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"農政の憲法"改正へ その主な内容は 食料安全保障強化への道は見えず

佐藤 庸介  解説委員

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日本の食卓から食べ物がなくなってしまうのではないか―

ロシアによるウクライナ侵攻をきっかけに穀物価格が高騰し、にわかに懸念が広がりました。万が一にでもそうした事態を避けるため、日本農業にとって重要な法律が改正される見通しで、その主な方向が示されました。

しかし、議論が熟さないまま盛り込まれた項目も多く、安心につながるとは言い難い内容です。

【なぜ改正の検討に至ったか】
(V6/2 食料安定供給・農林水産業基盤強化本部)
今月2日開かれた農政に関する会議で、岸田総理大臣は次のように述べました。

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「本日、食料・農業・農村政策の新たな展開方向を取りまとめ、農政の転換を進めていくことといたしました」

岸田総理大臣が「農政の転換」と述べた、その中核には、政府が来年の通常国会に法案の提出を目指している「食料・農業・農村基本法」の改正があります。

制定は1999年。日本の農業政策が向かうべき道を示した法律で、“農政の憲法”とも呼ばれています。

今回の改正のキーワードは、「食料安全保障」です。

FAO・国連食糧農業機関は「食料安全保障」を「全ての人が、いかなる時にも…十分で安全かつ栄養ある食料を、物理的、社会的及び経済的にも入手可能であるときに達成される状況」と定義しています。

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特にエネルギー源となる、コメや小麦など穀物の確保が重要です。しかし、この点から見て「日本は必ずしも盤石ではないのではないか」。そうした意識が広がったきっかけが、ロシアによるウクライナ侵攻でした。

小麦の一大産地、ウクライナが侵攻を受け、輸出や生産がダメージを受けたうえ、同じく輸出国のロシアも経済制裁で取引に制約が生じるという見方から、小麦価格が一時、過去最高になりました。さらにトウモロコシや大豆など、日本がほとんどを輸入に頼る穀物も軒並み高騰しました。

状況の変化を受けて食料安全保障を強化する必要があるとして、農林水産省の審議会に新たな部会が設けられました。

あわせて16回の検討を経て、5月、基本法の方向を示した「中間取りまとめ」の文書が公表されました。

【「中間取りまとめ」 その内容は】
中間取りまとめは、A4で本文があわせて51ページに上り、多くの提言が書かれています。

食料安保強化にプラスと思われる点はありますが、本当に必要な農地の維持策やコメなどの生産のあり方については、十分に練り上げられたとは言えない内容です。

まず、食料安保強化に向けて、前進した点を2つ、挙げたいと思います。

1つは世界的な不作などの「不測」の事態が起き、食料の輸入が難しくなったときに政府一体で対策を実行する体制づくりです。

【「不測」事態への対応を強化へ】
農林水産省は以前から指針を設け、国民1人あたりの供給カロリーが一定水準を下回ると予想される場合、生産者にコメなどの増産を要請することなどを定めています。

しかし、この指針は農林水産省単独の「決定」にとどまります。法令に基づかず強制力がないうえ、ほかの省庁とうまく連携できるか、疑問視する声もありました。

中間取りまとめでは、総理大臣のリーダーシップの下、関係省庁が連携する体制を整備することに加え、これまでより強い権限で増産などを指示できるよう、基本法の改正に加えて新たな法律を検討することになりました。

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【輸入頼みの資材 国内調達を増やせ】
次に肥料に代表される、国産資材の確保を進めることです。

ウクライナ侵攻を受けて、特に不足が顕在化したのは、ほぼ全量を輸入に頼る化学肥料です。このうち、植物の根の成長を促す「塩化カリウム」は侵攻前、4分の1以上をロシアとベラルーシから輸入していましたが、侵攻後、途絶しました。ほかにも多くの原料が以前より手に入れにくくなっています。

今回、肥料として家畜のふん尿や下水の汚泥といった、生かし切れていなかった国内資源の利用拡大を図る方針が打ち出されました。持続的に利用できる仕組みができれば、ある程度は国内で確保することが期待できます。

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【なぜ兼業農家に農業政策の重点?】
一方で、いくらこうした準備をしても、国内で食料を生産する力が衰えてしまっては意味がありません。

にもかかわらず、農地やコメなど穀物生産のあり方について、本質的な議論は深まりませんでした。掲げられたのは、現場の生産力のアップにつながるのか、はっきりしない項目が目立ちます。

まず、兼業農家も含めた人材を農業政策の対象にするという方針です。日本農業が直面している大きな課題に関わる点です。

主に農業を仕事とする「基幹的農業従事者」のうち、80%近くが60歳以上。近い将来、多くの人たちが農業を続けられなくなり、そのあと、誰が耕作するのかという問題が各地で生じます。

その際に、支援の重点を大規模である一方、数は少ない生産者に置くのか、小規模でも数は多い兼業農家にも置くのか、論点になってきました。

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審議会の会合でも、委員の間で議論になりました。

5月19日、農林水産省で開かれた食料・農業・農村政策審議会の基本法検証部会。この日、示された中間取りまとめの原案には、農業政策の見直しの方向として、「多様な農業人材の位置付け」という項目が設けられました。そこには「農業を副業的に営む経営体や自給的農家が一定の役割を果たす」と記されました。つまり、兼業農家にも一定の重点を置く考えが示されたわけです。

この案について、元財務事務次官の真砂靖 委員は「これは反対だ。兼業農家は農業政策の軸にはなり得ない」と述べました。

これに対し、JAグループのトップ、JA全中会長の中家徹 委員は「大規模な経営体だけで地域農業を守っていくことはできない」と反論しました。

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あくまでプロの生産者に重点化した政策を進める考え方と、それだけでは農地をカバーしきれないので、兼業農家にも支援が必要だという考え方の違いです。いずれの意見にも複数の委員が同調し、真二つに分かれました。

最終的にほぼ原案を維持した形で文書に残されました。しかし、データに基づいた厳密な検証は乏しいままでした。もし、入れるのであれば、兼業農家への支援が食料安全保障にどうつながるのか、説得力のある説明が必要でした。

【価格転嫁の仕組みに実効性は】
次に価格転嫁の仕組みの創設です。

生産者、食品メーカー、小売に至るまで、生産コストが認識されたうえで「適正取引が推進される仕組みの構築を検討する」としています。

コストが上昇しても生産者は販売先に対して立場が弱く、十分に価格転嫁できないため、このままでは営農を続けられないという問題意識があります。

しかし、実効性のある仕組みづくりへのハードルは極めて高いという見方が大勢です。

国産原料が高くなれば、食品メーカーは輸入品の割合を増やす可能性があります。

さらに小売価格に転嫁したとしても、消費者が買い控えをして、販売量を落としてしまう可能性もあります。実際、牛乳は一定程度、コストの転嫁を実現しましたが、同時に消費の減少も招くジレンマに陥っています。

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仕組みの検討自体は否定されるものではありませんが、成果を得難いと分かっている検討に大きなエネルギーを割くのは得策なのでしょうか。

専門家からは「コストが膨らんだ時に影響を和らげる、保険のような仕組みを強固にするほうが早道だ」という声が出ています。

【農地やコメ問題の検討が筋】
食料安全保障の強化には、本来、生産基盤となる農地の維持やコメをはじめとした穀物の生産のあり方をテーマとして優先すべきです。

検討に時間がかかるこれらの議論を避けて、結論を出しやすい対策を並べたというのが実態のように思えてなりません。骨太の議論をして将来性を示せなければ、若い人の農業参入も期待できません。

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農林水産省は、今回の中間取りまとめについて、7月から各地で意見交換会を開いたうえで、法案の作成作業に入り、来年の通常国会での提出を目指す方針です。

農林水産省には、それと並行して、今回の改正がどのように食料安全保障の強化につながるのか、分かりやすく説明する責務があります。

一方で、日本の経済力が低下する中、将来にわたって豊かな食生活を享受できるのか、不透明になってきています。それだけに消費者も、今回の議論をこの問題に関心を持ち続けていくきっかけにしていくべきだと思います。


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