「ゴルバチョフ連邦大統領が病気で職務執行不能となりました」
(1991年8月19日ソビエト国営テレビ ニュース)
1991年8月19日ソビエトの改革を進めたゴルバチョフ失脚という衝撃のニュース、ソビエト共産党、軍、治安機関の保守派が民主化の流れを止めようとした事実上のクーデターでした。
しかし民主化を支持する市民が立ち向かいました。私は抵抗の拠点となったロシア最高会議ビルの周りで取材していましたが、特殊部隊が制圧に来るとの情報が流れる中、数万人の群衆が恐怖にひるむことなく集まっていました。その声は今も耳の奥に残っています。
クーデターの失敗はソビエト連邦崩壊への歯車を大きく進めました。この時の民主主義の勝利がロシアの出発点となっています。しかし皮肉なことにプーチン体制の今、クーデター派に通じる保守的な感情が強まり、「民主主義の勝利」は忘れられようとしています。
今日はクーデター未遂事件の歴史における重要な意義となぜそれがプーチン体制のロシアでは忘れられているのか、考えてみます。
▼クーデター未遂事件とはなぜ起きたのでしょうか。
ソビエト連邦は、ロシアやウクライナやなど15の共和国を束ねた連邦で、正式名称はソビエト社会主義共和国連邦、共産党の一党独裁に基づく中央集権体制でした。
しかし91年当時、ソビエト連邦は大きく揺らいでいました。
連邦の大統領はゴルバチョフ、改革は行き詰まりを見せていました。独立の動きを進めるバルト三国、一方最大の共和国ロシアも国家主権を宣言、エリツィン氏が大統領に就任し、ウクライナなどほかの共和国と連携を強めていました。連邦の大統領がいてロシアの大統領がいる。双方の綱引きが連邦の基盤を揺るがしていました。ゴルバチョフは連邦を維持するためにロシアやウクライナなど9つの共和国と共和国の権限を大幅に拡大した新たな連邦条約・主権国家連邦条約で合意、調印は8月20日に行われることになっていました。その前日に軍と治安機関のトップを含む連邦の保守派が国家非常事態委員会を組織して事実上のクーデターを起こしたのです。社会主義もソビエトという言葉もない新連邦条約の内容に激怒し、連邦を守る試みでした。クリミアの別荘に休養中だったゴルバチョフ大統領を病気として軟禁、19日秩序と国の統一の回復を訴えて全権掌握と非常事態をテレビで布告、モスクワには戦車部隊を導入しました。
ロシアが屈服するかどうかが焦点でした。ロシアのエリツィン大統領のもとには19日朝の時点で、10人に満たない警護しかありませんでした。武力の面では軍と治安機関を握る連邦のクーデター側が圧倒していました。また国営テレビやラジオはクーデター側が抑えていました。
ではなぜクーデターは失敗したのでしょうか。確かに首謀者には決断力もありませんでした。私はロシア共和国のエリツィン大統領の政治家としての胆力、政治的な勘の鋭さと民主化による市民の意識の変化だと思います。
【VTR】19日昼、ロシア最高会議ビルに軍の戦車が近づいてくるとエリツィン大統領は、側近の制止を振り切り、兵士たちと話をしたいと外に出て、戦車の上から国民への呼びかけを読み上げました。
「テレビもラジオも放送してくれない。合法的な連邦大統領が失脚させられた。これは右翼反動勢力による非合法なクーデターだ」
国家非常事態委員会を非合法と決めつけたこの演説はクーデターに対する民衆の抵抗に法的基盤と勇気を与えました。戦車の上に立つエリツィンは巨大なソビエト体制への抵抗のシンボルとなりました。ほかの共和国の指導者が日和見を決め込む中でこの時のエリツィンの決断力は傑出していたといえるでしょう。
当時は今とは異なり、インターネットも携帯もありませんでした。しかし市民は様々な伝達手段を使い情報封鎖に穴をあけました。外国メディアの情報を受信する衛星放送。また国営テレビでも記者がコメントバックとして抵抗する人々の映像を流しました。民間ラジオ、ファクシミリを使った民間通信社も現れました。
【VTR】20日夕方には数万人の人々が最高会議ビルの周囲に集まりました。国際社会もエリツィン大統領に呼応して非常事態委員会は認めないとの厳しい態度を明らかにしました。モスクワの抵抗が各地に広がる中、軍や治安部隊が命令を拒否する事態も相次ぎ、軟禁されていたゴルバチョフ大統領がモスクワに戻り、クーデターの参加者は逮捕され、わずか三日で失敗に終わりました。
この事件は、ロシアの市民が自ら民主主義を守り、独立した民主国家ロシアの基礎を築くとともに、ほかの共和国の自立も守ったという点で歴史的な意義を持つものです。
▼クーデター未遂事件はその後の歴史にも大きな影響を与えました。
まず社会主義運動の中心だったソビエト共産党が消滅しました。ゴルバチョフ大統領が共産党書記長を辞任し、組織的にクーデターに関与していたとしてソビエト共産党中央委員会に解散を命じました。まさに「歴史の終わり」とも言えました。
当時共産党は巨大な組織をまだ維持し、資金も豊富でした。もしもソビエト共産党保守派が自爆していなかったら、権力の揺り戻しの危険性はあったでしょう。
新たな連邦条約調印の可能性は消えました。各共和国の自立は一気に進み、8月24日ウクライナの最高会議が独立宣言を採択し、またそれまで自立に消極的だった中央アジア諸国も主権宣言を行いました。
共産党の消滅と連邦の形骸化の中でゴルバチョフ大統領の権力基盤は無くなりました。彼はその後も新連邦条約を生き返らせようと必死の努力を続けますが、最終的には12月にソビエト連邦は崩壊いたします。しかし8月にその命運は尽きていたといえるでしょう。
まさにロシアの歴史の転換点となった事件となったといえます。
しかしプーチン体制の今、ロシア国民は冷たい、突き放した見方をしています。
最新の世論調査です(レバタセンター)
あの事件で誰が正しかったのかという質問です。
どちらも正しくない 66%
国家非常事態委員会 13%
エリツィンら民主派 10%
クーデターへの抵抗に直接参加した世代、今の40代以上でクーデター派が正しいとする意見が15%ともっとも多くなっています。事件当時は圧倒的に民主派支持だった世代です。連邦崩壊後のロシアの混乱の中で期待が失望に変わったこともあるでしょう。
まさにこの世代といえるプーチン大統領自身の複雑な立場も影響を与えています。
プーチン氏は当時レニングラード・今のサンクトペテルブルクで民主派市長の側近として反クーデターの前線に立っていました。クーデターの失敗はありふれたKGB機関員にエリツィン派としての出世の道を開きました。自らも主要な参加者の一人だった「民主主義の勝利」を否定することはできません。
しかしその一方プーチン氏はソビエト連邦の崩壊は20世紀の地政学的な悲劇としています。かけがえのない祖国ソビエト連邦を喪失したという気持ちは連邦を守ろうとした保守派の心情と相通じるものがあります。90年代の混乱の中で自由よりも安定と秩序を求める国民の意識が強まりました。その上に安定と秩序を優先するプーチン体制が築かれています。安定と秩序、クーデター派が掲げたスローガンです。
それゆえプーチン大統領はこの事件について公言することはほとんどありません。
クーデターが失敗した直後、ロシアと欧米は価値観を共有した、と思いました。今は、去年の憲法改正、そして今年7月の安全保障に関する戦略の改定で、欧米との関係にイデオロギー的な対立の色彩が強まっています。ロシアの安保政策を定める基本文書で保守伝統的な価値観を守るロシアとリベラリズムの欧米という対立軸を立てているのです。
「民主主義の勝利」が忘れられる中で欧米との対立が深まっています。
しかしこの事件はロシアの市民が自らの手で民主主義を守ったという点でその歴史における意義は薄れるものではありません。
(石川 一洋 解説委員)
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