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「水俣条約発効 ~水銀被害の無い世界へ~」(時論公論)

土屋 敏之  解説委員

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 きょう8月16日、水俣病の原因となった水銀による健康被害や環境汚染を防ぐための国際条約、「水銀に関する水俣条約」が発効しました。条約を締結した国が50か国以上となり、効力を発揮する発効の要件が満たされたためです。この条約によって何が変わるのか、そして今なお残る課題は何か、こちらの3つのポイントから考えます。

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 水俣条約は4年前に熊本県で開かれた国連の会議で採択されました。有機水銀に汚染された魚介類を食べたことで中枢神経が障害され多くの犠牲者を出した水俣病。そうした被害が再び起きることを防ぐため、採択には日本が主導的な役割を果たした条約です。
 水俣条約ができた背景には、世界では今も大量の水銀が使用され新たな健康被害につながりかねない環境汚染が広がっている実態があります。例えば、金を採掘するための水銀の使用です。

<VTR:小規模金採掘の様子>
 こちらはブラジルのアマゾン川流域で行われてきた金採掘の様子です。水銀を板に塗りつけ、その上に砂金を含む土砂を流します。水銀は金と結びつく性質があるため板の上に金の化合物が残り、簡単に金を採れるということで、アジアやアフリカなどの途上国にも広がっています。しかし、垂れ流しにされた廃液が土壌や川に流れ込めば、細菌などの働きで毒性の強い有機水銀に変わり、それが生物の体内で濃縮されていくおそれがあります。実際、周辺住民の体からは高い濃度の水銀も検出されました。
 他にも水銀は世界の化学工業の製造工程で反応を進める触媒として使われたり、蛍光灯などの身近な製品にも使われています。

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 水俣条約はこうした水銀の生産から廃棄まで幅広く規制対象にした初めての国際条約です。例えば新たな水銀の採掘は今後禁止され、貿易にも条件が課せられます。一定量以上の水銀を含む製品の製造は禁止され、金の採掘への使用は減らさなくてはなりません。大気や水、土壌など環境中への排出も規制されます。世界全体で対策を進めるため途上国への支援についても盛り込まれました。

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 この水俣条約に対応するため、国は新たな法令を整備してきました。これによってなにが変わるのか主なものを見ていきます。
 まず、産業分野です。水銀の採掘や化学工業の製造工程への使用が禁止されましたが、これらは既に国内で行われておらず影響が無いと見られます。
 一方で複数の業界に影響するのが大気への排出規制です。水銀は実は石炭や金属の鉱石にも混じっているため資源の輸入に伴って意図しなくても日本に入ってきます。そして、石炭を燃やすことなどで大気中に排出されているのです。石炭の燃焼や、非鉄金属の製造、廃棄物の焼却、そしてセメント製造施設は条約で排出規制の対象になり、国内でも大気への水銀の排出基準が作られ、事業者に遵守が義務づけられます。

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 そして、複雑な規制になったのが水銀を含む製品を廃棄する際の扱いです。
事業者が水銀を使った温度計など計測器類を廃棄する場合は、環境汚染が生じないよう中に入っている水銀を回収して処分することが義務づけられます。他に身近な製品では全ての蛍光灯や一部のボタン電池も水銀を含んでいます。これらは濃度が低いため含まれる水銀を取り出すことまでは求められませんが、廃棄する際は水銀が地下水に溶け出さない「管理型」などの処分場に処理しなくてはなりません。
 こうした製品を製造する事業者に対しては、使用者が適切に分別処理できるよう水銀を含むことを情報提供することが「努力義務」とされました。但しあくまで努力規定で罰則も無いため取り組みは各企業に委ねられています。例えば蛍光灯では主な製品にはこのようにHg(水銀の元素記号)マークがつけられるようになっています。一方で電池業界は水銀を含まないボタン電池は以前からアピールしていますが肝心の水銀を含むものは表示しない方針で、わかりにくさは否めません。
 こうした水銀を含む製品の廃棄は、事業者だけでなく一般の消費者にも関係します。家庭で使われている蛍光灯やボタン電池なども、市町村に対して分別回収することが努力義務とされたためです。ボタン電池は電気店などでも回収が行われていますので、私たち消費者も蛍光灯やボタン電池は分別して出すことが望まれます。
 このように必ずしも十分とは言えない面もありますが、水俣条約によって今後世界で新たな健康被害を生み出さないための枠組が作られたと言えるでしょう。

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 一方で忘れてはならないのが、水俣条約が発効したからといって、その原点とも言うべき水俣病の問題が解決したわけでは決してないということです。1956年、行政に初めて患者の発生が報告された水俣病の公式確認から、今日までに認定された水俣病患者は3千人弱。しかし、熊本県、鹿児島県、新潟県の阿賀野川流域で発生した新潟水俣病を合わせて、健康被害が生じた人は少なくとも数万人とされ、国が示す患者認定の基準が批判も浴びてきました。国は2009年には水俣病被害者救済特別措置法を作り、新たに約3万8千人の人たちに何らかの救済措置を講じましたが、それでも申請した人のうち1万人近くが認められませんでした。そして現在も国や原因企業などを相手取った訴訟が各地で続いており原告は合わせて1600人を超えています。
 水俣条約には、水銀による健康影響を受けた人たちへの治療や保護の促進も掲げられています。こうした状況と国が正面から向き合い救済を進めていってこそ、最終的な解決につながるのでは ないでしょうか。
 さらに、直接の健康被害だけでなく患者や地域に対する偏見や差別といった問題も無くなってはいません。4年前、条約が出来る際に水俣条約という名前に対して反対意見もありました。水俣の名前がつくことで、また新たな風評被害や差別につながらないかとの不安があったのです。

<VTR:水俣条約の発効決定記念行事>
 先月1日、水俣条約の発効決定を記念する行事が水俣市で行われ、24か国の政府関係者や国連環境計画のソールハイム事務局長らが出席しました。参加者は、水俣病の関連施設や犠牲者の慰霊の碑を訪れ、祈りを捧げました。

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 水俣病患者で語り部として自らの体験を伝え続けている緒方正実さんはこの行事の場で、水俣病は多くの犠牲者を生み出したばかりか、偏見や差別によって市民同士を分断しひとたびは地域社会も壊してしまったと指摘しました。その上で「私たちが経験した水俣病が、水俣条約によってやがては世界の多くの命を救うことを信じている」そして「子供たちのためにその土台作りをしておくのが今を生きる私たちの責任」だと訴えました。
 水俣病の公式確認から61年。多くの患者が亡くなり不自由な体を押して体験を語る人たちの高齢化も進んでいます。来月にはジュネーブで水俣条約の第一回締約国会議が開かれ、途上国への支援などについて具体的な議論が始まります。水銀被害の無い世界に向け対策を急ぐことが、私たちの世代に求められています。

(土屋 敏之 解説委員)

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