奄美大島の希望は続く 甲子園からプロ野球へ 大野稼頭央投手
- 2022年10月20日

10月20日に開かれたプロ野球のドラフト会議で、ソフトバンクから4位で指名された鹿児島県立大島高校の大野稼頭央投手。奄美大島の龍郷町出身。「島から甲子園」を目指し、県本土の強豪私学の勧誘を断って地元の公立高校へ進み、その夢を実現させた。そして次はプロの世界へ―。奄美大島の希望は続いていく。
(鹿児島局記者 松尾誠悟)
ソフトバンクから4位で指名

午後6時半ごろ。ソフトバンクの4巡目で大野投手の名前は呼ばれた。高校で監督、両親とテレビを見ながら指名を待っていた大野投手は、その瞬間、堅かった表情から一気に表情が緩んだ。隣に座る満面の笑みの塗木哲哉監督とともに固い握手を何度も何度も交わした。
大野投手は、最速146キロのストレートに加え、変化球を巧みに使う緩急をつけたピッチングで、高い奪三振率を誇るサウスポーだ。大島高校のエースとして、去年、秋の九州大会では、準々決勝で沖縄の強豪、興南高校を完封。奄美群島のチームとして初の準優勝に導き、ことしのセンバツ高校野球に8年ぶり2回目の出場を果たす原動力となった。

センバツでは1回戦で敗れたが、中学時代に県本土の強豪私学からの勧誘を断り、地元の仲間たちとともに「島から甲子園」を合い言葉に練習に励んできたこともあって、島ぐるみで支えてきた奄美大島の人たちを大いに沸かせた。センバツの後には、年代別の日本代表の候補にも選ばれた。(センバツ出場までの経緯についてはこちら)
春夏連続出場を目指した夏の鹿児島大会は、すべての試合を1人で投げ抜き決勝まで進出。鹿児島実業に3対2で敗れ、あと一歩で涙を飲んだが、次なる目標をプロ入りに定めて、部活を引退した後も練習を続けてきた。

大野稼頭央 投手
実際に名前を呼ばれると、ほっとする気持ちとうれしい気持ちになりました。ドラフトまで育ててもらった方たちへの恩返しということも込めて、応援されるような選手になりたいです。最終的には、球界を代表するような投手になれればなって思っています。

奄美大島の高校から指名は初めて
奄美大島出身選手の指名は、去年、楽天から4位指名を受けた瀬戸内町出身の泰勝利投手に続き2年連続だ。泰投手は中学卒業後にいちき串木野市にある強豪、神村学園に進学していた。
このほかの奄美大島出身のプロ野球選手では、1990年代に阪神で外野手として活躍し、新庄剛志、現日本ハム監督とのコンビでも有名になった亀山努さんや、2010年前後に広島で投手として活躍した上野弘文さんが知られている。亀山さんは鹿屋市の鹿屋中央高校、上野さんは鹿児島市の樟南高校にそれぞれ進学していて、奄美大島の高校から指名されるのは初めてだ。
「奄美生まれ、奄美育ちでプロ野球に」

「奄美生まれ、奄美育ちの子でプロ野球選手」を大きな夢として、強く願い続けてきた人がいる。大島高校OBの奥裕史さんだ。父の代から続く自動車整備工場を営むかたわら、長年にわたって中学野球などを指導し、全国大会に出場した実績もある。この夏まではおよそ10年間、大島高校の外部コーチを務め、大野投手も指導してきた。
子どもたちが成長するにつれ島を出て行く現状を見て、もどかしい思いを抱き続けてきた奥さん。島の高校からプロ野球選手が出れば、その影響で、新しく野球を始める子どもや、島に残って野球を続ける子ども、そして島からプロを目指す子どもが増えるのではないかと考えたのだ。
教え子であり、家族のように関わってきた大野投手の運命の日を自宅のテレビで見守った奥さん。順位が進んでいくにあたって、「どこになるだろうか」とそわそわした様子だったが、指名の瞬間、笑みがこぼれた。

奥裕史さん
おー!きたよ!やったな4位4位。よかったわー。ソフトバンクだったか。
二人三脚で歩んだ“奥トレ”の日々

奥さんは週に2回、学校での練習終わりにトレーニングのため自動車整備工場の場所を開放している。腹筋や伸脚、縄跳び、廃材をおもりとして利用したものなど、基礎体力アップを目的に考案したお手製のトレーニングだ。見た目以上の過酷さから選手たちの間では“奥トレ”と呼ばれて恐れられている。大野投手も入学当初から練習後の“奥トレ”に足を運んできた。

奥裕史さん
稼頭央が初めてきた日は、周りは「大野稼頭央はすごい、すごい」と言っていましたけど、最初見たときは中学生だなって思いました。トレーニングも何もできなかったんですよ。最初きたときは縄跳びを5分も飛べなかった。腹筋も20回もできなかったし、握力も30キロぐらいでした。
ここから奥さんと大野投手の二人三脚の日々が始まった。入学当初、大野投手のストレートは120キロ台。球種もストレートとスライダーだけだった。そんな大野投手に伝えたのは「最速140キロを投げられるようにすること」。1年生の頃は変化球を禁止し、ストレートしか投げさせなかった。トレーニングに重きを置いて、下半身とリストの強化に取り組んだのだ。
「はじめは無理だと思ったが…」

島の公立高校でトレーニング用品を買う予算もないため“奥トレ”の基本は自重トレーニング。トレーニング機器を使うと、筋肉がつきすぎて可動域が狭くなってしまうというデメリットもあると考え、高校3年間、故障をさせない身体をつくるという狙いもあった。

大野稼頭央 投手
はじめの頃は無理だろって思いながらやっていたんです。高校生になったので、いろいろな変化球も投げたいなと思ったときもあったんですけど、基本はまっすぐだと言われたんです。

奥裕史さん
まっすぐの球威が上がると変化球も生きるし、困ったときはまっすぐに戻ればいい。まっすぐを彼の投球の生命線にしたかった。これを打たれたらしょうがないと思える球種が1つでも2つでもあれば、彼もどんなバッターにも向かっていけるので。監督がフォームを指導されていたので、その指導法にあった稼頭央の足りない筋力の土台づくりをしてきた。本人もほんとに140キロが出るのだろうかと思いながら、ついてきてくれたと思います。

はじめは半信半疑だったという大野投手だが、トレーニングのかいあって、高校2年の春には146キロをマーク。握力も70キロまで大幅にアップした。

大野稼頭央 投手
疲れが出てくると、握力がなくなってボールが握れなくなり、うまく投げられなかったりするので、手首を強くすることで疲れがなくなった。まっすぐのおかげでカーブも生きてきたし、最後はまっすぐで勝負できるようになりました。
プロ入りのため体づくり
大野投手は、夏の決勝で鹿児島実業に敗れた1週間後に“奥トレ”を再開した。奥さんには「体育祭で1番になりたいから」と話し、実際に9月の体育祭では200メートル走で1位に。ただ、その“目標達成”後も、トレーニングを続けて後輩たちとともに汗を流している。
“建前”とは裏腹に、プロ入りのため体づくりをしているのは明らかだ。長距離走や重いウエイトを上げる負荷のかかったトレーニングに取り組む大野投手の姿を、奥さんは目を細めながら見つめている。

奥裕史さん
本人がやりたいって言うので。せっかく入学から見ていますから、最後までしっかり面倒を見ようかなと思っています。稼頭央がやる気があるんで、それにつられて周りも変わってきています。トレーニングをやれる間は見守っていきたいですね。
プロでの活躍が島の希望に
大野投手のプロ入りは、これまで支え続けてきた人たちの願いでもあった。奥さんはプロに行っても大野投手を変わらず支えていくつもりだ。悲願の甲子園出場を果たして島を沸かせた大野投手。そしてこれからは、プロでの活躍が奄美大島に希望をもたらしていく。

奥裕史さん
プロ野球選手は毎年100人近くが選ばれるが、その影で100人近くが去って行く世界です。ですから結果を出すためにやらなくてはいけないことも多いと思います。卒業して2月にキャンプに行くまでにやれることを一生懸命させて奄美大島から巣立ってほしい。稼頭央にかける言葉は「おめでとう」もそうですが「また来週からトレーニングやろうか」という感じです。

大野稼頭央 投手
奥さんとのトレーニングは思い出です。きつかったですが、親身になってくれてたので、指名されてほっとする気持ちと、プロに入ることで1つ恩返しができたかなと思っています。島の人たちの支えもあってここまでこれたので、これから島の人たちの支えになるというか、元気や勇気を与えられるような選手になりたいなって思います。