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「縄文時代の社会の仕組みと継続性」(視点・論点)

明治大学 教授 阿部 芳郎 

近年では土偶や装飾性の高い土器などの芸術性が注目される縄文文化ですが、これらを道具としてもちいた彼らはいったいどのような社会に生きたのでしょうか。縄文時代とは狩猟採集社会と呼ばれる経済段階に位置づけられ、身の回りの自然に頼った生活をした時代と考えられています。近年の縄文時代研究は、遺跡から出土する土器や石器などの道具や貝殻や骨や木実、あるいは人骨などを対象とした様々な研究を統合して過去の人類史を詳細に読み解くことができるようになりました。そして、これらの分析には理化学的な分析研究も大きな成果をもたらしています。
 今日は近年の縄文時代研究の中でも、社会のしくみや継続性を焦点とした研究の新しい成果についてお話しすることにします。

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 世界各地に展開した人類文化の変遷を見ると、狩猟採集社会のあとには農耕社会が登場し、やがて国ができる場合が圧倒的に多いのですが、その中でも日本列島は農耕社会の成立が世界の中でも極めて遅かった特徴があります。このことは言い方を換えれば狩猟採集社会である縄文時代が長く続いたということです。この事実を日本の歴史の中でどのように理解すべきでしょうか?
考古学では2つの考え方があります。第1に日本は島国であるために大陸の文化からは切り離されて発達が遅れたというもの。第2として、そうではなく豊かな森と海に囲まれた環境に適応した技術は、農耕を必要とすることのない文化を築いたというものです。
近年ではあらたな発見から、縄文文化が原始的な狩猟採集社会のなかでも豊かな発達を遂げたと考えられるようになってきました。まず縄文文化の変遷について概観してみましょう。

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まず、縄文時代を文化変化の質的な変化を示す土器の使い方や作り方に注目して6つに区分してみました。そして各時期の時間幅をその時代に使われた縄文土器に付いたすすの炭素の年代から整理すると、一目してわかるのは、縄文文化が時代の流れとともに加速度的に変化を遂げていることです。  
とくにスピードを早めるのは約6000年前以降の時期です。たくさんの竪穴住居を作って定住的な集落が各地に普及する時代に相当します。そして以後も加速度的な変化が進み縄文時代の終わりの頃と最初では15倍もの変化速度の違いが認められるのです。

 次に彼らの食べ物に注目してみましょう。四季折々に採れる資源が変わるのが温帯地域の生態系の特徴です。さまざまな身の回りの資源の中でもっとも重視されたのは、ドングリです。
ドングリはあくを抜いて、製粉し団子やクッキーのようにして食べたことが出土遺物から分かっています。これらは貯蔵して少しずつ食べたものと考えられ、消費期限を長くすることによって、いつでも様々な食料を食べることが出来るように準備したのです。すなわち、貯蔵技術の発達が安定的な社会の経済的基盤となっているのです。
近年では出土人骨に含まれるコラーゲンから彼らが生前に肉や魚介類や植物などをどの程度食べていたかということが推定できるようになってきました。縄文人の食べ物であった動物や植物は含まれる炭素と窒素の同位体は固有の割合をもちます。
同位体とは同一原子番号を持つものの中性子の数が異なるものです。多くのものは不安定であり時間が経つと崩壊するので、放射性同位体と呼ばれます。しかし、この同位体の一部には安定に存在するものがあります。これを安定同位体と呼びます。

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自然界で食物連鎖の頂点に立つ人間の体は、食べ物からえられた物質からできあがっているため古人骨に含まれる窒素と炭素の安定同位体の割合と比べると、その人物が生前に何をどの程度食べていたのかを知ることが出来ます。グラフの縦軸は窒素の、横軸は炭素の比率を示しています。
その分析成果を見ると、本州縄文人の主食が植物資源を中心に魚介類や陸上の動物などの様々な食料を組み合わせていたことがわかっています。
またやや細かく見ると同じ東京湾に面していながら、極端に様相の異なる貝類の利用形態があることもわかってきました。数の上で多数の巨大貝塚が台地上に残されるのは千葉県側です。環状貝塚といわれるように、環状に配列した住居の周囲に貝殻を捨てて出来た貝塚です。これは海の資源は集落単位で採取・消費されたことを意味します。
 一方、東京の都心を乗せる武蔵野台地側では、台地上に多くの集落が河川沿いに分布していますが、中里貝塚という当時の浜辺に残された巨大な貝塚が1か所残されるだけで、海際であっても台地上に大きな貝塚はありません。

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4・5mもの厚さの貝層が長さ500mにもわたって海辺に堆積しているのですが、その中身はカキの層とハマグリの層が繰り返し規則正しく堆積しています。しかもその貝の大きさは千葉県側の貝塚と比較すると極めて大きなものばかりなのです。武蔵野台地の集団は利用する貝を大型のハマグリとカキに限定しています。これは海の資源管理に地域差があったことを示しています。そして中里貝塚で採取された大型のハマグリとカキは干貝に加工され内陸のムラに流通させていたのです。このように狩猟採集社会であっても、それぞれの土地に住んだ縄文人たちには資源の利用技術の違いがあることがわかってきました。

 それでは彼らはどのくらいの時間、同じ場所に住んだのでしょうか。縄文時代後期の遺跡から出土した多数の人骨の年代を測定すると、これらの人骨群は1000年の時間幅をもつことがわかってきました。集落遺跡の継続期間が極めて長期に及ぶ証拠です。狩猟採集社会といえば生活も不安定で、そのために住む場所も転々と移動するようなイメージがありますが、きわめて安定的な社会を形成していたことがわかります。
 この時期のムラは5~6軒程度の住居によって営まれていました。人口は30人程度でしょう。ここで彼らは2つの工夫をしていました。1つは様々な労働に全員で取り組むのではなく、それぞれに分担を決めていたのです。社会的な分業といいます。また、縄文人は装飾品としての翡翠や海の貝、接着剤としてのアスファルトなど遠隔地からの資源を入手しています。こうした事実は、遠隔地にまで及ぶ広域な流通ネットワークが存在したことを示します。一方、文化や社会の発展は潜在的な資源量を超える消費の増大が社会崩壊の原因になることが予測できます。そのために集団の規模を適正に維持し、周囲の資源量の管理や分業やネットワークの利用で適度な人口規模を維持していたと考えることができるのです。
 さらに貝塚の研究で紹介したように、資源を管理する場所を周囲に配することによって、資源の入手に大きな移動をともなわない空間を作ったのです。近年では遺跡周囲の野生のマメやクリなどが大型化していた事実も明らかにされ、彼らは海や山の多くの資源について管理していたこともわかってきました。

 縄文人は農耕に頼らなくても適度な人口規模で消費規模を低減させ、自然の回復力を維持し、集団の中で労働を分担し、さらに遠隔地との間をつなぐネットワークを作り持続可能性社会を営んだのです。こうした縄文時代の社会の仕組みは、農耕社会以前の狩猟採集社会の実像を考える際に重要になるだけでなく、環境破壊や資源の浪費が叫ばれる現代社会の将来を考える場合、私たちに大切な指針を与えてくれていると思います。


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