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「日米貿易協定~スピード決着の背景と評価」(時論公論)

神子田 章博  解説委員

日本とアメリカの間の貿易交渉が合意に至りました。本格的な交渉スタートからわずか半年でスピード決着した今回の合意をどう評価すべきか。結論から言うと、手放して成果を誇れるようなものでもないと、私は考えます。今夜はこの問題をとりあげます。

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解説のポイントは三つです
1) 守られたか TPP並み水準
2) 米中摩擦が日本の追い風に
3) 今回の合意をどう評価するか

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1) 守られたか TPP並み水準

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最初に、最も注目された農業分野の合意の中身をみていきたいと思います。焦点は、TPP=環太平洋パートナーシップ協定並みが守られたかどうかです。
アメリカが離脱する前のTPPの合意では、輸入牛肉の関税は、現在の38.5%から最終的に9%にまで引き下げることになっていました。これを踏まえ日本政府は去年9月の日米共同声明に、「TPPの合意の水準が、農産物の関税引き下げの最大限という」という文言を盛りこみました。その後、トランプ大統領が安倍総理大臣の目の前で「私はTPPとは関係ない。アメリカはTPPには縛られていない」と発言したこともあり、一時は、TPP並みの実現を危ぶむ見方もでていました。しかし最終的に牛肉をはじめ豚肉などの農産物に関しては、TPPと同様の関税引き下げで合意しました。さらにTPPで合意していた関税を課さないコメの輸入枠については、日米協定では盛り込まないことになりました。アメリカから一定の譲歩を引き出した形で、TPPよりも日本にとって有利な内容となったのです。このように農業分野では、総じて日本の思惑通りに事が運んだといえます。

2) 米中摩擦が日本の追い風に

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その背景には何があったのか。わたしは長引く米中摩擦が大きな追い風になったと思います。
アメリカは中国との協議の中で、政府による事実上の補助金や知的財産権の侵害が外国企業との公正な競争を妨げているとして、国際ルールをきっちりと守るよう求めています。これに対し中国側は、国家体制の原理原則に関わる問題だとして、一切譲歩しない姿勢を崩していません。実は今月日本の経済界の代表団が中国を訪れて李克強首相と会見したのですが、日本側が中国に、「先進国と同等の立場でグローバル経済の秩序形成に責任ある役割を果していくよう」求めたのに対し、李首相は「中国は世界最大の発展途上国として多国間の自由貿易システムを支持する」と応じていました。この言葉からは、中国が先進国並みの厳しい国際ルールが適用されない発展途上国としての地位を維持したいという思惑と、保護主義的な行動が目立つトランプ政権をけん制する狙いが透けて見えます。このように米中協議は依然として解決の糸口が見えず、長引く様相を呈しています。

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こうした中で、アメリカ国内では農家の不満が強まっています。
中国はアメリカへの対抗措置として、アメリカ産の大豆などの農産物に高額の関税を上乗せしており、アメリカから中国へ輸出が大幅に減っています。さらにアメリカがTPPを離脱したことで、日本に牛肉を輸出する際の関税は38.5%のままになっており、関税が下がったオーストラリアなどと比べて不利な立場に立たされています。トランプ大統領が来年の大統領選挙で再選をはかるうえで中西部の農家票は重要なカギを握っています。このため、日米交渉では農業分野での成果を有権者にアピールしなければならない。そのためには日本に多少譲ってでも、交渉の合意を急ぎたい。日本との交渉にのぞむトランプ政権にはそうしたあせりがあったものとみられます。

3)今回の合意をどう評価するか 

このように今回の交渉では、いわば日本への追い風が吹いていたことを踏まえ、改めて合意の内容を評価すると、果たして手放しで成果を誇れるものなのか疑問に思います。その理由の一つが、アメリカが輸入車にかけている関税の問題です。

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TPPの合意では、2.5%の関税を25年かけてゼロにするとしており、日本政府は日米協定でも乗用車の関税の撤廃を盛り込むよう求めていました。これに対しアメリカは強硬に反対。自動車分野ではただでさえ巨額の不均衡がある中で、大統領選でカギを握る中西部に本拠を置く国内の自動車メーカーの理解を得られないからです。しかし、WTO=世界貿易機関のルールでは、二国間の自由貿易協定は、貿易額全体の90%程度を対象にしなければならないという解釈が一般的で、日本からの輸出額の3割あまりを占める自動車分野が対象外となれば、ルール違反になるおそれがありました。日本が必死に説得した結果、協定に「さらなる交渉による関税撤廃」という表現が盛り込まれましたが、具体的な期限は示されず、現時点で実質的な成果はないという厳しい見方もあります。
さらに、より深刻なのは、アメリカの一方的な関税引き上げの問題が、根本的に解決されず先送りされたことです。

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日本がアメリカとの貿易交渉に応じた背景には、アメリカが安全保障上の理由から輸入車に25%の関税を上乗せする措置を検討していることがありました。実際に発動されれば、対米輸出が年間170万台にものぼる日本の自動車産業は大きな打撃を受けることになるからです。このため、アメリカとの貿易交渉に応じることといわばひきかえに、交渉が続いている間は高額の関税を発動しないという合意をとりつけたのです。しかし、そもそもアメリカの一方的な関税引き上げは、自由貿易のルールに反する疑いが強いといわれています。これに対し、日本は正面から対峙する道を選びませんでした。その結果、関税の引き上げをてこに日本を貿易交渉のテーブルにつかせることができたという一種の成功体験をアメリカ側に与える形となったのです。
ではその交渉が合意に至ったいま、高額関税の行方はどうなるのでしょうか。
今回発表された日米共同声明には「協定が誠実に履行されている間は、協定や共同声明の精神に反する行動はとらない」という文言が明記され、日本政府はこれをもって、アメリカが高額の関税を発動しないことが確認されたとしています。しかしこの文言は、「協定が誠実に履行されている間は」といういわば期間限定で発動しないとしているだけで、関税カードを完全に手放したわけではないとも読みとれます。
これに加えて私が気になるのは、去年9月の日米共同声明の内容です。

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この中では、農産物の関税引き下げはTPP並みにするという主旨の文言のすぐ下に「日本は、自動車業界の製造や雇用の増加をめざすアメリカの立場を尊重する」とも書かれているのです。アメリカはこの前段部分の合意を守った形です。となると今後の自動車分野の協議の中で、この後段部分の合意をたてに、日本の自動車メーカーによるさらなる現地生産の拡大などをせまってくる可能性もあります。その際、いまだ手の内に残す高額の関税というカードをちらつかせながら、日本に譲歩をせまってくるおそれも依然残っているのです。そう考えると、今回の合意は、とりあえず目の前の嵐をやり過ごしたものの、重要な対立点の解消は先送りされたに過ぎないと評価すべきではないでしょうか。

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日本はアメリカがTPPから離脱した後、残る10か国に対し、いつかはアメリカもTPPに復帰することを前提に、アメリカ抜きのTPP11で合意するよう働きかけてきました。それを考えると今回の合意で日本にとって良い結果がでたからそれでよし、とするのでは、TPPのほかの加盟国から理解を得られないのではないでしょうか。
今後のアメリカとの交渉をどう進めていけば、自由貿易を守る国際的な枠組みの強化につなげていくことができるのか。性根を据えた通商戦略が改めて問われることになります。

(神子田 章博 解説委員)


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