての責務をどのように果たして来られたのか、あるいは「象徴」ということをどのようにお考えになってきたのかが、おのずから見えてくるような気がいたします。
今日は両陛下の歌に表れた「象徴」の意味について考えてみたいと思います。
時間の関係から、二点だけについて取り上げ、考えてみたいと思っております。

 平成という時代が始まって、すぐに起こった大惨事は、雲仙普賢岳の噴火でした。その大噴火が起こったのは、天皇が即位された、そのわずか5日後、平成2年11月17日のことでした。
 そして翌年、平成3年6月に、その火口から大火砕流が発生し、多くの死者や建物の被害を出しました。この火砕流が猛烈な勢いで山を奔り下る様子が、初めてリアルタイムの映像としてテレビで伝えられた時の衝撃は忘れられません。

 まだこの噴火が続くさなか、両陛下は島原市や深江町の避難所に直接赴き、被災者を慰め、また激励をされました。この時、陛下の詠まれた歌に、次の一首があります。

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 人々の年月かけて作り来しなりはひの地に灰厚く積む  天皇陛下 平成3年

人々が営々として守ってきた生活の場を、火山灰が無情にも厚く覆ってしまっている惨状を詠まれたものです。

 この被災地訪問は、国民に大きな印象を残しました。それは被災者らの待つ体育館で、両陛下とも膝をついて、被災者と同じ目線で話を聞き、そして励まされたことでした。

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わが国の天皇制の歴史のなかでも初めての光景であり、それがテレビで全国に流れたことは大きなインパクトとして、私たちに記憶されることになりました。
 そのスタイルは平成という時代のなかで一貫して貫かれたということができます。両陛下は、平成7年1月17日の阪神淡路大震災のあとにも、平成23年3月11日の東日本大震災のあとにも、被災地を訪問されました。東日本大震災の折には、高齢にも関わらず7週連続の訪問が続くことになりました。

 そんな、それぞれの場で被災者を思う歌が多く作られましたが、一首だけ、今年の歌会始に出された天皇陛下のお歌をご紹介します。

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 贈られしひまはりの種は生え揃ひ葉を広げゆく初夏の光に  天皇陛下 平成31年

 この一首は、阪神淡路大震災の「はるかのひまわり」を詠まれたものです。あの大震災で、小学6年生だった加藤はるかさんが亡くなりましたが、翌年その庭に十数本のひまわりが生え、奇跡的に花をつけたのだといいます。その種は全国に配られ、「復興のシンボル」ともなりましたが、震災十周年の追悼式典で両陛下にも贈られました。両陛下はそれを御所のお庭に蒔き、毎年大切に育ててこられたといいます。

 ここには大切な意味が籠められています。それは両陛下の被災地訪問は、決して一度行ってそれで終わりという、一回きりのものではないということ。このひまわりに見られるように、被災者、あるいはその犠牲者のことを、両陛下はいつまでも思い続けておられる。心は常に被災者、犠牲者とともにある。それが、両陛下が平成という時代を通じて向き合ってこられた、「被災者とともにある」ということだと思うのです。
 私は、政治家がことあるごとに「寄り添う」という形だけの言葉を発することに嫌悪感を覚える者ですが、現代の日本にあって「寄り添う」という言葉を、もっとも、その本来の意味において体現しておられるのが、両陛下の被災者への思いなのではないかと思っております。

 両陛下の積み重ねてこられた大切な仕事のいま一つのものは、戦争犠牲者を悼むという行為であります。天皇陛下は、8月15日の終戦記念日、広島、長崎に原子爆弾が投下された8月6日と9日、それに沖縄戦の終結した6月23日、これらは、決して忘れてはならない4つの日として、どこにおられても必ずお二人で黙とうを捧げてこられたといいます。

 そして終戦何十年といった節目の年には、お二人で多くの戦跡をまわって、慰霊の旅を続けて来られました。広島、長崎、沖縄を初め、サイパン島、ペリリュー島といった海外の戦闘の跡をも訪ね、供花をされ、慰霊の祈りをささげてこられました。数えきれないほどの両陛下のお歌がありますが、皇后陛下の一首だけを紹介しておきます。

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 いまはとて島果ての崖踏みけりしをみなの足裏思へばかなし 皇后さま 平成17年

 この一首は、戦後60年にあたる平成17年6月に、サイパン島を訪れられたときのお歌です。サイパン島は、昭和19年、多くの日本兵が戦死をし、あるいは玉砕をした地として知られています。民間人の犠牲者も多く出ました。
皇后さまの一首は、スーサイドクリフ、あるいはバンザイクリフと呼ばれている断崖に立たれ、映像にも残っているように、日本女性が崖から飛び降りた景を思い出して、詠まれたものと思われます。崖を踏み蹴って、海へ身を投げた女性の「足裏」を思っておられるところに、繊細な感性を感じとることができます。悲しく、しみじみと身に沁みる歌であります。

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 このような国内外の慰霊の旅が、平和を希求される両陛下の強い思いから出ていることは言うまでもありません。平成という時代は、近代日本の歴史のなかで、唯一戦争のなかった幸せな時代でした。その大切さを誰よりも強く感じて来られたのが両陛下であったのかもしれません。
 
 私は、ここで被災地への慰問と、戦跡への慰霊、この二つの旅を取り上げました。しかし、これら二つの旅は、実は両陛下にとっては同じ意味を持つものなのではなかったかと思われてなりません。

 それは、どちらの行為も、国民に「寄り添う」ということの二つの側面なのだと思うからです。まず、直近の大惨事の犠牲となった人びとを悼み、被災者に寄り添うというのは、いわば「共時的」な寄り添い方であると言うことができます。同じ時間のなかで声をかけ、激励をするのだと言えます。
 一方、戦争で犠牲になった人びとを悼み、またその遺族の思いに耳を傾けるという行為もまた、寄り添うという行為なのではないでしょうか。こちらは「通時的」、すなわち時間を越えて寄り添うということでもあります。時間軸を遡って犠牲者を悼む、そんな辛い過去の記憶とともに生きてきた遺族の心に寄り添う。それが慰霊の旅の本質であったのではないかと、私は思っています。

 「共時的」な被災者への寄り添い方も、「通時的」な戦争犠牲者や遺族への寄り添い方も、どちらも天皇皇后両陛下にとっては、等しい意味を持った、人びとへの寄り添い方であったのではなかったかと思っております。そして、そのように人々とともにあること、人びとに寄り添うことこそが、両陛下が長年にわたって模索してこられた、「象徴」ということの本質であり、帰結だったのではないかと、私には思われてなりません。

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