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特攻と沖縄戦の狭間で「喜界島」の戦争 91歳の証言

  • 2023年03月22日

ことし3月、日米の合同訓練が行われた喜界島ですが、この場所が、かつて特攻隊の経由地となったことで、アメリカ軍の激しい空爆をうけたことを知る人は多くありません。
その戦火を生き抜き、90歳を過ぎて当時の記憶を一冊の本にまとめた人がいます。再び有事への備えが強まる島の現状と、過去の戦闘の記憶が重なるという著者にその思いを聞きました。
(奄美支局 庭本小季)

【戦争してはいけない 語りかける島】

大倉忠夫さん

喜界島は私としては二度と戦争してはいけないと言うことを何度も何度も思い出し考えるもとになっている島なんです。

こう語るのはかつて喜界島に住み、戦火の中、少年時代を過ごした大倉忠夫さん(91)です。

喜界島出身の父に連れられて、8歳のときに東京から島に引っ越してきた大倉さん。
最初の数年は、美しい自然のなかで穏やかな時間が過ぎてゆきました。
 

大倉忠夫さん

初めて島に行ったとき、アダンに縁取られた白砂の道というのが非常に印象的でした。子どもたちだけで集落まで歩いて行った記憶があります。

【基地建設に沸いた喜界島】

現在の喜界空港 元は海軍の不時着飛行場だった

大倉さんの家があったのは、現在の喜界空港のとなり。もともと、海軍の不時着用の飛行場でした。
飛行場の増設工事が始まったのは1944年。工事にかり出されたのは、島の女性たちでした。
大倉さんは、島が基地建設に活気づいたのを覚えています。

大倉忠夫さん

僕が見た感じでは女子青年たちはとても楽しそうでしたよ。やっぱり活気があるんですよね、軍が来て。自分たちが作っている飛行場はこれから戦争の惨禍の場所になるかもということは、ほとんど考えていなかった

【特攻拠点の一つに 激化する空爆】

そして増設された飛行場に降りてきたのが特攻機でした。喜界島は知覧などから沖縄に出撃するときの経由地になったのです。

大倉忠夫さん

特攻隊だっていうことは知っていましたから、ちょっと悲壮な感じで見送る、われわれもね

アメリカ軍にとって大きな脅威となっていた特攻隊の拠点に対する空爆は、激しいものでした。
特攻機が出ていった翌日の朝は、特に激しい空爆が続いたと言います。

沖縄公文書館に残された戦後間もない時期の喜界島の様子
大倉忠夫さん

味方のタンタンタンタンという機関銃の音と、ガリガリガリっていうアメリカ軍の飛行機の機関銃の音が入り混じって聞こえてくるわけですね。
そしてその直後にズシっという地響きがして、近いところに落ちたなって思ったとき、真っ黒い煙が防空壕の中にわっと入ってきました

【先祖に守られ生き抜いた】

激しさを増す空爆のなか、大倉さんの一家が逃げ込んだのが、先祖が眠る場所でした。

うっそうと生い茂る森の中に作られた高さ50センチメートルほどの穴。喜界島でかつて行われていた風葬の穴「ムヤ(喪屋)」が、家族をまもったのです。

大倉忠夫さん

もう早くここから逃げたいっていう気持ちが襲ってきた。なんとなく敗残兵っていうのはこんなものかというか惨めな感じでした

終戦までムヤで生き延びた大倉さん。しかしふるさとの集落は壊滅状態で、戦後、島を出ることを決意しました。

【弁護士として米軍と向き合う】

東京の大学に進学した大倉さんは、苦学の末、弁護士になります。そして働き始めたのが、極東最大のアメリカ海軍の拠点、横須賀でした。

基地で働く日本人の労働組合の顧問となり、再びアメリカ軍と向き合うことになった大倉さん。基地があることで起きる事件や事故に日々対峙していくなかで、沸き起こってきたのは、喜界島での戦争体験を記録に残さなくてはならないという使命感でした。

アメリカ公文書館を活用したり、全国の古書店をまわったりして、30年間かけて資料を集め、弁護士ならではの緻密さで資料を整理していった大倉さん。
さらに喜界島に不時着して、その後、処刑されたアメリカ兵に出くわした体験など、自らの幼少時代の記憶もたどりながら、70歳をすぎて、突き動かされるようにペンをとり始めたと言います。

大倉さんの自宅には壁一面の資料 一部を紹介してもらった 
大倉忠夫さん

人間の記憶にある歴史は人の死とともに消えてゆく。義務としてやはり記録はわれわれが残すべきだ

そして去年、その労作が出版されました。

大倉さんが90歳にして書き上げた書籍

鹿児島の特攻基地と、沖縄戦のはざまで、あまり語られていなかった奄美での戦争に光をあてる画期的な成果だと、ことし1月には、沖縄タイムス社が主宰する「伊波普猷賞」も受賞しました。

【記憶と重なる現在の島の姿】

しかし大倉さんの気持ちは晴れません。今月、日米の合同訓練の舞台となった喜界島の現状が、大倉さんには、戦前の状況と重なって見えるといいます。

2023年3月 喜界島での日米合同訓練の様子
大倉忠夫さん

喜界島の場合は、不時着飛行場の建設から始まった。それがすべて後の災難のもとでした。
台湾有事を理由に、いまあちこちで基地の拡大が進んでいますよね。どこかで歯止めをかけないと

特攻隊の中継基地だったが故に、激しい空爆をうけた喜界島。その記録者であり、生き証人である大倉さんは、戦争の記憶が薄れることに警鐘を鳴らしています。

大倉忠夫さん

あの時の戦争の悲惨さっていうのは何も喜界島だけではない。ほとんど日本人は戦争はこりごりという意識を持っていた。
ところがだんだん忘れられて、今の状態が続いていくと、どっかで発火点が生じやしないかと非常に危ないと感じています

【取材後記】

神奈川県横須賀市で暮らす大倉さんの自宅には、壁一面に奄美群島の戦争に関連した書籍が置かれていました。
自身の戦争体験が「一生消えることはない」と話していた大倉さん。91歳と高齢ながらも、自らの経験を二度と繰り返してはいけないという思いの強さに圧倒されました。
そしてもうひとつ印象に残っているのはムヤです。うっそうと生い茂る森の中にあるムヤ。喜界島の地元の人にとっては島の風景の一部とのことですが、その入り口は大きなガジュマルの木の下に構えられていて、あたりにはひんやりとして静かな空気感が漂っていました。他に逃げる場所がなかったとはいえ、この場所でどうすれば生き延びることができるのか想像が付かないほどでした。当時、喜界島の人たちが強いられた生活の過酷さの一部をかいま見た瞬間でした。
このほか喜界島には、今も空港の近くに戦時中に戦闘機を格納するために使われていた掩体壕や、戦闘指揮所跡などが、住民の生活圏に近い場所に戦跡が残されています。日米合同の訓練が相次ぐ中、奄美群島の島々がたどった歴史を改めて見つめ直して行きたいと思います。
 

  • 庭本小季

    奄美支局記者

    庭本小季

    2020年入局 岐阜県出身 事件事故や防災などの担当を経て現在は奄美支局

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