私たちの馬毛島 少年時代を過ごしたふるさとの島の記憶
- 2022年07月13日

アメリカ軍の空母艦載機訓練の移転先として自衛隊基地の建設が決まった西之表市の馬毛島。島の運命は大きな岐路に立たされています。シリーズ「私たちの馬毛島」では島とともに生きてきた人たちの今を見つめます。今回は、馬毛島の元島民、日高薫さんです。少年時代を過ごした馬毛島での記憶を今も大切にしている日高さん。基地建設が加速する中でも変わらない、ふるさとの島への思いを聞きました。
(鹿児島局記者 高橋太一)
助け合って過ごした島での記憶
種子島に住む日高薫さん(73)は、今もときおり、対岸に見える馬毛島を眺めに、海岸を訪れることがあります。
元島民 日高薫さん
「波の音を聞いて、島も見えて、魚釣りをしている船をみて、心が安らぐんですね。あそこは無人島ですが、種子島の人は心のよりどころとして見ているんです」

古くからトビウオ漁の拠点だった馬毛島。戦後、多くの人たちが農地開拓のため島に移住し、ピーク時の昭和30年代には、500人以上が暮らしていました。

種子島で生まれた日高さんも、6歳のとき、家族とともに移住。中学卒業までの9年間を島で過ごしました。一番の思い出は、手つかずの自然の中で遊んだ日々だと言います。


「魚を取りにいったり、もりでとったり。トコブシもいくらでもいました。学校の行き帰りははだしで通っていました。娯楽もなにもないけれど、楽しかった」
日高さんが今も大切にしているもの。それは、島民同士が支え合って生き抜いてきた記憶です。


「最初に来たときには家族で、こんなとこで生活ができるんだろうかと思ったって言っていました。みんな一生懸命、生活しないといけないから、何もないところをくわ1本で開墾したんです。だけれど、みんな楽しくやってたんじゃないかな。やっぱり馬毛島では何もなくても、本当にそれで良かったですよ」
変わり始めたふるさと
高校進学を機に馬毛島を離れた日高さんは県外で就職。しかし、ふるさとを離れている間に、馬毛島の姿は大きく変わっていきました。

人口の減少が進む中、昭和50年ごろから民間企業などによる開発計画が浮上。日高さんが通った学校も閉校します。昭和55年には、最後の住民が島を離れ、馬毛島は無人島になりました。

その後、馬毛島では、さまざまな計画が浮かんでは消えていきました。石油備蓄基地、日本版スペースシャトルの着陸場、核燃料の中間貯蔵施設・・・。そして、行き着いたのが、自衛隊基地の建設と、アメリカ軍の訓練移転でした。

遠ざかっても変わらない思い
いつかまた、馬毛島で暮らしたいと考えていた日高さん。しかし、基地建設により、島に入ることすらかなわなくなりました。


「最終的に基地ができる。そうしたら、もう馬毛島に近寄ることもできない。だからもう、まったく縁が切れてしまうような感じです。馬毛島はあっても、もう昔の馬毛島じゃない。自分のふるさとを取られてしまう、そんな感じです」
しだいに遠い存在になっていく馬毛島。それでも、島への思いは変わることはありません。種子島の海岸から遠くに見える、馬毛島を見ながら、日高さんはこうつぶやいていました。

「このままずっとそのままにしておいてほしい。それが一番の願いです」
