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なるか? 物価を上回る賃金引き上げ 経営側の覚悟は

今井 純子  解説委員

歴史的な物価上昇の中、迎える今年の春闘。経団連は、17日、幅広い企業にベースアップを前向きに検討するよう強く呼びかける報告書を発表しました。背景には、物価上昇に加え、日本企業が置かれている状況への危機感があります。物価を上回る賃上げは実現できるのでしょうか。

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【2023春闘 最大の焦点は賃金】
春闘には、働き方や格差の是正など様々なテーマがありますが、今年は、賃金が最大の焦点です。家計や企業を取り巻く局面が、大きく変化しているからです。

(背景には41年ぶりの物価上昇)
背景にあるのは、物価の上昇です。国際的な資源価格の上昇、そして、円安を受け、11月の消費者物価指数は、1年前と比べて3.7%上昇。およそ41年ぶりの高い水準です。エコノミスト36人の予測では、今年度の平均でも3%近い水準となる見通しです。
賃金も持ち直してはいますが、物価の上昇には追い付いていません。物価変動の影響を考慮した実質の賃金は、8か月連続で減少。賃金が大幅に目減りしている状態で、働く人の生活を直撃しています。

(業績は回復)
一方、企業を取り巻く環境を見てみると、仕入れコストの上昇に苦しんでいる企業もありますが、新型コロナによる行動制限がなくなり、国内の消費は回復の傾向が続いています。海外で稼いだ利益を、円に換算した額が増えている企業も多く、上場企業の今年度の業績は、全体として過去最高益となる勢いです。企業が抱える現金・預金も一段と積みあがっています。

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(賃上げの要求)
こうした状況を受け、連合は、年齢や勤務年数に応じて上がる仕組みの「定期昇給分」。そして、そもそもの基本給を引き上げる「ベースアップ」3%程度。あわせて5%程度の賃金引き上げを求めています。物価を上回る賃上げには、このベースアップの「3%」が大事だという考えです。岸田総理大臣も、インフレ率を超える賃上げを要請しています。

【経団連の報告書】
こうした中、経団連が発表した報告書は
▼ 物価上昇で企業収益への影響が懸念されることも承知しているとした上で「それでも、賃金と物価の好循環をつくっていく必要がある」として、幅広い企業にベースアップを前向きに検討するよう求めました。かつてなく、基本給の引き上げを強く呼び掛ける内容です。
▼ その上で、技術や技能など人材の育成を含め、人への投資に力を入れることで、構造的な賃金引上げを目指すよう、今年を企業の行動を変える転換点にすることも、呼びかけています。

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【背景には危機感】
(賃金抑制で安い日本に)
ここまで経団連が強く、賃金引き上げを求めた。その背景には、社員の生活を支援することに加え、企業が、賃金を抑え続けてきた結果、経済の低迷が続き、企業が人材を獲得する上での競争力も失っている、という強い危機感があります。
賃上げ率の推移を見てみます。1990年代のバブル崩壊後、企業は、人件費をいかに減らすかに力を入れてきました。経団連も「ベースアップは論外」などの方針を打ち出し、基本給の底上げを抑えてきました。

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賃金が上がらないので、消費者は安いものを求め消費は低迷。企業は値下げをし、収益が増えないため、賃金を抑える。賃金と物価の負の循環が続いた結果、日本の実質賃金は、OECD加盟34か国のうち24位。「安い日本」と揶揄されるほど、低い水準になりました。

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(競争力低下への危機感)
こうした事態に、経団連は「グローバルな人材を確保して、定着してもらう上で、日本企業は競争力を失っている。このままでは、日本経済の再生は厳しくなる」と、強い危機感を示しました。賃金を抑えてきた過去への反省と見ることもできます。その上で、物価が上がっている今年こそ、賃金を思い切って上げて、消費を増やしてもらう。そして、値上げで収益を改善し、来年も賃金を上げる。このように賃金と物価の好循環に転換させようと呼びかけたのです。

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(評価)
長年、賃上げの重要性が指摘されてきた中、もう少し早く対応してほしかった、という思いはあります。それでも今回、経団連が、反省を踏まえ、構造的に賃金を上げるよう、経営者に考えや行動の転換を呼びかけたことは評価したいと思います。問題は、実際に、どの程度の賃上げにつながるのか、という点です。というのも、経団連の報告書は、加盟企業の幅広い意向を含めながら作ったもので、一定の影響力はありますが、強制力はないからです。

【見通しは】
(大企業の経営側は前向き)
見通しはどうでしょうか。
大企業からは、例年になく、賃上げに前向きな動きが相次いでいます。
▼ ユニクロを運営するファーストリテイリングは、国内の社員の年収を最大およそ40%引き上げることを決めました。去年秋にパートやアルバイトを対象に、時給を引き上げたのに続いての措置で、例えば、入社1年目から2年目で就任する新人の店長は、月収が10万円増えることになります。
▼ また、キヤノンは、基本給を一律で引き上げる事実上のベースアップに20年ぶりに踏み切りました。通常の昇給とあわせると3.8%の賃上げです。
▼ サントリーホールディングスも、平均6%程度賃金を引き上げる方針を明らかにしています。

(物価を上回るのは厳しいという予測)
経済の専門家の間からは、大企業を中心に、全体として、3%前後と90年代半ば以来の高い水準の賃上げが期待できる、といった予測が相次いでいます。ただ、それでも、定昇を引いたベースアップは1%前後の上昇率で、物価上昇を上回る賃上げは、厳しいとの見通しです。

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【課題は中小企業】
(コストの転嫁に応じない企業)
では、どうしたらいいのでしょうか。
日本全体で賃金引き上げの機運を高めるには、働く人の70%が勤めている中小企業の賃上げが欠かせません。ただ、大企業と比べ、依然、厳しい経営が続いていることに加えて、仕入れ価格が上がった分を、取引先の大企業が販売価格に転嫁させてくれない。そのため、賃金を上げる余裕がないという声も上がり、年末には、公正取引委員会が、コストの上昇分を取引価格に反映する協議に応じなかったとして、13の企業や団体の名前を公表する事態になっています。ぜひ改善してほしいと思います。

(取引先の人材育成を支援する企業)
一方、取引先の技術力を高めることで、賃上げにつながる環境づくりに取り組んでいる企業もあります。例えば、日立グループの日立システムズは、下請けのソフトウェア会社との間で、事業方針や求める技術力を共有。その上で、下請けの社員が、スキルアップのためにグループ内の研修講座を受けられるよう提供しています。ソフトウェアの下請け業界は、中小零細企業が多く人手不足も課題になっていますが、こうした支援を受けることで、人材力を上げ、他社を含めた取引の拡大、そして、賃金引き上げにつながることも期待できます。

(取引条件の改善、人材育成への支援を!)
経団連も、今回の報告書で、会員企業に対し、取引条件の改善のほか、こうした人材育成や生産性向上への支援を行うことで、中小企業の賃金引き上げにつなげるよう呼び掛けています。

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【まとめ】
「いったん上げたら、なかなか下げることができないベースアップは避けたい」。経営者にしみついた考えを転換することは簡単ではないかもしれません。ただ、賃金を抑えるばかりでは、働く人の生活も、価格を上げられない企業も、厳しさが増すばかりです。春闘は、来週から、事実上、労使の交渉が始まります。今度こそ、働く多くの人が先行きに希望を持つことができるよう。そして、日本経済の再生に向けた転換点となるよう、過去の経験にとらわれない、経営者の思い切った決断に期待したいと思います。


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