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「遺体科学 進化の歴史に挑む」(視点・論点)

東京大学総合研究博物館 教授 遠藤 秀紀

ジャイアントパンダの赤ちゃんが東京・上野動物園ですくすくと育ち、日本中の話題を
集めています。私は動物を研究する仕事をしていますが、1999年に、パンダが7本の指を巧みに使ってササをつかむ仕組みを初めて解明し、世界から大きな評価を受けることができました。

一見細かいことが苦手そうなこの動物が、指を掌にいわば追加していくことで、笹をしっかりと持つことができるようになり、タケ・ササという新たに餌となった植物に適応したことを、証明することができたのです。
 私が明らかにしたパンダの手の構造は、パンダの死体を解剖することから得られた発見です。動物の死体というのは、世の中のほとんどの人にとって、まったく別世界の話題でしょう。しかし、生きとし生けるものは必ず死を迎えます。動物園や水族館で多くの人々に親しまれる動物たちも、必ず死んでいくのです。

解剖という研究方法に没頭していた私は、飼育される動物の死体のほとんどが廃棄物として処分されてしまう現実に直面しました。そして、死体を人類共通の宝物にしたいと考え、死体の研究と博物館への収蔵を、自分の研究の基盤に据えることにしました。
今から25年前、私は死体の研究を始めるとともに、未来への発展を祈りながら、この学問に「遺体科学」という名前を贈り、死体研究の歩みを開始しました。
 以来、徹底的に動物の死体を集める毎日が続きます。毎年数百に及ぶ動物の死体を集め続けます。ゾウ、サイ、キリンなど、動かすことができないほどの巨体も解剖し、研究を進めていきます。ある日、オオアリクイの死体を解剖する機会に恵まれました。

長く伸びた顔がユーモラスなこの動物は、地球の裏の南アメリカに暮らし、けっして研究が進んでいる動物種ではありません。私が注目したのはその顎の動きでした。
生きているオオアリクイを見ていても、口を開けている様子は見ることができません。
動物ですから普通に口もあり、当然顎も備わっているのですが、奇妙なことに口を開くことがありません。

私はオオアリクイの死体を前に、顎の精密な解剖を始めました。まず、アリクイの口には歯が一本もありません。ですから、アリクイの顎には、歯を使って餌を噛み砕く機能は無いのです。つまり口をひらいて噛む構造になっていない、これが口を開かない理由です。
ではどうやってものを食べるのでしょうか。

実はアリクイの長い下あごは左右の対に分かれていて、なんと長い下あごを左右別々に動かすことが可能です。
筋肉と関節の構造を精査しCТスキャナーを使って画像情報として解析すると、アリクイは左右の下あごをすぼめたり、ハの字に開いたりすることが明らかになりました。
アリクイは舌(ぜつ) を発射して、アリやシロアリを舌の先端に貼りつけて捕まえます。舌は1メートル近くまで伸びるとても長いものですが、狙いを定めるために、左右の顎をできるだけすぼめて舌を発射しているのです。
逆に捕まえたアリをのどへ運ぶためには、舌を口の中に戻さなければなりません。戻すときは口が大きくないとうまく舌を収納できませんから、顎をハの字に開いて、できるだけ口の体積を広げるのです。
すべての動物にとって、顎は物を噛むために開閉する装置だったはずですが、このアリクイにおいてだけは、アリを捕まえるために、舌と同期・シンクロして動くという、まったく別の機能をもっていることが明らかになりました。

 またあるときは、バイカルアザラシを解剖することができました。
このアザラシはとても眼の大きなアザラシです。解剖の結果、頭蓋骨に収まりきらないくらいに眼球が大きく突出し、鼻づらやこめかみや頬に相当する部分まで、眼球が場所を占めようとしていることが明らかになりました。
バイカルアザラシはロシアのバイカル湖に、いわば封印されて分布していますが、祖先は北極海を泳ぐより一般的なアザラシだったと考えられています。
祖先の眼はそれほど大きくありませんから、北極海から河をのぼってバイカル湖に達してから透明度の高い湖で、遠くまで見渡すことのできる眼球の大きなものが生き残ってきたのだと推測されます。
パンダの手、アリクイの顎、アザラシの眼。
動物の体は長い時間を経て、生息環境や暮らしぶりに合わせて形を変えていくことを、死体が証明したといえます。そうです。研究テーマはまさしく「進化」です。

チャールズ・ダーウィン以来、多くの生物学者を魅了し、また価値観や哲学にすら影響を及ぼしてきた進化の研究に、私は死体をもってして挑んでいるのです。
ヒトはサルから別れて500万年以上を経過して進化してきました。
パンダは祖先のクマ類から別れて2000万年、アリクイはさらにその3倍も4倍もの時間を費やしながら、特徴的な体の形に進化しました。

私が死体から読み解く進化の謎は、こうした気の遠くなるほど長い時間への、真理探究の挑戦なのです。「死体は進化の歴史書だ」と、私は語ってきました。命がもつ悠久の進化の流れは、動物園や水族館で死んでいく動物の体に隠されています。
私は徹底的に死体を集め、まさに歴史書たる死体を読み解くことで、進化の謎を明らかにし、これからも世界に発表していきたいと思っています。
さて、毎年何百という死体を集めたとしても、私が現役の研究者として働ける時間は、高々40年くらいなものです。
その間に発見できることの量と質は限られたものになります。そこで遺体科学は、集めた死体を、発見とともに未来へ送る活動を進めます。それこそ博物館づくりです。

博物館の歴史の深いヨーロッパでは、何百年も前の学術標本が大切に保存され、文化としての基礎科学を支えています。実際、遺体科学の研究はいま生じている死体から発見が行われると同時に、1800年代に収集され、博物館に残されてきた骨や剥製のお蔭で成果を上げてきました。
天地創造を信じて疑わなかった博物学者が、自分の死後200年後に日本人がやってきて、その標本で進化の研究することになるとはまったく想像がつかなかったはずです。これこそまさに、時代を超え世代を超えた、文化の継承に他なりません。
博物館は、死体をはじめ、森羅万象を形作る命の証拠を、標本として未来の世代へ送り、研究を通じて、人類の知識や考えの源になっているのです。「知の源泉」としての博物館こそ、遺体科学が目指す学問の姿です。
毎日、博物館には多くの人が標本を見に訪れます。若い人や年少者が、次々と増えていく学術資料の集積を見て、好奇心を沸き立たせるに違いありません。
遺体科学は、発見と教育を通じて、未来の文化を担います。
死体の一つ一つが、「知の源泉」として長く人類に貢献していくことを祈りながら、今日も私は死体との格闘を続けます。

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