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鹿児島の地で“稲盛哲学”を継承する経営者

  • 2023年01月01日

京セラを一代で世界的な企業に成長させ、2022年8月に亡くなった、鹿児島市出身の稲盛和夫さん。第二電電(現KDDI)の創設や、経営破綻した日本航空の再建など、その手腕から“経営の神様”とも評されています。
その稲盛さんが、生涯を通して実践してきた哲学は、いまも鹿児島県内の経営者たちの道しるべになっています。

(鹿児島局   記者・古河美香 
      ディレクター・細川雄矢)

「稲盛さんのことばに救われた」酒造メーカートップ

いちき串木野市に本社を構え、明治元年創業の「濵田酒造」。従業員は300人を超え、昨年度の売り上げは138億円と、県内の酒造メーカー随一を誇ります。5代目の社長を務める濵田雄一郎さんは、1975年、家業を継ぐため入社しました。
焼酎とお湯の割合を6対4の「ロクヨン」とするお湯割りが全国に認知されはじめ、焼酎ブームに沸いていたころ、専務だった濵田さんは「未開の荒野を開拓したい」と、東京と大阪に営業所を構え、市場に打って出ました。県内で同業者と競うより、ほかの地域で勝負をしたいと思ったのです。工場を増設し、従業員も増やしました。
ところが、期待したほど売り上げは伸びず、多額の借金を抱えることになりました。濵田さんはリストラを決断せざるを得ないところにまで追い込まれます。 

濵田さん

焼酎ブームと言われるころで非常に業界に勢いがありました。
全国展開しようということで東京と大阪に出店しましたが、力不足で、
ものの見事にこけました。
会社が潰れかかっていると言ってもいいような状況の中で、さて、これからどうすればいいのか、どう切り抜けたらいいのかと、八方ふさがりで迷っているときに“稲盛和夫”と出会ったんです。

会社をどう立て直せばいいのか。濵田さんが悩む中で目にしたのが、当時、急成長を遂げた京セラの経営者として注目を集めていた、稲盛さんの記事でした。

同じ鹿児島県出身でもある稲盛さんに学びたい。
濵田さんはわらにもすがる思いで、京都の若手経営者たちが稲盛さんの哲学を学ぼうと立ち上げた「盛和塾」の門をたたきます。

盛和塾のすごいところは経営問答です。
稲盛塾長と私たち塾生が1対1で対じして、塾生の経営現場での悩みや苦しみ、疑問を塾長にぶつけると、実践的に答えてくださった。

経営が軌道に乗り、事業拡大を続けていた矢先の平成18年1月。創業以来使われてきた大切な酒蔵の1つが全焼します。

「ただの再建ではダメだ。失った以上のものを造ろう。」
そう決意した濵田さんは、後日、見舞いに訪れた稲盛さんに、新たな蔵の建設を含む再建計画を自信たっぷりに披露しました。幹部たちが集まる中、褒めてくれると思ったそうです。ところが稲盛さんから返ってきたのは、深いため息と激しい叱責でした。

「何だ、この計画は?借金の積み増しじゃないか。
銀行にとって濵田の借り入れというのは、カモネギだ。
よく見たら、かもの足に豆腐が付いている。“カモネギ豆腐”だ。」

多額の借金をしてまで蔵の再建にこだわることが、本当に従業員や会社のためになるのかと、稲盛さんは問いかけたのです。
濵田さんは、計画をすべてキャンセル。蔵の跡地はいま、庭園になっています。「幹部を前に赤っ恥でした」と笑う濵田さんは稲盛さんの教えを守り、今も堅実な経営を続けています。

「経営12か条」。稲盛さんが掲げた、経営の基本的な考え方です。

第1条 事業の目的、意義を明確にする
第2条 具体的な目標を立てる
第3条 強烈な願望を心に抱く
第4条 誰にも負けない努力をする
第5条 売上を最大限に伸ばし、経費を最小限に抑える
第6条 値決めは経営
第7条 経営は強い意志で決まる
第8条 燃える闘魂
第9条 勇気を持って事に当たる
第10条 常に創造的な仕事をする
第11条 思いやりの心で誠実に
第12条 常に明るく前向きに、夢と希望を抱いて素直な心で

 

「ことばは単純明快ですが、どこまで深く理解し、実行できるかが大事だ」と濵田さんはいいます。
ではその1つ、第8条の「燃える闘魂」とはいったい何か。濵田さんに尋ねると、「どんな格闘技にも勝る、経営に必要な激しい心だ」と、説明してくれました。

例えば、社員との会議でもっと議論をすべきだったのだろうけど、大変なので、きょうはこれくらいでいいやと思って切り上げてしまったなどと日々反省しています。
そういう弱い自分と戦いながら、全従業員のため、世のため、人のためにやるんだということです。いい自分もいるし、いいかげんな自分もいる。強い自分も弱い自分もいる。
自分のほうが状況が有利でないときは逃げ出したくなる。
燃える闘魂とは、自分自身に対するものだということなのです。

濵田さんは今、かつての稲盛さんと同じように、従業員と向き合っています。
その1つが、会社の経営を自分のこととして考える従業員を、毎月表彰する制度です。
その目的について濵田さんは、従業員ひとりひとりが力を発揮できる環境を作ることで、経営基盤を強化することだといいます。

給料を上げながら、休日を増やしながら、残業時間を減らしながら、生産性を上げていく、これを実現しなければならないのです。
業績が向上することで、働く人が報われる状況を作りたい。
仕事に真剣に取り組み、経営の結果をきちんと出すということが、私たちの目標である「全従業員の物心両面の幸せ」や、納税を中心とした社会貢献につながると思います。
結果が出ないとだめだということは、稲盛塾長からやかましく教えてもらいました。

こうした取り組みを積み重ねた結果、従業員の士気が上がり、会社の売り上げも向上しているといいます。
教えに沿った経営を実践する濵田さんに、稲盛さんに追いついてきたのかを尋ねると、「まだまだ、さらに遠のいていきます」と苦笑いしたあと、決意するようにこう答えました。

でも、それでいいんです。
こっちもスピードがだんだん増していくかもしれませんし。
大事なことは、稲盛さんの背中を見失わないことです。

鹿児島盛経塾

4年前の2019年、国内外に最大1万5000人の塾生がいた「盛和塾」は、稲盛さんが高齢なこともあって解散。その後、鹿児島県内の元塾生たちで作る勉強会「鹿児島盛経塾」が発足しました。およそ60人のメンバーが月1回集まり、稲盛さんの哲学に沿った経営ができているか互いに意見交換し、切磋琢磨を続けています。「鹿児島盛経塾」の顧問を務める濵田さんは、若い経営者たちにアドバイスしながら、みずからも「自分の経営が名誉や利益のためではなく、世のため人のためになっているのか」を問い続けています。

京セラやKDDIの創業、日本航空の経営再建など、さまざまな事業で手腕をふるってきた稲盛さんですが、最大の功績は「人を育てたことではないか」と、濵田さんは考えています。

私たち塾生が中小企業を経営し、世のため人のために、成長発展させようと、豊かな社会に貢献できるように頑張ろうと、取り組んでいる。
こういうことを考えると、稲盛さんは実業家であり、思想家であり、哲学者であり、教育者であるという存在で、社会に非常に広く、影響を与えてくださった。
私たちが学んだことを実践し、伝えていくことが大事ではないかと思っています。

鹿児島の「秘書役」が語る人間・稲盛和夫

稲盛さんとはどんな人柄だったのか。50年に渡る親交があった上原昌德さんに話を聞くことができました。鹿児島市内のホテルで副会長を務めていた上原さんは、帰省した稲盛さんと、毎月のように顔を合わせていたといいます。

上原さん

稲盛さんが私を“鹿児島の秘書役”だと、周りの人たちに紹介されていたことを大変誇りに思っています。鹿児島のことは上原に聞けと、言われるくらいでした。そういう意味で、稲盛さんとは友人でもあり、稲盛さんの部下でもありました。

公私ともに知る上原さんだからこそ語れるエピソードがあります。

稲盛さんは格闘技が好きでした。ボクシングのテレビ中継は夜8時からでしたが、どんなに大事な会食であっても中座していました。ボクシングとなると、選手になりきって、ふだんの姿からは考えられないくらい、手足が動くんですよ。
それは何かというと、経営にも格闘というのが大事だ、誰にも負けない意志だということだと思います。内なる秘めた強い意志を持った方だったと思います。

鹿児島市の繁華街・天文館にあるラーメン店を訪れたときのこと。そこで見せた気遣いも、強く印象に残っているといいます。

おかみが「稲盛社長、実は私の息子が京セラで働いております」と言うと、稲盛さんは「どこの工場ね?」と聞き返しました。「国分工場です」とおかみが言うと、「そうか」と、その日は帰りました。
時がたって、たまたま天文館を歩いていたら「上原くん、ちょっとあのラーメン屋に寄ろう」と言うのです。「きょうはもういいんじゃないですか」と一度は断りましたが、結局行くことにしました。
ラーメンを食べたあとの帰り際、稲盛さんはおかみに「息子さんは頑張っているよ。国分工場のある課にいて、非常にがんばってもらっている・・・ありがとう。」と、お礼を伝えたのです。
おかみの感激の涙は、今でも忘れられません。稲盛さんはそういう心配りの方でした。

稲盛さんのことばを胸に、新たな挑戦を始めた経営者

稲盛さんのことばに勇気づけられ、事業形態の転換を決断したという赤見美香さん。娘を育てながら、福祉事業を営む会社の経営者として、日々奔走しています。

赤見さんの会社は、障害者の就労支援が事業の柱の1つです。身体障害や知的障害などがある35人が、軽作業を通じて職業訓練を行い、一般企業への就職を目指します。

赤見さんの会社ではこれまで、イベントやスーパーの売り場などにスタッフ派遣を行ってきました。県内各地から依頼が舞い込み、経営も安定していました。
しかし、新型コロナウイルスの影響で状況が一変。仕事の依頼はそれまでの1割から2割にまで落ち込んでしまいました。

仕事の発注より、キャンセルの電話のほうが多い状況が続いていました。

先の見えない日々が続く中、ふと頭に浮かんだのが、いつも持ち歩いていた稲盛さんの本にあった、あることばでした。

稲盛さんがよく言っていたのが「人に必要とされるものでないと残らない」ということ。
そのことばを思い出して、今できることをやろうと、前向きに考えられるようになりました。

赤見さんも、盛和塾の塾生でした。鹿児島出身ということもあり、集まりに参加した際には、いつもにこやかに話しかけてくれたといいます。
「人に必要とされるものでないと残らない」という稲盛さんのことばに、背を押された赤見さん。
経営者として、いま何をなすべきか、前向きに考えられるようになったといいます。そして、それまで細々と続けてきた障害者の就労支援こそ、社会に必要とされる仕事だと考え、事業の柱に据えることを決意しました。

いま、赤見さんが特に気にかけているのが、新村美羽さんです。
知的障害があり、おととし発症した脳の病気の後遺症で、手足を動かすことが難しくなっています。

この日、新村さんが挑戦していたのは、お菓子の袋詰め作業です。手先の細かい動きが求められるため、かなり時間がかかってしまいます。
その様子を見守っていた赤見さん。作業が一段落したところで、声をかけました。

フルーツサンド作りならスムーズにできるかもしれない。
失敗しても大丈夫だから!

今度はテキパキと作業を進めていく新村さん。食パンにいちごを並べ、クリームを盛りつけ、最後は潰れないよう慎重に包丁を入れて、完成です。

きれいに真ん中で切れているね!

今度はケーキを作ってみたい。ショートケーキとかチョコケーキとか・・・

 

みんな一緒ではないので、諦めるのではなく、違う方向からできるようにサポートすることを心がけています。
しないことは簡単ですが、本人のためにならないことも多いので、話をする中で、本人にとって難しい点を取り除けるのか、どうやったらできるのかというのを考えています。

取材の最後。稲盛さんの経営に近づけているか、赤見さんの手応えを聞きました。

近づいていきたいという気持ちは常にあるが、実感は全然まだありません。
まだ学びも足りないし、実行に移せていないと反省する日々です。

  • 古河 美香

    NHK鹿児島放送局

    古河 美香

    長崎局を経て鹿児島局勤務 県政担当などを経て、現在は教育や経済を担当   2児の母親

  • 細川 雄矢

    NHK鹿児島放送局

    細川 雄矢

    千葉県出身
    2020年入局 報道局「ニュース7」「おはよう日本」を経て鹿児島局へ

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