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ガザ衝突 欧州で広がる差別と偏見

二村 伸  専門解説委員

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1938年11月9日夜、ドイツ全土とオーストリア、それにチェコの一部でユダヤ人に対する大規模な襲撃事件が起きました。飛び散ったガラスが月明かりに照らされ水晶のように光っていたことからクリスタル・ナハト=水晶の夜と呼ばれ、その後のホロコーストにつながったと言われています。
「私はひどく憤慨し恥じている。反ユダヤ主義は社会の毒であり我々は容認できない」
今月9日の犠牲者の追悼式典でのショルツ首相の言葉です。再び激しさを増す反ユダヤ主義への強い危機感が滲み出ています。水晶の夜から85年、ヨーロッパは再び危険な兆候が見られます。なぜいまヨーロッパで反ユダヤ主義が広がっているのか、その背景と今後を考えます。

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ドイツでは先月7日、パレスチナのイスラム組織ハマスとイスラエルの衝突が激しさを増して以来ユダヤ教関連施設やユダヤ人に対する嫌がらせや差別的な事件が急増し、18日ベルリン中心部のユダヤ教礼拝所・シナゴーグに火炎瓶が投げつけられた他、ボンではイスラエルの国旗が燃やされ、ユダヤ人の家が落書きされる事件も各地で起きています。当局によればこうした事件は去年の同じ時期より3倍以上増えたということです。
ドイツ政府はホロコーストを引き起こした歴史的責任から、イスラエルの安全を守ることがドイツの義務だとしてホロコーストが起きたことを否定する言動を法律で禁止するなど反ユダヤ主義を厳しく取り締まり、ガザの衝突をめぐってもイスラエルを全面的に支持する立場を表明しています。フェーザー内相は今月2日、「イスラエル国家の壊滅を目的とするテロ組織の活動を全面的に禁止した」と発表し、ハマスとそれに関連する団体の活動禁止と財産の没収に踏み切るとともに、反ユダヤ主義の取り締まりを強化しました。しかし、ガザ地区へのイスラエルの攻撃の犠牲者が増えるにつれてイスラム教徒を中心に反ユダヤ感情は高まっています。

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85年前の水晶の夜では、7500に上るユダヤ人商店が襲撃、略奪され、1200以上のシナゴークが火を付けられたほか、3万人のユダヤ人が拘束され、その多くが強制収容所に送られました。当時と背景や状況がまったく異なるもののユダヤ人は今また安心して街を歩くことができなくなったと怯えながら生活しています。

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▼隣国のオーストリアでも今月1日、ウィーンの共同墓地にあるユダヤ教の葬儀場で火災が発生し、建物の壁にカギ十字の落書が見つかりました。オーストリアでは先月、反ユダヤ主義によると見られる事件が160件以上起きており、当局はテロへの警戒レベルを引き上げ、ユダヤ教関連施設への警備を強化しています。
▼ヨーロッパでもっとも多くのユダヤ教徒が暮らすフランスでは今月、南東部のリヨンでユダヤ教徒の女性が刃物で傷つけられたり、パリの地下鉄内でユダヤ教の指導者が後ろから少年に足蹴にされたりする事件が起きました。この他にもユダヤ人の家などにユダヤ教の象徴である「ダビデの星」が落書きされるなど、フランス内務省によれば反ユダヤ主義的な事件が先月7日から今月10日までに1159件起きました。
このように各国で反ユダヤ主義的な動きが相次いでおり、ヨーロッパ・ユダヤ人協会の会長は、「ヨーロッパのすべてのユダヤ人が脅威を感じている」と危機感をあらわしています。EU・ヨーロッパ連合の執行機関であるヨーロッパ委員会も5日、「ヨーロッパ全域で反ユダヤ主義的な事件が急増しており、歴史上もっとも暗い時代を連想させる異常なレベルに達している」と警鐘を鳴らしています。

各国政府は反ユダヤ主義を全面的に否定しています。また、ヨーロッパに住むユダヤ教徒の間ではガザで一般市民が犠牲になるようなイスラエルの攻撃に反対する人は少なくありません。それなのになぜ、ユダヤ人への差別や暴力行為が執拗に繰り返されるのでしょうか。

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それには歴史的な経緯があります。反ユダヤ主義はナチスによる迫害以前からヨーロッパに存在する根の深い問題で、長い間ユダヤ人は様々な理由から差別や偏見に苦しんできました。▼古代ギリシャやローマ時代は民族的な理由から差別を受け、▼中世は宗教が主な要因でした。キリスト教が主要な宗教であるヨーロッパでユダヤ教徒は迫害され、中世のペストの流行をはじめ様々な厄災の原因だとスケープゴートにされることもありました。▼19世紀以降は、「ユダヤ人」であることが理由で差別や迫害を受け、反ユダヤ主義を政治利用する動きも見られました。それがヒトラーの反ユダヤ思想を生みだし、ホロコーストにつながったのです。国外への追放や反ユダヤ主義に危険を感じてイスラエルに移住する人が増えた結果、1930年代前半におよそ950万人と言われたヨーロッパのユダヤ人は今では200万人前後まで減ったと専門家は指摘しています。一方でイスラム教徒の人口が急増したことや、極右勢力が台頭したことが反ユダヤ主義的な言動が増えた背景にあるとの見方もあります。また、近年イスラエル政府の政策に対する批判が強まったことも影響しているようです。このように様々な理由により火種として燻っていたところにガザの衝突が発火点となって反ユダヤ主義が一気に燃え上がったかたちです。
ホロコーストを知らない世代も増えており、フランスでは若年層の2割がホロコーストについて聞いたこともないという調査結果もあります。必ずしも歴史が教訓となっていないのです。

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来年、ヨーロッパ議会選挙を控え、ヨーロッパでは極右やポピュリスト政党がさらに支持を広げる可能性もあります。すでにドイツでは反難民を掲げる右派政党「ドイツのための選択肢」が世論調査で連立与党の3党すべての支持率を上回っています。宗教や価値観の異なる人たちへの寛容さが失われれば社会の溝がさらに深まり国の安定を脅かしかねません。

ヨーロッパではこれまでもイスラエルとパレスチナの紛争が激しさを増すたびに、反ユダヤ主義の事件が相次ぎました。ガザで激しい戦闘が起きた一昨年もドイツで3000件をこえる事件が起きました。10年前の3倍の数です。今後も中東の緊張が高まるたびにこうした事態が予想されます。何世紀にもわたる差別や偏見は簡単には解消できないでしょうが、過去の悲劇を繰り返さないためにも各国政府の責任は重大です。異なる宗教や価値観を尊重し、多様性のある社会を築くには教育が何よりも重要です。ソーシャルメディアで反ユダヤ主義を煽るような言動を抑え込みフェイクニュースへの対策を強化することも急務です。もちろんこれは反イスラムの行為に対してもいえることです。
フランスでは反ユダヤ主義に抗議するデモに全土でおよそ18万人が参加しました。ドイツなどでも同様のデモ行進が行われました。ナチスが扇動した85年前と違い、今は市民が自由に声を上げることができる時代であり、差別や偏見、暴力に反対する市民の行動は重要です。そして何より反ユダヤ主義がこれ以上広がらないようにするためにもガザの衝突の根っこにあるイスラエル・パレスチナ紛争の解決が必要であり、和平と共存の実現に向けた国際社会の取り組みが求められます。とくにユダヤ人の追放やイスラエルの建国に深くかかわってきたヨーロッパはその歴史的責任を負っています。ガザの人道危機を早急に収束させるためにはイスラエル政府への働きかけをもっと強めなくてはなりません。G7議長国の日本もパレスチナ、イスラエル双方との良好な関係をいかして積極的な役割を果たしてほしいと思います。


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