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偽情報がもたらす脅威~情報戦への備えを

津屋 尚  解説委員

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事実に反する情報を意図的に流布し、他国の政治や社会に混乱をもたらそうとする情報戦への対応が、安全保障上の課題になっています。有事の際には、物理的な軍事行動の前に、情報戦や心理戦が仕掛けられる可能性が高いと見られています。ロシアや中国といった国家が主体となって行うとされる情報戦に安全保障の観点から焦点をあて、この問題にどう対応したらよいのか考えます。

■嘘は真実よりも速く広がる

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偽の情報によって他国を心理的に揺さぶり、プロパガンダで自国民を扇動する、いわゆる「情報戦」は、それ自体、新しいものではありません。この問題がいま注目されるのは、デジタル技術の進歩によって、処理しきれない程の情報がインターネット空間にあふれ、偽の情報や悪意ある情報が、SNSなどを通じて、以前とは比較にならないほどのスピードで拡散していくからです。そして、その情報は、民主主義への信頼や国の安全保障に悪影響を与える「武器」にもなりえるのです。

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アメリカ・マサチューセッツ工科大学の研究チームは2018年、ツイッター上で過去10年ほどの間に噂として拡散されたおよそ13万件の投稿を分析し、うその情報は真実の情報に比べて6倍から20倍速く、しかも、はるかに広範囲に拡散したとの研究結果を発表しました。うその情報が瞬く間に拡散する背景には、奇抜な情報に飛びつきやすい人間の心理に加えて、世の中に一定数存在する社会や政治への不満が偽情報によってたきつけられる側面があるとみられます。

■ロシアの情報戦
こうした人々の心理とデジタル社会の特性を悪用して、欧米諸国に情報戦を数多く仕掛けてきたのがロシアです。

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数年前、メルケル政権下のドイツで「アラブ系の難民が13歳の少女をレイプした」という事実無根の情報がロシア系メディアによって繰り返し報じられ、SNSで拡散される事件がありました。この後、難民排斥運動が過熱し、翌年の選挙では極右政党が大きく躍進しました。また、トランプ大統領が誕生したアメリカ大統領選挙では、ロシアがサイバー攻撃によって盗み取った秘密情報やフェイクニュースを大量に拡散させました。いずれのケースも、ロシアの情報機関が関与しているとされ、民主主義陣営の政治体制を弱体化させる狙いと見られます。

■ウクライナの教訓

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そしてロシアは去年、ウクライナに軍事侵攻を開始した際にも、大規模な情報戦を展開しました。「ゼレンスキー大統領はナチスだ」「ロシア系住民を大量虐殺している」との事実に反する情報。さらに「ゼレンスキーは国外に逃亡した」という偽の情報も発信・拡散させました。首都キーウが陥落寸前だと印象付け、ウクライナの兵士や国民の抵抗への意志をくじく狙いだったとみられます。

■ウクライナは“情報には情報”で対抗
これに対してウクライナが行ったのは、“情報には情報”で対抗することでした。偽の情報に素早く反応し、ロシアの主張がまったくのデタラメだと世界に示そうと様々な情報発信を行いました。象徴的だったのは、「ゼレンスキーは国外逃亡した」という偽情報を完全に打ち消してみせた動画です。それは、ロシアによる軍事侵攻が始まった翌日の去年2月25日の夜。ゼレンスキー大統領は、首相や大統領府長官など側近たちと並んで撮影した自撮り動画をSNSで配信し、「私たちはみなここにいる」とロシアの情報を明確に否定しました。そして、自分たちは決して逃げたりはしない。侵略に対して戦い続け、ウクライナ独立を守り抜く決意を表しました。この動画は、内外の世論形成や、その後の情勢にも大きな影響を与えたと言われています。

■もう一つの情報戦“ナラティブ”とは

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ロシアが多用するもうひとつの情報戦があります。それは、自らに都合のよい物語“ナラティブ”を政治指導者自らが発信するものです。例えば、「NATOが東方に拡大したためロシアはウクライナにやむなく侵攻した」というナラティブです。ロシアのナラティブは、歴史的な事実の中にうそや一方的な主張をまぎれこませるのが特徴です。冷戦後のNATOが、東方に拡大したことは歴史的な事実ですが、「やむなく軍事侵攻した」というのは事実ではない一方的な主張であり、そもそもどんな理由があっても侵略は許されるものではありません。しかし、軍事侵攻の責任があたかもNATOの側にあったかのように主張するこの言説は、国際的にも一定の層の間で広がりを見せていて、欧米や日本の情報当局は警戒を強めています。

■中国が展開する“認知戦”とは何か?
さて、情報戦がもたらす脅威は、日本にとって対岸の火事ではありません。アジアで現状変更の動きを活発化させる中国が、ロシア以上にこの分野に力を入れているからです。

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偽の情報は、個人の思考や感情、記憶など認知に関わる部分を直接攻撃することから、中国はこの種の情報戦を「認知戦」と呼んでいます。そして、この「認知の領域」を戦場の一つととらえ、AIも使って人々の認知を操ろうとしていると言われています。日本の尖閣諸島に対する一方的な主張、そして、民主主義陣営をおとしめる偽情報やナラティブを、国営メディアやSNSを通じて数多く発信しています。発信した情報を数千もの偽のアカウントを通じて爆発的に拡散させる仕組みも作り上げています。

■台湾有事は“認知戦”で始まる

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こうした中、最も懸念されるのが、台湾有事です。中国が台湾の武力統一に踏み切る場合、その初期段階には、大規模なサイバー攻撃とともに、大規模な認知戦を仕掛けてくる可能性が高いと、台湾の当局はみています。例えば、「アメリカは台湾を助けには来ない」といった情報を拡散させて台湾の市民をパニックに陥れ、抵抗を断念させようとすることが想定されます。また、日本に対しても、人々の不安をあおって、国民の間に激しい分断を生じさせ、政府の有事への素早い対応を妨げようとするでしょう。

■日本の対応は緒についたばかり

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こうした情報戦に対して、日本はどのように対応するのでしょうか。日本の新たな「国家安全保障戦略」には、情報戦への体制強化が盛り込まれました。政府は、内閣情報調査室が偽情報などの収集分析にあたり、内閣広報室が正しい情報発信で対抗するとしています。防衛省は、陸海空自衛隊それぞれに専門部隊を編成するほか、AIによって偽情報などを自動で検知するシステムを導入するとしています。
しかし、その対策は、体制面でも制度面でもまだ緒についたばかりです。いざという時、中国などが仕掛ける情報戦に対して、その影響力を無害化する機敏な行動がとれるのか。政治リーダーや政府全体の対応能力が問われます。

■国民全体のリテラシーが鍵

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そして、情報戦に太刀打ちするには、国民ひとりひとりのリテラシーを高め、社会全体で偽情報に対する抵抗力を持つことも不可欠です。情報戦に詳しい中曽根平和研究所の大澤淳主任研究員は、「社会の安定のためには、情報のほとんどをネットから得る若者世代だけでなく全ての世代にわたってメディアリテラシーを高める教育が急務だ」と話しています。インターネットやSNSは、利用者の好みにあった情報ばかりが表示される仕組みのため、一方的な見方に陥りやすく、ともすれば陰謀論に染まるリスクがあることも理解し、拡散された情報を疑ってみる姿勢も必要ではないでしょうか。
安全保障をも脅かす偽の情報。これに対処する国の体制強化は急務です。同時に、情報が人の心理に直接働きかけることを考えれば、その真偽を見抜き、情報に踊らされない“しなやかな感性”を社会全体で育むことが、情報戦への抵抗力を高める近道なのかもしれません。


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