細胞から人工的に培養された肉が食卓に並ぶ―
そんなことが、もうSF小説だけの世界ではなくなっています。
海外では、すでに料理として提供を始めた国があります。日本でもベンチャー企業を中心に技術開発が加速し、食料危機や畜産が与える地球温暖化への懸念がさらに後押ししています。今回は、培養肉の現状と可能性について考えていきます。
解説のポイントは次の3つです。まず、「培養肉」とはいったいどのようなものなのか。次に開発が進む世界の動きと日本の状況。最後に普及するために山積している課題を示します。
【培養肉とはどんなもの?】
近ごろはスーパーで「代替肉」を見かける方も多いかもしれません。培養肉と何が違うのか、最初に整理しておきましょう。
代替肉は、「家畜や魚介類の肉に代わる食品」です。
この1つが「植物肉」です。
植物由来の原料で肉をまねた食べ物です。日本では、精進料理の素材として、昔から定着しています。最近は「大豆ミート」など、見た目や味が肉に近い商品も多数生まれ、販売されています。
もう1つが今回のテーマ、「培養肉」です。こちらは日本では売られていません。
まず、牛などの動物から細胞を採取します。この細胞をアミノ酸などの栄養分が入った培養液に入れて大量に増殖させます。それらをもとに食肉を作るという技術です。
2013年にオランダの大学教授が世界で初めて開発したと言われ、今では各国企業が商業化に向けてしのぎを削っています。
植物肉はあくまで「肉に似せた食品」であるのに対して、培養肉は「肉そのもの」です。味や食感のほか、動物にしかない栄養成分を含むメリットがあります。
【なぜ、培養肉に注目?】
それではどうして、いま、培養肉が注目されているのでしょうか。
最大の理由は、食料の確保です。世界の人口は2050年までに97億人に増えて、肉の消費も高まると予想されています。培養肉の生産は、土地や水を節約できるとして期待されています。
次に環境負荷の低減です。家畜のエサの栽培には広大な農地や水を使うほか、たとえば牛のゲップには大量のメタンが含まれ、地球温暖化にもつながっています。
さらに動物福祉への対応があります。狭い環境で多くの家畜を飼うことに、欧米を中心に疑問が出ています。培養肉は家畜を処分しないため、支持が広がる可能性があります。
今後、培養肉は世界的に広がり、イギリスの大手金融機関は「2040年までに食肉のうち、20%を培養肉が占める」という予測を示しています。
【世界・日本、開発の現状】
各国はどういう状況なのでしょうか。今、培養肉が一般に食べられる国は、世界でシンガポールだけです。
培養した鶏肉の販売が世界で初めて認可され、おととし12月、販売されました。チキンナゲットなどにして提供されています。値段は料理によって違い、日本円でおよそ400円から2300円です。
開発の動きは世界中で生まれています。動向に詳しい国際団体によりますと、培養肉を手がけている企業の数は、去年の時点で、世界で107に上り、欧米・アジアだけでなく、南米、アフリカにも広がっています。
日本でも研究、開発に取り組む企業が増え、成果も見え始めています。ここでは2つ紹介します。肉をステーキ状に培養する技術とコスト削減策です。
このうち、ステーキ状の肉の培養には、東京大学大学院の竹内昌治教授と大手食品メーカー「日清食品ホールディングス」などが共同で取り組んでいます。ことし3月には、研究という特別な目的で大学の委員会からの許可を得て、試食を行いました。グループによりますと、「食べられる培養肉」を作り出したのは国内で初めてだということです。
開発された培養肉
ミンチ状の肉は多くの企業で作っていますが、厚みのある肉の培養技術は確立していません。研究グループでは「2025年までに100グラム程度の肉を作りたい」としています。
もう1つの難題、コストの削減も一歩ずつ進んでいます。
オランダで初めて開発された培養肉は、ハンバーガーのパティ1個に3000万円以上かかりました。
とくに問題なのが培養液です。細胞を増やすために、血に含まれる「血清」などを加える必要がありますが、非常に高価です。
大手食品メーカー「日本ハム」は、10月、培養液の主な成分である血清の代わりに安い食品由来の素材で置き換え、鶏肉を培養することに成功したと発表しました。特許出願中で食品が何かは明らかにできないとしていますが、実験レベルでは「20分の1までコストを下げることができた」ということです。
日本ハム中央研究所 岩間 清 所長
開発にあたった日本ハム中央研究所の岩間清所長は「いつ商用化できるかは断言できないですが、我々も世界の動きというのを常に注視していて、世界との競争になるので、その辺も加味しながら努力をしていきたい」と話していました。
【普及に向けた課題は】
技術開発が進む一方で、普及に向けてはいくつもの難題が残っています。最後にこの点を示します。
まず、安全性と表示の問題です。
人工的な肉というと「なんとなく不安だ」と思う人もいるかもしれません。しかし、材料となる細胞や培養液が食べられるものなら、安全性を疑問視する根拠もありません。実際、シンガポールは、国が承認して培養肉の販売が可能になりました。
これに対して日本では、新たに開発された食品を売り出す際、食品衛生法で取り扱う事業者の責任で安全性を確保するよう求めているものの、事前に国などが承認する仕組みにはなっていません。
問題があれば事後的に販売を禁止することが可能ではありますが、基準は明確ではありません。消費者も戸惑いますし、どういう場合に禁止されるのかはっきりしなければ、企業も生産に本腰を入れることは困難でしょう。
また、表示についても、国が定めている食品表示基準では培養肉がどういうカテゴリーに入るか、決まっていません。このため、今のままなら「培養して作られた」という表示が義務付けられているわけではありません。
食品規制に詳しい西村あさひ法律事務所アグリフードプラクティスグループの片桐秀樹弁護士は「培養肉はこれまでにない方法で製造される食品なので、国の関与の仕方も含め、安全性を確保するための仕組みを明確化するほか、培養肉の特性を踏まえた表示のありかたも整備することが必要だ」と指摘しています。
次に畜産業界との共存です。
新たなタイプの培養肉が増えると、既存の肉の販売シェアが低下する可能性もあります。アメリカでは、すでに牛肉の生産者団体が反発しています。
培養肉に関わる企業の業界団体は、培養するタネとなる牛などの細胞を「知的財産」として保護して、農家と利益を分ける仕組みを作り、畜産業界との連携を図りたい考えです。
培養肉が増えるとしても、すべてが置き換わるとは考えにくいだけに、今後、培養肉の関係業界と畜産業界が意思疎通を図って、お互いに発展を目指すことが重要です。
最後に消費者が受け入れるかどうかです。
弘前大学の日比野愛子教授などが消費者に行った調査では「培養肉を食べてみたい」と回答した割合は27%にとどまりました。これまでにない食品に対し、抵抗感を抱いているとみられます。
ただ、同じ調査では「培養肉が食料危機を解決する技術になる可能性がある」という情報を示すと、「食べてみたい」と回答した人は50%に増加しました。消費者が受け入れるためには、安全性に加えて、社会的な価値も含めた丁寧な情報提供がカギになりそうです。
【一歩ずつ理解広げる努力を】
シンガポールでは、25日、培養肉の規制のあり方をめぐって当局者などが意見を交わす国際会議が開かれました。
着々とルール整備の主導権を握ろうとするシンガポール政府の動きに対し、日本の業界からも「急がなければ」という声が出ています。業界団体では、安全性などを確保するため、自主的なガイドラインを年内にまとめることにしています。
一方で、消費者や畜産業界などの理解が乏しいまま普及を急げば、軋轢が起きてむしろ定着が遅れる可能性があります。一歩ずつ着実に議論を進めて、商業化のあかつきには誰からも歓迎される環境を作ってもらいたいと思います。
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