昭和41年・1966年に現在の静岡市で起きた一家4人の殺害事件。再審・やり直しの裁判が確定した袴田巌さんに、検察が有罪を求める立証を行う方針を明らかにしました。
なぜさらに争われることになったのでしょう。背景と再審制度の課題を解説します。
【まだ続く、のはなぜなのか】
検察が袴田さんに有罪を求めるというニュースを聞いた人の中には、「もう再審は終わったはず」と思っていた人もいるのではないでしょうか。そう感じるのも無理はありません。
ここまで行われたのは「再審を認めるか決める手続き」でした。まず、その経緯から見ていきます。
東京高裁が再審を認めたのは、ことし3月です。決め手は犯行の際に袴田さんが着ていたとされた「5点の衣類」でした。
この衣類は1年2か月もたって、事件のあったみそ工場のタンクから発見されます。ごらんのとおり血痕の赤い色が大きく残っています。
検察が行った再現実験の結果の画像です。長期間みそに漬けた結果、茶色く変色しているように見えます。
東京高裁は実験結果などから、再審を認める決定を出しました。「1年以上みそ漬けされた衣類の血痕からは、化学反応で赤みが消える」と判断し「無罪を言い渡すべき明らかな証拠だ」と結論付け、そのまま確定しました。
さらに決定は「ねつ造の可能性」にも言及しました。「衣類は誰かがタンクに隠した可能性が否定できない」「事実上、捜査機関の者による可能性が極めて高い」としたのです。
死刑事件の再審確定は、80年代に相次いだ免田事件・財田川事件・松山事件・島田事件の4つの死刑再審の確定以来、実に36年ぶり5例目です。
【再審構造は“複雑な築70年の2階建て”】
ここからさらに争われるのは、日本の再審制度の仕組みが理由です。
その構造は「再審を認めるか決める手続き」という建物の上に、もう1つ別の建物「実際に裁判をやり直す手続き」が乗る2階建てになっています。
これらは戦後法律が制定された後、70年以上、現在まで見直されずに来ました。
しかも、それぞれが地裁・高裁・最高裁と3階建てになっています。
つまり2つの建物が重なった「2階建て」の中に「3階建て」が2つあるという複雑な構造です。
ちなみにいまは「2階部分の3層構造の中の1階部分」です。
いろいろなケースがありますが、仮にすべて争ったとした場合、物理的には最大で6回判断を受けることが可能です。
これが、類似の争点で何度も争うことや、長期化につながっています。
【検察は過去の死刑再審でも争う】
司法関係者の間では、検察が袴田さんの有罪を求めることを予測する声もありました。
というのは、過去の4つの死刑再審事件。免田事件・財田川事件・松山事件・島田事件のすべてで検察は、やり直しの裁判で有罪を主張し続けたからです。ただ、どれも検察の主張は退けられ、無罪が確定しています。
今回、静岡地検は5点の衣類について「赤みが残ることはあり得る」などと立証する方針です。弁護団は「審理の蒸し返しだ」と強く批判しています。
今回の検察の主張の背景には、もう1つ別の理由も考えられます。
ここでさきほどの再審決定の内容をもう一度見てみましょう。
東京高裁は「捜査機関によるねつ造の可能性」に言及しています。検察にはここが、承服できなかったのではないでしょうか。
会見でも「ねつ造を示す証拠ではない」と強く主張しています。
ある法務検察の元幹部は私の取材に「メンツをつぶされたという思いもあるのではないか」と指摘します。
【再び化学的論争へ】
では、これからどうなるのでしょう。
再審開始の決め手が5点の衣類ですから、この衣類が焦点です。
血痕の色の変化という、「化学的論争」が再び繰り返されることになります。長期間の色の変化のため、審理にまた時間がかかることも予想されます。
過去の4つの死刑再審事件でも、検察が争った結果、再審開始の確定から無罪判決まで、1年5か月から3年ほどかかっています。
一般論としては、やり直しの法廷で再び争うことも、仕組みとしては可能です。また、これまでの判断を明らかに覆す証拠があるのであれば、検察の立証も必要でしょう。
ただ袴田さんの事例で言えば、5点の衣類の色は「1階部分」ですでに長期間争われています。しかも「2階部分」に到達するまで事件から57年。他の死刑再審と比べても、袴田さんはさらに長い時間がかかっています。
それでもなお争い続けることが妥当と言えるだけの証拠を、検察は出せるのでしょうか。今回の再審開始決定は「無罪を言い渡すことが明らか」と記しています。これを覆すのは、検察にとって相当高いハードルになるでしょう。
【「三者の異常な緊急関係」】
一般的に再審事件というのは、当事者や弁護団と検察、そして裁判所の3者が鋭く対立し、時に感情的なやりとりが繰り返されます。
戦後の刑事法学者である鴨良弼は、死刑再審が相次いだ80年頃にこれを「三者の異常な緊急関係」と表現しました。
この言葉は再審での3者の「強い相互不信」を意味しています。
それによれば▽裁判所は確定した判決の正当性を当然と考え、再審請求を厄介なものとみる。▽検察は法の秩序を乱す不心得者として意識する。▽これに対し再審請求する者は、そもそも検察と裁判所への根強い不信があると指摘します。(鴨良弼「刑事再審の研究」より)。
この相互不信を改善し、冷静に迅速化するには、どうすればよいのでしょうか。
対策としては、再審のルールを整備していくことでしょう。現在の制度は、2階建て構造の上、どう進めるかの決まりがほとんどなく、多くが裁判官の職権にゆだねられています。そして証拠を明らかにする仕組みもありません。
複雑な構造に加え、ルールが十分でないことも、相互不信と長期化につながっている側面があるのではないでしょうか。
日弁連・日本弁護士連合会は、証拠開示の制度と、一度再審請求が認められたらやり直しの裁判へ速やかに移ることなどを求めています。
また、現在の再審制度は指摘したように築70年以上です。その構造も、リフォームに向けた議論を行う時期が来ているのではないでしょうか。
【「検察の理念」】
もし、検察がやり直しの裁判で有罪主張を続けた場合、最後は再び「死刑」求刑を行うのでしょうか。
袴田さんは何十年も死刑の執行におびえ続け、拘束が解かれた今も、精神の健康を損ない、十分なやりとりができないままです。
その袴田さんに、検察は公開の法廷で死刑にするようまた求めるのでしょうか。
そして国民は、こうした検察の言葉をどう受け止めるのでしょう。
2011年に最高検察庁が検察の使命と役割、心構えを記した「検察の理念」にはこう書かれています。
「権限行使の在り方が、独善に陥ることなく、真に国民の利益にかなうものとなっているかを常に内省しつつ行動する謙虚な姿勢を保つべきである」。
事件から57年。袴田さんはすでに87歳。姉のひで子さんは90歳です。
ここまでの歳月の長さを思えば、やり直しの裁判は、裁判所と弁護団、そして検察の3者が対立を続けることなく、協力して1日も早い迅速な審理が望まれます。
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