NHK 解説委員室

解説アーカイブス これまでの解説記事

「『自由貿易の番人』WTOの危機」(時論公論)

櫻井 玲子  解説委員

自由貿易を促進し、各国の通商紛争の解決に取り組んできたWTO・世界貿易機関が今、危機に直面しています。
WTOに不満をもつアメリカの反対で、貿易紛争の裁定を行う委員を任命できず、機能不全に追い込まれる可能性が高くなっているからです。
「自由貿易の番人」とも呼ばれるWTOが、なぜこのような事態を迎えることになったのか。その背景と、考えられる影響、そして今後の課題について、考えます。

j191206_01.jpg

【WTOとは】

j191206_02.jpg

WTOは貿易の自由化や、そのルールづくりを目的に設立された国際機関です。
現在、164もの国・地域が加盟しています。
その設立の背景には、かつて各国で保護主義が台頭し、貿易を巡る衝突が、やがて第二次世界大戦へとエスカレートしていった歴史への反省がありました。
このため、WTOには、各国の間の貿易摩擦を、ルールに基づき、平和裏に解決するための仕組みが設けられています。
これまで処理した紛争は600件近く。国同士の争いを収めることで、貿易の活性化や世界経済の発展に貢献してきました。

ところが今、その紛争処理の仕組みが機能しなくなる可能性が高まっています。

j191206_03.jpg

二国間で貿易上の争いがおきると、WTOではまず、二国間で協議が行われ、それでも解決しないものがいわば一審にあたるパネル・小委員会に持ち込まれます。
その結論に不満がある国は、さらに2審である上級委員会に上訴、訴えることができます。
ここで重要なのは、WTOの判断は、法的拘束力をもつ、ということです。
その勧告に従わない国があれば、相手国は報復措置をとることが認められます。
つまりWTOは国際機関にしては珍しい、強い権限を与えられているといえます。

【何が問題なのか】 
そしていま、この上級委員会がアメリカの標的となっています。

j191206_06.jpg

上級委員会の委員は定員が7人。
委員の任命は加盟国の全会一致が必要で、通商や国際法の専門家らが承認されれば、4年の任期をつとめます。
ところがアメリカは2年前から、委員の新たな任命や再任を認めることを拒否。
もともと7人いた委員は、すでに、3人に減っています。
審理を行うには最低でも3人の委員が必要という取り決めなので、ぎりぎりの人数でまわしてきたというわけです。

j191206_09.jpg

そして、ついに今月10日には、この3人のうち2人が任期切れを迎えますが、今度もまた、アメリカの反対で委員を補充できず、いよいよ上級委員会での審理ができなくなる事態が近づいています。
では、アメリカはなぜそこまでWTOを追い込もうとしているのでしょうか?

j191206_10.jpg

直接的なきっかけは、やはり、中国への対応に対する不満です。
中国政府が国内企業へ補助金を出して海外企業との競争を優位にすすめたり、知的財産権を侵害したりしているのにもかかわらず、WTO、特に上級委員会が中国に有利な判断を下すことが多いと、アメリカが感じているからです。
ビジネス界、特にトランプ大統領の支持基盤の一つである鉄鋼業界にWTOへの不満が広がっていて、政権として配慮をしているのではないか?という指摘も、専門家からはあがっています。
ただ、WTOのやり方が気に入らないからと、機能停止にまで追い込めば、国際ルールが無視され、報復が報復を呼ぶ、最悪の事態を招きかねません。
アメリカの手法は、性急で、危険をはらんでいる、といえるのではないでしょうか。

一方、設立から四半世紀たったWTOに改革すべき点はあり、アメリカの言い分にも、聞くべきところがあるのも実情です。

j191206_11.jpg

例えば、上級委員会は、一審にあたるパネルで行われた「事実の認定」には立ち入らない、と決められているのに、実際にはそれを尊重しない判断が多いという批判です。この点については、アメリカだけでなく、日本も苦い経験があります。
ことし5月、福島県など8つの県の水産物輸出を巡って、日本が韓国にWTOで逆転敗訴したケースです。
「日本の食品は安全だ」と一審では確認されたはずなのに、その点を踏まえない判断が上級審で下されたのです。
WTOは与えられた権限を越えた判断をしている-そんな不満の声はアメリカだけでなくほかの加盟国からも聞こえてきます。

j191206_12.jpg

さらには、紛争解決に時間がかかりすぎる問題も指摘されています。90日以内が原則なのに、紛争が複雑化し、1年以上かかっているケースも多数ある、ということです。またその影響で、委員が任期切れを迎えても、加盟国の了解なしに、そのまま審理を継続して担当することもあり、これも批判の的となっています。

そこで、日本やEU、それにニュージーランドなどは、アメリカの主張も踏まえた改革案を提案し、同意を取り付けようとしてきました。
しかし、アメリカは歩み寄りの姿勢をみせていません。
日本政府関係者は、「具体的にどうすればアメリカが振り上げたこぶしをおろすのか、着地点がみえていない」と話しています。

【今後の影響と対策】
それでは、期限までに上級委員会の委員が任命されないと、どのような影響が出るのでしょうか?
問題は、新しい案件を受けつけられなくなる上、影響が上級委員会にとどまらないことです。

j191206_06_3.jpg

一審であるパネルでは引き続き、審理ができますが、どちらかが上訴すると、いつまでたってもこの判断が確定しません。WTOに訴えても、判断が確定しなければ「違反したもの勝ち」になる恐れもあり、「バケツに穴があいている状態」が続きます。
世界各地で貿易摩擦が増えている今こそ、WTOに最大限の役割を果たしてほしいわけですが、実際にはこうした紛争処理制度が破たんしてしまう恐れがあります。
となると、どうすればよいのか?各国からはいわば緊急対応策を模索する動きも出ています。

j191206_17.jpg

▼一つは「臨時上級委員会」を設けるアイディアです。これはEUとカナダ、それにノルウェーが後押ししていて、貿易紛争のために、独自に専門家を任命し、上級委員会の動きが止まっている間、有志国は、こちらの裁定に従おうというものです。
▼また、当事者間で第一審を始める前に予め取り決めをし、第一審の勧告が出たら、上訴はせず、そのまま受け入れると決めたケースもあります。タイとベトナムがすでに係争中の案件でこのような合意を発表しています。
上級委員会の機能不全が長期化すれば、これ以外の加盟国もこうした枠組みに賛同していく可能性があります。

しかし、もう少し長い目でみれば、WTO改革の、より抜本的な議論は避けられないように思います。アメリカを置き去りにすれば、脱退という方向に背中を押してしまう危険すらある、と多くの関係者は警告しています。
何を決めるにも、164もの加盟メンバーの全会一致を、原則として必要とするWTOは、各国の温度差をなんとか埋め、世界の貿易秩序を守るという難しさを抱えながら、歴史を刻んできました。このため時代の急速な変化についていけず、スピードが遅い、とか、今回のアメリカのように一つの国でも反対をすると協議がストップしてしまってなかなか決まらない、といった弊害も指摘されています。WTOをどう改革すればいいのか、根本から見直すよい機会ではあると思います。

ただ、忘れてはならないのは、来年で設立から25年を迎えるWTOは、経済面での紛争を本当の戦争に発展させないための「知恵」であり、貿易自由化による世界経済の繁栄、という大きな恩恵をもたらしてきたということです。
これまでの努力を無にしないためにも、事態を打開するための各国の思慮と、行動が、求められています。   

(櫻井 玲子 解説委員)   

キーワード

関連記事