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「シリーズ・次世代への遺産 肥田 舜太郎」(視点・論点)

日本原水爆被害者団体協議会 代表委員  田中 熙巳

今年3月、医師の肥田舜太郎先生がお亡くなりになりました。先生は広島で被爆し、軍医として多くの被爆者の救護にあたり、生涯、被爆者に寄り添った医療活動と国民の医療の民主化に尽くされました。また、核兵器の存在は人道上許せないとの怒りから廃絶をめざし世界を駆けめぐり100歳の長寿を全うされました。

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広島に原爆が投下されたとき、肥田先生は勤務していた爆心地近くの病院を前の晩に離れ、郊外の患者の治療に当たられたのだそうです。そのため生き延びられました。戦後は、陸軍病院から国立病院に転身した柳井の病院に勤務することになるのですが、早い時期に労働組合の委員長に推され、上京して占領下の厚生省とも交渉したことなどもあったそうです。そのためか、レッドパージのうきめにあいました。そのことが生涯を民主医療にささげることになった出発点だそうです。
その後、紆余曲折を経て、全日本民主医療機関の創設者の一人に加わり、人生の後半は埼玉県に創設した医療生協としての埼玉協同病院で最後の医療に従事されました。
埼玉県原爆被害者協議会(しらさぎ会)の事務局長、会長なども歴任され、勤務した院内に被爆者医療外来を設けて、県内被爆者の保健と医療にあたり、一貫して被爆者に寄り添った医療に心掛けられました。温和な性格、強い正義感もあって、被爆者はいうまでもなく、誰からも愛され、信頼された先生でした。
肥田先生と私との出会いは40年前の1976年秋にさかのぼります。「国連に核兵器の全面禁止を要請する第2次国民要請団」の被爆者メンバーとして、一緒にニューヨークの国連本部を訪問しました。
私にとって、この代表団に参加したことはその後の訪米や国連訪問の始まりでもありました。
肥田先生は、原爆症認定集団訴訟運動にも大きな役割を果たされました。
日本被団協は2001年から2011年まで、原爆症認定制度の抜本的改善を求めて、政府を相手に集団訴訟運動に取り組みました。政府の原爆放射線被害の過小評価と戦争の市民の犠牲はすべて我慢せよという受忍を改めさせるための訴訟運動でした。
306人の原告が17の地裁に提訴してたたかいました。
しかし、先生は運動当初、政府の土俵での勝ち目のない裁判運動は反対だと強く主張しされました。それでも、裁判が始まるや原告側証人として証言台に立たれ、原爆の残虐性、非人道性を舌鋒鋭く告発し、しかも人間味あふれる弁論爽やかな証言をとおして裁判官のこころを動かし、その後の裁判の連勝への道を切り開かれました。
そうした肥田先生の持論は、原爆の本当の恐ろしさは低線量放射線にあるということでした。1976年に訪米したとき、低線量被ばくの研究者であったスタングラス博士との討論の機会がありました。被爆軍医として広島での被爆者の治療に当たり、その時からずっと疑問だった内部被ばくの重大さに確信をもたれたそうです。帰国の途上の飛行機の中でポータブルタイプをたたいて報告書を書いておられた60歳の先生のお姿も忘れられません。先生はスタングラス博士の論文や著作を翻訳し普及に努められました。

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2011年3月の福島第1原発の事故に直面した先生は、内部被ばくの影響について、正しい対処をするよう、高齢にもかかわらず、市民に向けて精力的に、献身的な労を払われたことは私たちの記憶に新しいことです。
先生の記憶力抜群なのにはいつも舌を巻かざるをえませんでした。私など足元にも及ばない多忙な先生なのに、予定の記録は自作の5センチ四方の、みすぼらしいメモ帳に、小さな文字でちょこちょこっと記入されるだけ。書き込まれたことはちゃんと覚えておられました。
記憶力抜群に加えて文才も豊かでした。自分史や体験記、海外での遊説記録、被爆者が健康上心にとめる事柄などを読みやすい言葉ですらすらと書きあげておられました。著作の1つである「ヒロシマが消えた日」はドイツ語にも翻訳されました。

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肥田先生は、筋肉の衰えはやむを得ないようでしたが、健康には自信があり、内臓の病気を知らないと自認されるほどでした。100歳の長寿をお祝いした新年会でもすこぶるお元気で、お酒も飲まれ、カラオケも歌われ、久しぶりで一八番のバナナのたたき売りを披露され、周りをハラハラさせるほどでした。100歳は105歳への通過点と話されたことを参加者全員が納得したものです。
先生は私に「どこも悪くないのだよ。面白いね。」と言われ、「先生の顔艶には私もかないません。」などと言葉を交わしました。二ヶ月後の突然の先生の死を思うとウソのようです。
今年の7月7日、「核兵器禁止条約」が条約交渉国連会議で122か国の賛成を得て採択されました。3月に突然亡くなられた肥田先生には見届けてもらえたかもしれないのにと残念です。条約交渉国連会議の開催を知った先生はすごく喜ばれ、「どうなるかな、うまくいくといいね」と期待とともに、むずかしさも気にしておられました。こんなに早く条約が出来上がるなんて、去年の4月、世界に向けて、「すべての国が核兵器を禁止し廃絶する条約を結ぶこと」を求めた「ヒバクシャ国際署名」のよびかけ人9人に加わった私も全く予想できませんでした。
それに加えて、核兵器を禁止し廃絶をめざす条約採択に力を尽くした国際的市民運動(ICAN)に2017年度ノーベル平和賞が授賞されました。
日本被団協が有力候補に挙がり先生と一緒に記者会見に臨んだこともありました。今回の授賞者に日本被団協の名こそありませんでしたが、被爆者の貢献を高く評価しているのは間違いありません。
受賞者を代表して講演したカナダ在住の広島被爆者サーロー節子さんの言葉も世界の人々に感動を与えるものでした。授賞を歓迎する全国の被爆者の喜びを背負って、私も受賞者の一員の気持ちをもって授賞式に参加してきました。

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最後になりますが、国連の交渉会議で採択された「核兵器禁止条約」は50か国以上が署名・批准すると発効します。核兵器保有国と日本を含む「核の傘」の下にある国々は抵抗し、批准しないと表明しています。
核兵器の存在は人類の生存を脅かしています。核兵器廃絶の願いを意志に高め、意志を行動に表し、先生が生涯をささげた「核兵器のない世界の実現」を私たちの手で成し遂げましょう。

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