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水俣条約発効5年 教訓をどう受け継ぐ

土屋 敏之  解説委員

水俣病の原因となった水銀による健康被害や環境汚染を防ぐための条約「水銀に関する水俣条約」が発効してから今月でちょうど5年。水銀の規制には一定の進展も見られる一方、なお多くの課題が残されています。水俣病の被害者は高齢化が進み年々亡くなる方が増えている今、何が必要なのか考えます。

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「水銀に関する水俣条約」は、水銀の採掘から使用、そして廃棄に至るまで包括的に規制する初めての国際条約です。2013年に熊本県で開かれた会議で採択され、2017年8月に発効。現在は130か国以上が参加しています。
条約が作られた背景には、決して日本だけのものでも過去のものでもない世界に広がる水銀汚染があります。近年でも水銀は新たに採掘され、化学工業から身近な歯の詰め物まで年間4千トン以上使用されてきました。
今も日本でも一部のボタン電池や蛍光灯などに微量の水銀が使われていますが、世界的に最も多いのが、小規模な金の採掘のための使用です。
水銀を板に塗りつけその上に砂金を含む土砂を流すと、水銀は金と結びつく性質があるため板の上に金の化合物が残ります。これをバーナーで加熱し水銀を飛ばすことで簡単に金が採れるという方法で、南米アマゾン川流域やアジア・アフリカなどの途上国に今も広がっています。

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しかし、蒸発した水銀を吸い込むリスクに加え、廃液が川に流れ込むと微生物の働きでより毒性の強いメチル水銀ができたり、それが水中の生き物の食物連鎖で濃縮されていくおそれもあります。実際、川魚を多く食べる周辺住民の体から高濃度の水銀が検出されています。
そして、世界各国で排出されてきた水銀の影響で、海の食物連鎖の上位に位置するクジラ類やマグロなどでは現在も比較的濃度が高い傾向があります。そのため、水俣病とは異なりますが、子供の発達への影響の懸念から妊婦は食べ過ぎないよう、日本でも厚生労働省が注意を促しています。
こうしたことから、再び健康被害につながることが無いよう世界全体で水や大気など環境に排出される水銀を減らしていく必要があるのです。

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そこで水俣条約では、水銀の使用や環境への排出を削減することをはじめ、採掘は条約発効から15年以内に禁止、一定量以上の水銀を使った製品の製造も禁止し、貿易は条約で認められた用途のみとするなど包括的な規制を定めました。
条約に対応するため、各国で法令の整備も行われてきました。日本では化学工業の製造工程では水銀は既に使われていませんが、これが法律でも禁止され、古い温度計や蛍光灯、ボタン電池など水銀を含む製品の廃棄物は分別回収など適正管理がルール化されました。さらに、石炭や廃棄物の焼却を行う施設などは水銀が混じるおそれがあるため大気への排出規制も設けられました。

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こうした各国の規制によってどれだけ効果があがっているかは現在条約事務局で分析中ですが、イギリスのシンクタンクによれば水銀の貿易量は既に大きく減っています。
とは言え、水銀の使用や排出が減ったとしても、大気や海水中の水銀濃度はこれまでに排出されてきた量が影響するため低下するまでに時間がかかります。
京都大学と国立環境研究所などのグループがコンピューターモデルで予測に取り組み、各国が積極的に対策を進めた場合でも大気や海水中の水銀濃度が低下するのは2030年代後半以降になると見積もっています。研究グループの代表・高岡昌輝教授は、魚などに取り込まれた水銀を摂取することによる人体へのリスクが低減するには長い時間がかかると見ています。
水銀汚染の解決には世代を超えて取り組み続ける必要があるのです。

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そして、忘れてはならないのが、水銀規制の出発点と言うべき水俣病の問題も決して解決したわけではないと言うことです。
先月、水俣病の患者や被害者が当時の山口環境大臣とオンラインで懇談し、いまだに実施されていないしらぬいかい不知火海沿岸の住民健康調査の早期実施などを求めました。この健康調査は、2009年に作られた法律で水俣だけでなく周辺の住民に速やかに実施することが国の責務とされています。ところが、今も国は「適切な調査の手法がまだ開発できていない」として、いつ調査を実施するかの見通しさえ示していません。
しかし、1956年に水俣病が公式確認されてから66年。被害者は高齢化が進み、認定患者3千人のうち存命の方は400人を切っており、国には一刻も早い真摯な対応が求められます。

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さらに、時間と共に難しさを増しているもうひとつの課題が、水俣の教訓の継承です。
水俣市立水俣病資料館では、この病気の原因や実態、地域の人たちの取り組みなどを展示すると共に、患者や家族が直接、来館者に貴重な体験を話す「語り部講話」も行われてきました。しかし、コロナ禍で訪れる人は激減。以前は年間4万人が訪れていたのが2020年度は2千人台にまで落ち込み、語り部講話は感染対策の面から中止せざるを得ませんでした。
昨年度は館内展示をヴァーチャルリアリティで公開し、語り部講話は熊本県内の小学生にオンラインで行うなど工夫も重ねてきました。認定患者で語り部の会会長のおがたまさみ緒方正実さんは、オンラインでの講話にはよい面もある一方で、やはり実際に今の水俣を訪れ患者の生の姿に接することで初めて伝わることもあると言います。そして、「未来を背負っていく子どもたちに私たちの時代に起こした水俣病のような悲惨なできごとを絶対に起こさないよう伝えなければならない」と不自由な体をおして講話を続ける理由を話していました。水俣病の患者や家族が務める「語り部」は今や全員が60歳以上となり、体調を崩して活動できない人も年々増えています。
そして、教訓を次世代に伝えようと模索しているのは患者や家族だけではありません。
先月東京丸の内で、長年水俣で撮影を続けてきた9人の写真家が合同で写真展を開きました。85歳の写真家・桑原史成さんは、「60年間撮影してきて、今何を撮るかよりこれまでの記録をどう残すかが重要だと思っている。風化させるかどうかは撮影者だけでなく多くの国民の認識にかかっている」と言います。
水銀汚染によって生じた水俣病は、環境問題が私たちの命に密接に関わる問題だと世界的に認識されるようになった原点のひとつと言えます。その教訓をどう次世代に伝え、悲惨な健康被害を二度と生まない世界にするのか?水俣の経験を風化させないことが、いま我々世代に求められています。

(土屋 敏之 解説委員)


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