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“自力”で甲子園へ 奄美大島の挑戦

2022年1月28日


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ことし3月に行われるセンバツ高校野球に、鹿児島県の大島高校が出場することが決まった。奄美大島の県立高校で、21世紀枠で出場した2014年以来、2回目の出場だ。“自力”で出場を決めた背景には何があったのか。

(鹿児島局記者 松尾誠悟)


中学野球のライバル

物語は3年前の秋、奄美市にある飲食店から始まった。


金久中のキャッチャーだった西田心太朗選手と、龍南中のエースだった大野稼頭央投手。奄美大島の中学野球のライバルで、後に大島高校でバッテリーを組むことになる2人が、お互いの家族とともに夕食を囲んでいた。父親どうしが大島高校野球部の出身で旧知の仲だったこともあり、実現した会だった。

西田選手はこの日、大野投手に伝えようと心に決めていたことばがあった。

「カズオ、一緒に島から甲子園に行こう―」



心は固まった

奄美大島は知る人ぞ知る、高校野球の人材供給源の1つだ。豊かな自然の中で基礎体力が培われているのか、とくに近年、好投手を輩出するケースが目立っている。

去年は神村学園のエースで、楽天にドラフト4位で指名された泰勝利投手が瀬戸内町の中学校出身。それに去年のセンバツで優勝した神奈川の東海大相模の求航太郎投手も、瀬戸内町の小学校出身だ。

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奄美大島の野球少年たちが悩むのが、中学3年生の進路選択のときだという。島に残るか、それとも本土の強豪校に進むのか―。

西田選手も、本土の強豪校から誘いを受けていたという。


西田心太朗 選手

実際に本土の学校のグラウンドへ見学に行ってみて、野球をするのには適しているなって思いました。大学でも野球をしたいし、長く野球をしたいとも思っていましたし。でも、小学校、中学校と奄美大島で野球をやってきて、島の仲間と野球をすることも楽しそうだなと。それに、みんなと野球をすれば甲子園に行けるかもしれないと思えたんです。

西田選手は大島高校に進学することを決めた。それと同時に、島から甲子園を目指すために不可欠だと思ったのが、ライバルで島では抜きん出た存在の大野投手だった。

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そんなタイミングで実現した両家の食事会。実は当時、大野投手も進路に迷っていた。複数の本土の強豪校から勧誘されたが、小学校のころから顔を合わせてきた仲間たちとの“島のきずな”も絶ちがたかった。

「大高(だいこう)に決めたよ。カズオ、一緒に島から甲子園にいこう」

西田選手から告げられ、大野投手の心は固まった。


大野稼頭央 投手

ちょうど進路をどうしようかと悩んでいたときに心太朗(西田選手)が声をかけてくれました。自分も心太朗と一緒にやりたいという思いがあって、バッテリーを組んで甲子園に行こうと言ってくれたので、大高に進んだと思います。


8年前のセンバツの記憶

そうはいっても、大島高校は普通の県立高校で、強豪私学と比べると甲子園を目指す環境が整っているとはいいがたい。

選手たちが大高坂(だいこうざか)と呼ぶ坂を上り、山を切り開いたところにあるグラウンドは、サッカー部やラグビー部、女子ソフトボール部との共用。同時にグラウンドを分け合って使うため、ノックもホームベースとは反対側から打つような状態だ。

さらに、大学進学に力を入れていることから、平日の練習時間はたった2時間。練習試合をするにしても、県大会へ行くにしても、フェリーを使っておよそ12時間をかけて本土へ移動する必要がある。

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そんな中でも西田選手や大野投手が大島高校を選んだ背景には、2014年センバツの21世紀枠での出場があるという。前年の秋の県大会でベスト4に進出。「離島での様々な困難を克服している学校に光を当てたい」といった理由での選考だった。

初戦の相手は、この大会で優勝することになる京都の龍谷大平安。中盤から突き放され、2対16で敗れはしたものの、奄美大島から初めての出場に島はわいた。そして甲子園では、大応援団が一塁側のアルプススタンドを埋め尽くした。

当時、小学生だった今の大島高校の選手たちには、そのときの熱狂が、強烈な原体験として心の中に残されているのだ。大野投手のように実際にアルプススタンドで観戦していた選手もいるという。


大野稼頭央 投手

ちょうど野球を始める直前のことでした。試合の内容のことは、楽しすぎて興奮してあまり覚えていませんが、近くにいたライトの選手が小さく見えるくらい球場が大きかったのを覚えています。プレーする選手たちに躍動感があって、かっこいいなって思いましたし、憧れがありました。


際立つ終盤の勝負強さ

しかし、“島のきずな”といった抽象的な力で、厳しい県大会や九州大会の戦いを勝ち抜けるわけではない。(※注 大島高校は県大会で優勝し、九州大会で準優勝した。)

そこで、私は取材班とともに、大島高校の試合を徹底的に分析し直すことにした。

去年の秋に大島高校が戦ったのは、再試合も含めて11試合。そのすべての試合のスコアブックと取材メモ、そして試合の映像を見返したときに目立つのが、6試合中4試合でサヨナラ勝ちした、県大会での驚異的な終盤の勝負強さだ。

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一方で、なかなか得点できない打線の弱さもあったが、九州大会に入って次第に得点力も上がっていく。特に目立つのが中盤以降に得点するケースだ。

データを見ると、前半5回までの得点が18点なのに対し、後半6回以降は31点。イニング別でも、最も得点を奪っているのは6回。次が9回となっている。(※コールドは除く。)

こうした傾向が最も際立ったのが九州大会準決勝、佐賀の有田工業戦だ。大島高校は、前の試合まで連投の大野投手が球数制限のため投げられず、序盤に大量失点して3回までに5点をリードされる。相手は2試合連続完封の好投手だった。

しかし、中盤から打線が爆発。11対7と逆転してセンバツ出場を確実にしたのだ。取材の中でたびたび耳にしたのが「修正力」ということばだ。



大島高校の“修正力”とは

そのことばは何を意味するのか。塗木哲哉監督にインタビューをすると、興味深い考えを聞くことができた。

塗木哲哉 監督

試合が始まる前のデータをいかして戦うのが前半の3イニング。それを修正しながらまた新たに自分たちでも試していくのが中盤。終盤は、その修正したことからある程度確信を持ちながら、攻撃でも守備でも攻めていく。もしくは守っていく。

実際に、有田工業の試合を3イニングで区切ってみると、最初の3イニングは凡退。次の3イニングで攻略。最後の3イニングでダメ押しとなっていることが分かる。塗木監督に、試合の中で何を修正したのか聞くと、「たまたまこの日の審判さんが、ちょっとストライクゾーンが狭めだった」という答えが返ってきた。

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確かに、映像を見返すと序盤、大島高校の打線は積極的にストライクを振っている。しかし、2巡目以降は際どいコースに手を出さないようになっていた。そして相手投手が、カウントが整わずにフラストレーションがたまっていくところへ、打線が一気にたたみかけていたのだ。塗木監督はリードされた中でも、選手たちに「相手は集中力が落ちている。修正して集中していこう」と声をかけていたという。


塗木哲哉 監督

前半はよく様子を見て、中盤で修正をして、後半で自分たちのやれることを、確信を持ってやっていく。試合の序盤、中盤、終盤というゲームの組み立てがうまくできるようになってきました。相手のピッチャーがちょっと投げ急いでいるのを見て、ファーストストライクから振りにいったり、エンドランをかけてみたり。それがうまく点数に絡んで、たたみかけることができたと思います。


OBの経験をいかして

ただ塗木監督は、修正力だけでは甲子園で勝つために十分ではないと話している。地方大会と異なり甲子園は審判による試合進行のスピードが早く、その“舞台”に上がる準備が出来ていないと、自分たちのプレーができないというのだ。

そのためにも期待しているのがOBの力だ。

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1月2日。大島高校の1年はOBとの練習試合から始まる。卒業して大学野球をしたり、社会人野球をしたりしている先輩たちに胸を借りるこの日は、練習試合の機会が限られる大島高校の選手たちにとって貴重なひとときだ。

今年の試合を取材に行くと、2014年のセンバツに出場したときのキャプテン、重原龍成さんの姿があった。いま龍郷町役場で働いている重原さんは、高校を卒業してからほぼ毎年参加している。

「君たちしかしていない経験を今後の後輩たちに受け継いでやってくれ。高校野球が終わってもアドバイスしてくれ」

この塗木監督のことばが、関わり続ける理由になっているという。当時のメンバーは、重原さんだけでなく、奄美市役所で働く泊慶悟さんも、いまのチームのコーチとして現役の選手たちを支えている。


重原龍成さん

塗木先生もそうですが、島の人たちにも「君たちの甲子園出場があったからだよね。後輩たちを見てやってくれよ」と言われます。僕らは21世紀枠という特別なチケットを使わせてもらって甲子園に行かせてもらった。その恩返しをしないといけないと思ってきました。後輩たちが自力でセンバツを決めてくれて正直、ほっとした部分もあります。実力で甲子園に行く日が来たのだと。熱くなるものがあります。


物語は第2章へ

塗木監督の提案には、チームの勝利だけでなく、奄美大島に根付くスポーツ文化をより発展させたいという思いもあったという。

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奄美大島では、小学校、中学校、高校、そして社会人とすべての年代で野球が盛んだ。特に社会人の草野球チームは40チーム近くに上り、社会人になってから野球を始める人もいるという。こうした様々な世代の人たちが協力してチームを運営し、教えあい、交流することが、地域文化の継承にもつながっているのではないかと考えているのだ。


塗木哲哉 監督

奄美大島という本土と違う特別な場所で、彼らは特別な経験をしてきました。自分たち県立高校の教員は一時的にその地に住むけど、“地元で”というのはそこで育った人にしかできない。これは奄美の人じゃないと伝えることができないと思ったんです。野球人口が減っているとよく言われます。生涯スポーツとなっている奄美でも、野球人口が減っていけばいずれこのいい文化がなくなってしまうかもしれません。自分たちがセンバツに出場することで、野球をやりたいと思う人が増えるといいですよね。

奄美大島の仲間と甲子園へ―。そんな中学生の思いから始まった物語は、いま島全体を巻き込みながら第2章が始まろうとしている。新型コロナウイルスの影響で、センバツがどうなるのか先行きは不透明な状況だが、選手たちと島の動きを見守り続けていきたいと思う。