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鹿児島鹿屋 米軍無人機に揺れる基地の町 戦時中を知る人は

  • 2022年07月25日

アメリカ軍の無人機の配備計画が進む鹿屋航空基地。7月20日にはアメリカ軍の関係者が配備に向けた準備作業のため現地入りしています。実はこの鹿屋基地、戦争の記憶を色濃く残した場所でもあります。かつての歴史を知る人たちは、日米の一体化が進む基地の現状をどのように見ているのか、話を聞きました。

鹿児島局 記者     高橋太一
    ディレクター 高田詩織

基地の歴史 見つめてきた男性

鹿屋基地の近くで生まれ育った立元良三さん(92)。これまでの基地の移り変わりを、間近で見つめてきました。

「基地ができる頃は5歳で、近くをときどき歩いていました。この基地に無人機が置かれるということに不安がいっぱいです」

立元さんがそう語るのはなぜか。それは、立元さんにとって基地は、戦争の記憶と強く結びついているからです。

最多の特攻機が飛び立った基地

鹿屋基地ができたのは昭和11年。日本が戦争に突き進む中で、海軍の一大攻撃拠点となっていきました。太平洋戦争に踏み切った真珠湾攻撃に向けた作戦もこの場所で練られました。

戦況が悪化すると、特攻作戦を指揮する司令部が置かれます。基地からは多くの若者が出撃し、国内で最も多い908人が帰らぬ人となりました。

特攻作戦の司令部があった建物

学徒動員で基地で働いていた立元さん。特攻隊員の最期の姿は、今も目に焼き付いていると言います。

立元良三さん

「夕方になると、爆撃機が胸に人間爆弾を積んで、鈍い音をたてて飛んでいきました。そのときはもう絶対帰ってこないとわかっていたので、表現できない、胸に迫る思いがしました」

鹿屋のまちも空襲に

特攻作戦の拠点があった鹿屋のまちは、アメリカ軍の標的となります。度重なる空襲にあい、多くの市民が犠牲になりました。

立元良三さん

「住んでいた家のすぐ近くにも250キロ爆弾が落ちました。もう怖くて、命が惜しい、もう最期だと思って過ごしました。空襲が終わって防空壕の外に出たら、数メートル先に爆弾の跡があったんです。ちょっとでも落ちる位置が違ったら命はありませんでした」

進駐軍上陸地の碑

終戦の翌月、進駐軍が日本本土に上陸。その場所も鹿屋でした。そして、基地も接収されます。戦後は、自衛隊の基地として再出発した鹿屋基地。東シナ海など周辺海域の警戒監視にあたってきました。

変わりつつある鹿屋基地の姿

戦後77年。今、鹿屋基地では、日米の一体化が急速に進んでいます。去年11月には、アメリカ海兵隊のミサイル部隊が初めて基地での訓練に参加。

ジェネラル・アトミクス社のHPより

そしてことしに入って突如浮上した無人機の配備計画。

基地のまちは、アメリカ軍の駐留というかつてない事態に向き合おうとしています。戦後、語り部としてもみずからの経験を伝えてきた立元さんは、基地の姿が変わりつつあることに危機感を感じています。

立元良三さん

「戦争の準備をしている基地が狙われると思います。だから、この基地の周辺の皆さんは、一番怖い思いをするんじゃないかなと思います。それに対する備えというのは全然ないわけですから」

国際情勢がどのように変わろうとも、戦争だけは決して繰り返してはならない。立元さんの思いです。

立元良三さん

「戦後77年、今まで戦争がなかったということは非常にありがたいことです。今のこの時代がずっと続くことを願っていますけれど、世界の情勢を見ると、なんとなく不安な気持ちが強いですね。しかし、あんな怖い思いは二度としたくない。皆さんにもしてもらいたくない」

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