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「日韓の新たな火種か 元徴用工問題」(時論公論)

出石 直  解説委員

北朝鮮への対応で日本と韓国の緊密な連携が求められているこの時期に、韓国のムン・ジェイン大統領から日韓関係に水を差しかねない発言が飛び出しました。
先月から韓国で公開されている映画「軍艦島」。終戦間際、長崎県の端島(はしま)=通称、軍艦島で過酷な労働に従事していた朝鮮半島出身の若者たちが集団で脱出を試みるというストーリーです。
歴史的事実に基づいたものではなく、日本国内では「誤った歴史認識を伝える恐れがある」という批判がありますが、ムン・ジェイン大統領の発言はこの映画をきっかけに韓国国内で徴用工への関心が高まっている中で行われました。

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その発言です。

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「個人請求権、つまり朝鮮半島から内地に動員された元徴用工の人達が日本企業に損害賠償を求める権利は残っている。韓国政府はそうした立場で歴史問題に臨んでいる」と述べたのです。真意をもう少し確かめる必要はありますが、「元徴用工の問題は解決済み」としてきた韓国政府の従来の立場を覆したとも受け取れられかねない重大な発言です。
この問題では、新日鉄住金や三菱重工など日本の企業に損害賠償などを求める裁判が韓国国内で相次いで起こされています。今後の展開によっては慰安婦問題以上に深刻でやっかいな火種になりかねません。

まず元徴用工問題とは何か、簡単にご説明します。

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日中戦争で深刻化した労働力不足を補うため、日本政府は国家総動員法と国民徴用令によって民間人を軍需工場や炭鉱などに動員しました。戦火の拡大によって対象は日本の植民地だった朝鮮半島にも広げられました。徴用された朝鮮半島出身者の数については公式な記録が残されていないため正確にはわかりませんが、研究者の調査では70万人から80万人くらいと推定されています。

この問題は、戦後の国交正常化交渉の主要議題のひとつでした。14年に及んだ交渉の末、1965年に両国は国交を回復します。この時、結ばれた請求権協定の第2条1項には「日韓両国と国民の財産、権利及び利益、並びに請求権に関する問題が、完全かつ最終的に解決された」と明記されています。韓国政府も日本政府が拠出した経済協力資金の運用に関する法律を制定し、徴用で死亡した人に対し、ひとりあたり30万ウォンを支給しています。

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これが「この問題は完全かつ最終的に解決している」とされる根拠です。

請求権協定で何が解決し、何が解決していないかをめぐっては、長い間、論争がありました。
元徴用工やその遺族は「まだ解決していない」として1990年代から日本政府や企業に損害賠償などを求める裁判を次々と起こしました。しかし一連の裁判は2007年4月、最高裁判所で「完全かつ最終的に解決済み」とする判断が示され、日本での訴訟の道は閉ざされました。

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韓国で、歴史の清算の問題に積極的に取り組んだのがノ・ムヒョン政権でした。何が解決され、何が解決されていないのかの検証を行ったのです。

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その結果、国交正常化交渉時には存在が知られていなかった慰安婦や韓国人被爆者などは「請求権協定では解決されていない」と結論づけました。しかしこの時の検証でも、元徴用工については韓国国内で立法措置が取られていることなどを理由に「解決済み」とされ、韓国政府も裁判所もこの立場を踏襲してきました。

この問題が再び浮上したのは、2012年に韓国の最高裁判所で示された判決がきっかけでした。

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請求権協定で解決済みであり被害者個人が損害賠償を求めることはできないとしていた判決を破棄し、裁判をやり直すよう高等裁判所に差し戻したのです。「日本の国家権力が関与した反人道的不法行為や植民地支配に直結した不法行為による損害賠償請求権は、請求権協定によっても消滅していない」という初めての判断でした。この判決をきっかけに韓国国内では、日本企業に損害賠償を命じる判決が次々と出されるようになりました。
解決済みとされていた元徴用工の問題が、この韓国の最高裁判所の判決によって、一転、未解決とされたのです。

当時、軍需工場や炭鉱などに動員された人達の労働環境が劣悪で過酷だったことは確かです。

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日本で起こされた裁判でも、「有刺鉄線に囲まれた寮で12畳の部屋に12人が収容されていた」「食事は粗末で休日は月に1、2回しか与えられなかった」「こん棒で腰を20回も殴られた」といった過酷な実態が認定されています。

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安倍総理大臣も戦後70年にあたって発表した談話の中で「何の罪もない人々に、計り知れない損害と苦痛を我が国が与えた事実をかみしめる時、ただただ断腸の念を禁じえません」と述べています。誰もが苦難を強いられていた戦時下という特殊な状況だったとはいえ、こうした歴史の事実は謙虚に受け止めねばならないでしょう。

ここまで元徴用工問題をめぐるこれまでの経緯をみてきました。
最後に今後の日韓関係への影響について考えます。

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韓国の最高裁判所から高等裁判所に差し戻され再び最高裁判所に上告された訴訟は、最終的な判決が言い渡されないままの状態が続いています。政治的な影響の大きさを考慮して結論を先送りしているものと思われます。最大の焦点は、韓国の最高裁判所がいつ最終的な判断を示すかです。最終的に原告の主張が認められ日本企業に損害賠償の支払いを命じる判決が確定することになれば、1965年の請求権協定で決着したはずの問題がことごとく覆され、日韓関係の根幹を揺るがす政治問題になることは確実です。際限なく次々と裁判が起こされ、日本企業の韓国での活動にも深刻な影響が出るでしょう。

ムン・ジェイン大統領はおととし両政府の間で交わされた慰安婦合意についても、「国民の大多数が情緒的に受け入れていない」として交渉の過程を再検証する作業を進めています。
双方の外交努力によって解決し封印されたはずの問題が再び蒸し返される、ゴールポストが何度も動くと受け取られることは、日韓関係にとってマイナスになるだけでプラスにはなることはひとつもありません。

今週から朝鮮半島有事に備えたアメリカ軍と韓国軍による合同軍事演習が始まりました。
朝鮮半島情勢が緊迫化し、今ほど日本と韓国の緊密な連携が求められている時はありません。韓国政府と司法当局には、とかく感情的になりがちな世論に流されることなく、幾多の努力によって積み重ねられてきた両国関係の歴史を踏まえた慎重かつ理性的な判断を求めたいと思います。

(出石 直 解説委員)

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