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ゴルバチョフ氏死去 その功績と今のロシア

石川 一洋  専門解説委員

旧ソビエトの最後の指導者で民主的改革を始め、東西の冷戦終結に大きく貢献したミハイル・ゴルバチョフ氏が30日亡くなりました。91歳でした。
今、プーチン大統領がウクライナへの戦争を進める中で、ゴルバチョフ氏が進めた民主化の成果は忘れ去られようとしています。
ゴルバチョフ氏の歴史的な意味と今のロシアの現実について考えます。

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ゴルバチョフ氏は1985年3月、54歳の若さでソビエト共産党の最高指導者書記長に就任します。高齢化した指導者が次々と死ぬ中、超大国の若い指導者がどのような変化をもたらすのか、注目は集まりました。
ここまでの大変革が起きるとは誰も予想しませんでした。

当時のソビエトはポーランドや東ドイツなど東欧諸国を事実上統制し、鉄のカーテンによって東西は分断されていました。ソビエトとアメリカは、アフガニスタンなど各地の地域紛争でも対立し、極東でも双方が大規模な軍事演習を行う中、1983年9月、稚内のすぐ近くで、大韓航空機がソビエト領空を侵犯しソビエト軍に撃墜されました。米ソは、地球を何度も破壊し尽くすとも言われる核兵器を保有して対峙し、核戦争の恐怖が世界を覆っていました。

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一方ソビエト国内では共産党の一党独裁と社会主義の計画経済、さらに秘密警察KGBによる厳しい監視と統制のもとにありました。しかし技術革新を続ける西側に比べて経済的な立ち後れは明らかで、社会は停滞感が覆い、人々は自由に飢えていました。
そして若者はすでに共産党のイデオロギーから離れていました。指導者についたゴルバチョフ氏はソビエトの立て直しペレストロイカを始めました。次第には共産党の一党独裁を崩す政治改革、そして情報の公開グラスノスチも含まれました。
私は当時のゴルバチョフ氏はソビエトの社会主義の可能性を信じ、民主化をすれば人間の顔をした社会主義が実現し、米ソの平和的な共存が続くと信じていたのだと思います。
彼は生粋の社会主義者でした。

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さてゴルバチョフ氏の最大の功績は冷戦を終結させ、核戦争の危険を具体的に大きく下げたことです。「社会主義の可能性を信じる」ゴルバチョフ氏と「ソビエトを悪の帝国」と呼んだレーガン氏、イデオロギー的には相対立する米ソの二人の指導者は、1985年、「核戦争に勝者はない、核戦争を決して戦ってはならない」この一点において最初の首脳会談で合意し、そのことが1987年のINF=中距離核ミサイルの全廃条約など大幅な核兵器の削減につながりました。私は対照的な二人を結びつけたのは、超大国の指導者としての責任と人類を破滅させる戦争は決して起こしてはならないという人道主義だったと思います。
合意はしなかったものの核廃絶に向けて米ソの指導者として初めて真剣に話し合ったのもゴルバチョフ氏とレーガン氏でした。まさに外交の力、政治の力と責任を示した首脳交渉でした。

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次に、民主主義をソビエト、そして東欧諸国にもたらしたことです。鉄のカーテンは取り払われ、冷戦は終結しました。私は、ゴルバチョフ自身はソビエトの枠内、東側陣営の枠内での民主化を考えていたのであって、東欧諸国の民主化は、そうしたゴルバチョフの思惑を越えて、人々の自由を求める思いが東欧革命という形で体制変革にまでいたりました。ただゴルバチョフがいなければ、閉鎖的な独裁体制はさらに長く続いたでしょう。
また自らの思惑を越えた体制変革の動きに対して、ゴルバチョフ氏は内政不干渉の姿勢を貫き、ソビエトが過去、1956年のハンガリーや1968年のチェコスロバキアの時にしたような、軍事力で東欧諸国の民主化を弾圧することはしませんでした。
評価が分かれるのはソビエト連邦崩壊です。

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ソビエト連邦の崩壊にはゴルバチョフ氏は最後まで反対しました。
“民主的に変貌した連邦”を維持したいというのがゴルバチョフ氏の願いでした。
しかしロシアそしてウクライナが、連邦からの自立に動き、一方連邦護持を唱える共産党保守派もゴルバチョフ批判を強める中で、ゴルバチョフ氏は実質的な権力を失いました。ロシア、ウクライナ、ベラルーシの三カ国の首脳がゴルバチョフ抜きで、連邦崩壊を合意しました。時代の流れに飲み込まれたというのが実情でしょう。
ただそこでも力は行使することはありませんでした。
ゴルバチョフ氏には多くの誤算や誤りもありました。時に民族運動を武力で弾圧しました。彼の手は血に無縁ではありません。特に市場経済改革には踏み切れず、中途半端なままで終わりました。しかしゴルバチョフ氏がいなければ20世紀の末に冷戦の終結とソビエト連邦崩壊という大変革は起きなかったでしょう。ゴルバチョフ氏はプーチン大統領がウクライナへの軍事侵攻を進める中で、亡くなりました。

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「人間の命ほど大切なものはない」と対話による解決を最後まで求めていました。今、ロシアと世界は、武力の行使を避けて対話による解決を目指したゴルバチョフの方向性とは全く逆の方向に向かおうとしています。
ゴルバチョフは、1931年ロシア南部スタブロポリでウクライナと深いつながりのある家族に生まれました。父方はロシア南部出身の農民、そして母方はウクライナのチェルニゴフから移住したやはり農民の家庭でした。まさにロシアとウクライナのつながりを象徴する農家に生まれました。スターリン時代の弾圧を家族が直に経験していました。私は、ロシア、ソビエトの歴史に根付いた土の匂いのする家庭に育ったことが力の行使を嫌うゴルバチョフの人間性の基礎にあるように思います。

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ゴルバチョフ氏は、ソビエト連邦崩壊後のNATO拡大などアメリカの政策には極めて批判的であり、またドイツ統一などの交渉の中で、NATOの東方拡大はないと欧米首脳が約束したとしています。そしてロシアの復活を目指すプーチン大統領の自立した対外政策にも一定の理解を示してきました。一方プーチン大統領は、ゴルバチョフは口約束だけでドイツ統一に同意したから失敗したのだ、欧米を信じすぎて国益を損ねたと考えているのです。

しかしゴルバチョフが指導者であれば決してどのようなことがあってもウクライナに対して軍事力を行使することはなかったでしょう。「危機を軍事力によって解決することはできない。決裂ではなく対話の継続、そして相互の利益を考慮した妥協の模索」これがゴルバチョフ氏の進めた外交政策の基本です。力を行使したプーチン氏の方がロシアと国際社会、とりわけウクライナとの亀裂を決定的にし、ロシアの国益を損ねたのではないでしょうか。
ゴルバチョフの改革からソビエト連邦崩壊、そして今のプーチン大統領によるウクライナ軍事侵攻、ゴルバチョフは今のロシアでは否定されています。
なぜここに至ってしまったのか。1990年代、欧米の資本主義と自由主義の勝利が謳歌する中で、ロシアの改革、ロシアを欧米のパートナーとすることの重要さと難しさをロシア自身もそして国際社会もあまりに軽く考えていたのではないか。そして大事な連邦崩壊後の「安全保障の枠組みを地道に築くことを疎かにしてしまったのではないか。
私はそのように考えます。
プーチン支持の中核と言われる今の50代や60代は、私がともに取材し深く付き合った世代で、彼らほど自由を待ち望んでいた世代はありませんでした。
晩年のゴルバチョフ氏は反プーチンのデモを行う人々を敵と見なしてはならないとした上で「ロシア国民に自由は必要ないという考え方に私は決して同意しません」と述べています。冷戦時代の厳しい東西の対立を知っている世代として、その冷戦を終結させたゴルバチョフ氏に改めて敬意を表するとともに、ロシアの民主化を信じるゴルバチョフの意思がロシアで引き継がれることを願い、今後のロシアの行方を見守りたいと思います。

(石川 一洋 専門解説委員)


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