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表現の自由か冒涜か 対立をどう乗り越えるか

二村 伸  専門解説委員

イスラム教の聖典コーラン、正確にはアル・クルアーンといいます。イスラム教徒の心の拠り所であり、知人の言葉を借りれば、「人生の長い旅のガイドブックのようなもの」だということです。

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このコーランを燃やす行為が北欧で繰り返されています。イスラム教徒にとって何よりも大切なコーランを傷づけることが表現の自由のもとでは許されるのか、北欧の国々と中東諸国の対立が深まり外交問題になっています。今なぜこの問題が持ち上がったのか、その経緯と背景を探り、これ以上の対立を避けるために何が必要かを考えます。

対立の経緯 何が起きたか

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▼対立のきっかけは、今年1月スウェーデンの首都ストックホルムのトルコ大使館の前で、極右の政治家によってコーランが燃やされたことです。

スウェーデンでは、近年、反移民を掲げる極右政党が支持を広げています。それに加えてNATO・北大西洋条約機構へのスウェーデンの加盟に消極的なトルコに反発が強まり、反イスラム・デモが頻繁に起きていました。トルコ政府は抗議デモを容認していると非難、一方スウェーデン政府は「言論の自由」のもとでは抗議行動を止めることはできないと説明しています。

▼その後も火種はくすぶり続け、6月にはストックホルムのモスクの前でコーランが燃やされ、デモを許可した当局にイスラム諸国から強い反発が上がりました。

対立はスウェーデンとトルコの2国間にとどまりません。

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先月20日イラクの首都バグダッドで数百人のデモ隊がスウェーデン大使館を襲撃しました。この日、ストックホルムでデモに参加した男らがコーランとイラクの国旗を燃やそうとしたことへの抗議と見られています。スウェーデンのビルストロム外相は「イラク当局が外交官らを保護する責任を果たさず到底容認できない」と非難しましたが、イラク政府は「再びコーランが燃やされれば外交関係を断絶する可能性がある」と警告し、イラク駐在のスウェーデン大使に国外退去を求めました。

▼イラク政府はその2日後、デンマークでもコーランとイラクの国旗が燃やされたと非難。抗議のデモ隊がバグダッドのデンマーク大使館への突入を試みました。

▼イランでもスウェーデン大使館前で抗議デモが起き、最高指導者ハメネイ師は「コーランを燃やした者はもっとも厳しい罰に値する」と述べ、サウジアラビア政府もスウェーデンとデンマークを批判しました。

▼24日にはデンマークの首都コペンハーゲンのイラク大使館前で、その翌日にはエジプト大使館とトルコ大使館の前で反イスラムのグループがコーランに火をつけました。トルコやヨルダン政府は「イスラムへの冒涜だ」と強く非難、イエメンのサヌアでは数千人が抗議デモに参加しスウェーデンとデンマークの製品の不買運動を呼びかけるなど緊張は拡大しています。

なぜ対立?

なぜ、北欧と中東の国々がこれほど対立を深めているのでしょうか。

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コーランはイスラムの唯一の神アッラーから預言者ムハンマドに伝えられた啓示を書き留めたもので、イスラム教徒が行うべき行為や避けるべき行為など生き方を示した、いわば信仰の礎です。神の言葉が書かれたコーランを燃やす行為は、神への冒涜だとイスラム教徒が見なしているのも理解できます。

世界の57の国からなるイスラム協力機構は、「表現の自由のもとでも宗教的な憎悪や不寛容は正当化されない」とする声明を発表し、イラク政府もEUに対して表現の自由やデモの権利を見直すよう求めています。

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▼これに対し、北欧では「言論の自由」と「表現の自由」が優先され、コーランを燃やす行為が法律で禁止されているのはフィンランドだけです。北欧といえばリベラルで寛容な国々といったイメージがありましたが、極右勢力が台頭し、移民やイスラムを侮辱する言動が目立つようになりました。ところが「言論や表現の自由」によってそうした悪質な行為も抑えることができないのです。アメリカ・ギャラップ社が去年行った調査によれば、スウェーデンでは神を信じると答えた人が23%にとどまっています。神を信じないという人は調査を行った61の国と地域で最も多い54%に上りました。70年代には宗教を批判したり侮辱したりする行為を罰する法律が廃止され、裁判所もコーランを燃やす行為を警察が止めることはできないという判断を下しています。

スウェーデン政府はようやく先月末、イスラム諸国との関係が悪化し、安全保障への懸念が強まっているとして、コーランを燃やす行為を止めるために法改正が可能かどうか検討する方針を示しました。デンマーク政府も、今の憲法のもとで、他の国や文化、宗教を傷つけるような抗議デモに当局が介入できるようにする法的手段を模索することを明らかにしました。緊張緩和への第一歩ですが、両国では31日にもコーランを燃やすデモが起きています。

溝は埋まるか

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はたして双方の溝を埋めることは可能でしょうか。

デンマークでは2005年9月新聞社がイスラム教の預言者ムハンマドの頭に爆弾の導火線がついている風刺画を掲載し、世界のイスラム教徒の強い反発を浴びました。北欧だけではなくヨーロッパ各国で預言者の風刺画をメディアが掲載し、フランスでは2015年1月、風刺画を掲載した新聞「シャルリ・エブド」の本社がイスラム過激派に襲撃され、編集長や風刺漫画家、コラムニストら12人が死亡しました。事件後フランスはじめ各国で「表現の自由」を支持するデモが行われた一方、イスラム教徒の感情を害する行為は控えるべきだといった声も上がりました。「表現の自由」か、宗教への冒涜かをめぐる論争は根の深い問題であり、双方の溝を埋めるのは容易ではありません。

ただ、「言論や表現の自由」が無制限であってはならないと私は思います。個人の信条や考えを否定することはできませんが、宗教や文化、価値観の異なる人々を傷つけることのないように配慮が必要です。また、イスラム教徒の側も大使館襲撃など暴力に訴えでも負の連鎖を生むだけであり、対話による解決を目指してほしいと思います。コーランも悪意に対して悪意を持って返してはならないと教えています。

日本では

この問題は日本にとっても他人事ではありません。

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イスラム教徒が欧米諸国と比べて少ない日本では、イスラム教徒との摩擦はあまり見られませんが、2001年にコーランが破り捨てられる事件が富山県で起き、全国のイスラム教徒が抗議デモを行いました。事件はその後、宗教とは関係のない犯行だったことが判明しましたが、当時外務省は「イスラム教徒の感情が傷つけられたことに対し遺憾の意と同情の念を示す」との談話を発表、当時の小泉総理大臣は、イスラム世界との人的交流や各種セミナーを通じて、イスラムとイスラム社会に対する理解増進に努めることを強調しました。それから20年以上たちましたが、イスラムへの理解は深まったとはいえません。日本では外国の国旗を燃やす行為は処罰されますが、コーランについては他人のものでなければ破ったり燃やしたりしても犯罪になりません。しかし、それによって多くの人々が傷つくばかりか、日本の信頼を損ないかねないだけに、宗教や文化を侮辱するような行き過ぎた行為を防ぐためにも異文化への理解を深めることが重要です。

表現の自由か冒涜か、この論争はいつになっても決着がつかないかもしれません。難しい問題だからこそ、その壁を乗りこえるために双方が憎悪を捨て理解しようとする姿勢が必要です。


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