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"農政の憲法"改正へ 食料安全保障の強化は実現するのか

佐藤 庸介  解説委員

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日本の農業政策の方向を定め、“農政の憲法”とも呼ばれてきた法律、「食料・農業・農村基本法」の改正へ、政府が動き出しました。

きっかけはウクライナ情勢です。中東やアフリカの一部では食料危機を引き起こし、多くを輸入に頼る日本も安心して食料を確保し続けることができるのか、懸念が生じています。法律の改正が実際に懸念の払しょくにつながるのか、具体的に見ていきます。

解説のポイントです。

まず、「食料・農業・農村基本法」とはどんな法律なのかを知るために、歴史をひもときます。次にどうして政府がいま、改正に向けて動き出したのか、背景を整理します。そして、食料安全保障を強化するためにどういったことが焦点になりそうかを示します。

【「食料・農業・農村基本法」とは?】
9月29日、農林水産省で審議会が開かれ、食料・農業・農村基本法を検証する部会が設置されました。部会は、1年ほどかけて法律改正の方向性を示す予定です。

食料・農業・農村基本法は、どんな法律なのでしょうか。

今から23年前の1999年に制定され、 “農政の憲法”とも呼ばれてきました。もともとこの前に「農業基本法」という法律があり、それが時代遅れになって、新しく作られたといういきさつがあります。

全部で43条と法律としては比較的短く、細かい政策の内容が書かれているわけではありません。考え方を示した「理念法」と呼ばれています。制定されたときには、いくつかの面で「画期的」と評価されました。それは目的を定めた第1条にうかがえます。

そこには「国民生活の安定向上及び国民経済の健全な発展を図る」と記されています。前はあくまで農業と農業従事者の発展が目的でしたが、今の基本法は消費者を含めた「国民全体」にとって意味のある政策を進めようという姿勢を打ち出しました。

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具体的には2つの特徴が挙げられます。

1つは、政府が農産物の値段を決める「価格政策」で、生産者の経営を助けることはしないと明確にした点です。前の農業基本法のもとで、たとえばコメの買い取り価格について、消費が落ちて余っているのに高値を維持し続け、生産者の経営感覚を奪ってしまったという反省があります。

もう1つは、本気で農業で生活していこうという専業の農家を重点的に助ける対象にした点です。兼業が多かった状況から脱却し、日本の農業を強くしようとしました。

【どうして今、改正なの?】
なぜ、今になって改正の検討が始まったのか。それは現在の基本法のもとでも日本で食料を生産する力はなかなか強くならず、「食料安全保障」への不安が解消されないままだからです。

FAO・国連食糧農業機関は「食料安全保障」を「全ての人が、いかなる時にも…十分で安全かつ栄養ある食料を、物理的、社会的及び経済的にも入手可能であるときに達成される状況」と定義しています。

それを測る指標となるのが、国民の食料をどこまで自国で賄えているかを示す「食料自給率」です。日本は昨年度、カロリーベースで38%でした。法律が制定された1999年度が40%でしたから、ほとんど横ばいです。依然として食料の多くを輸入が占めています。

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食料を海外から調達するリスクを改めて認識させたのが、ロシアによるウクライナへの軍事侵攻です。

「世界のパンかご」とも呼ばれるウクライナが、小麦などの農産物を輸出できなくなるだけでなく、同じく巨大な農業国、ロシアの農産物も侵攻に伴って輸出が制約されるという見方が広がりました。

その結果、穀物価格の急速な高騰が起きました。

このうち、日本が80%以上、輸入に頼る小麦の国際価格は、ことし3月に過去最高値を更新しました。日本が輸入しているのは、アメリカ、カナダ、それにオーストラリア産ですが、こちらも上昇し、幅広い食料品の値上がりにつながりました。

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さらに「盲点」だったのは、化学肥料をほぼ100%、輸入に依存していたことです。

たとえばそのうちの1つ、植物の根の成長を促す「塩化カリウム」は2020年のシーズン、4分の1以上をロシアとベラルーシから輸入していました。ウクライナ侵攻を受けて、いずれからも輸入できなくなり、価格が高騰しました。このほかの尿素やリン酸アンモニウムといった化学肥料も中国など特定の国からの輸入に頼っているため、確保できないリスクをはらんでいます。

加えて23年の間、日本農業の構造変化が進んだことも改正の機運を高めました。

かつて日本の農業は経営規模が小さい問題がある一方で、携わる人の数はたくさんいました。ところが、ここにきて人数自体が急速に減少、とくに50代以下の働き盛りの世代の減り方が著しくなっています。

「基幹的農業従事者」の数
1999年 約234万人⇒2022年 約123万人
うち50代以下 1999年 約88万人⇒2022年 約25万人

とくにコメなど土地を多く使うタイプの農業が深刻で、耕せない農地が大幅に増え、食料生産の基盤がさらに弱くなる可能性が高まっています。

【改正にあたっての焦点】
課題が山積している日本の食料安全保障。強化を実現するため、基本法改正の議論では何が焦点となるのでしょうか。

●改正の焦点①国内資源の有効活用
1つは、国内の資源の有効活用をどう促すか、です。

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基本法では、食料自給率については目標を掲げ、「向上を図る」と明確にうたっている一方、化学肥料をはじめとした資材のことはわずか1つの条文で触れられているだけです。当時を知る関係者は「化学肥料の輸入が困難になる時代が来るとは思いもよらなかった」と振り返ります。

ずっと輸入が容易で価格も落ち着いていたため、日本の農業は化学肥料を使いすぎてきたと指摘されています。この量をできるだけ抑えなければなりません。

また、有効活用しきれていない牛や豚などの家畜のふん尿を「たい肥」に変えて利用することも促進しなくてはなりません。さらにいま、一部の地域では下水の汚泥を処理し、肥料として活かす例も現れています。これらは環境面でもプラスです。

法律の中で一連の動きを後押しすることを明記し、できるだけ国内の資源で農業を展開する流れを確実なものにしてほしいと思います。

●改正の焦点②農業従事者の確保
もう1つは、農業に携わる人をどう確保するかです。

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規模拡大や新規参入の促進は、成果も出ています。それでも今のままでは、とても減少ペースに追いつきません。

地域の中核となる生産者に支援を集中させる方向は維持しながらも、これらの生産者にもっと強力な政策で農地を集めていくのか、それとも中小規模や家族経営に今後も頑張ってもらうのか。1つの論点になりそうです。

また、情報通信技術の普及で、まったく違うアイデアが出てくるかもしれません。例えば最近、スマートフォンのマッチングアプリを使って、副業として農業に携わる人も出てきています。

このような技術を利用できれば、これまでの枠にとらわれない形で地域の人たちを総動員できるという指摘もあります。こうした議論を深める必要があります。

●改正の焦点③生産者と消費者の相互理解
そして、最後に生産者と消費者が互いに理解を深めることの大切さを強調したいと思います。

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生産コストは上昇しているものの、規模で劣る生産者は小売やメーカーなどの企業に対して価格交渉力が弱いため、安値で買われてしまい、利益の確保に苦労しているという声が寄せられています。

一方で、相次ぐ食料品の値上げに悩む消費者から「生産者は保護しろとばかり訴えている」という声が出てくるのは無理もないことです。

疑念を払しょくするためにも生産者が実情についての情報発信に真摯に取り組むこと、反対に消費者も情報を積極的に集めて、納得できるのであれば消費を通じて応援するようにすればよいのではないでしょうか。

国土が狭い日本は、食料すべてを自国で賄うことは現実的ではありません。それでも輸入に頼りすぎるとリスクが大きいというのもウクライナ情勢の影響で明らかになっています。

日本の食料生産は、いわば「保険」のようなものです。

どの程度の負担で、どのくらいの基盤を維持していくのが適切なのか。今回の議論では、農業関係者だけではなく、経済界や消費者も広く巻き込んで、共通の理解を得る機会になるよう望みます。

(佐藤 庸介 解説委員)


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