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沖縄と奄美“2度の復帰”アメリカ軍統治下で自由を求めた男性

  • 2022年05月16日

戦後アメリカ軍の統治下に置かれた沖縄と奄美群島の双方で、統治下と復帰を経験した男性がいます。それぞれ歩みが異なる沖縄と奄美で2度の復帰を知る男性に、いまの沖縄をどう見つめているのか聞きました。

(奄美支局記者 平田瑞季)

“異民族の支配”から抜け出したい

男性はインタビューの途中で語気を強めました。

異民族によって支配されているところから抜け出したい。日本国民として権利を獲得したい。自由に暮らしたい。それだけでした。

いまは沖縄県那覇市で暮らしている津留健二さん(89)。出身は鹿児島県の奄美群島にある請島です。その双方でアメリカ軍の統治下を経験しました。

アメリカ軍統治下の奄美(提供:鹿児島県)

1度目は奄美で暮らしていた少年時代。

当時奄美では、日本本土との自由な行き来や物資の輸送が厳しく制限されていました。島の人たちは極度の食糧不足に陥り、毒を抜いたソテツで作ったおかゆを食べるなどして、なんとか飢えをしのいでいました。

アメリカ軍政府を批判すると逮捕されかねない状況。大人たちが抵抗して立ち上がるなか、高校生だった津留さんも復帰運動に身を投じました。「これは政治運動ではなく民族運動だ」という恩師のことばに背中を押されたといいます。

津留健二さん

「先輩たちのなかには本土に密航して大学に進学した人もいました。もともと鹿児島県の奄美大島なのに、なぜ本土と自由に行ったり来たりすることができないのか。どうして日本人として扱ってもらえないのかという窮屈さ、そこから解放されたい気持ちが大きかった」

復帰した奄美、一方沖縄では…

1953年になって、奄美群島は日本に復帰します。“奄美のガンジー”と呼ばれたリーダー、泉芳朗が「われわれは本当の日本人になったのであります」と高らかに宣言する中、島の人たちは大きな歓声をあげて復帰運動の末に手にした自由を喜び合いました。

復帰を宣言する泉芳朗

しかしその頃、津留さんは奄美にいませんでした。奄美が復帰する2年前から沖縄で大学に通っていたのです。安定した職につきたいと公務員を目指していた津留さん。沖縄や奄美がアメリカ軍の統治下に置かれていた当時、通常通う大学となると沖縄にしかありませんでした。

この奄美が復帰した日を境に、津留さんを取り巻く状況は一変します。

故郷の奄美が沖縄にとって“別の国”となったことで“外国人”として扱われるようになったのです。奄美出身者は在留許可証を持ち歩かなければならない生活が始まり、公職からも追放されます。大学の先輩たちと同じように琉球政府で働こうと公務員を目指していた津留さんも夢を断たれました。

津留健二さん

「復帰で喜んだのもつかの間、いろんな窮屈なことがそこから始まりました。公務員になりたくて何度も永住許可証を申請しましたが、何度申請を出しても返事はNO。なりたい職業にもなれず、そこからいかに乗り越えて行くのかが課題でした」

“銃剣とブルドーザー”と呼ばれた基地建設

そして、沖縄県民はさらに厳しい状況に置かれていました。基地建設のため「銃剣とブルドーザー」と呼ばれる手法で、アメリカ軍によって強制的に先祖代々の土地が奪われていきます。

1959年にアメリカ軍の戦闘機が現在のうるま市にある宮森小学校に墜落した事故では、児童11人を含む18人が死亡しました。

たび重なるアメリカ軍の事件や事故で多くの住民が犠牲になりました。

宮森小学校の墜落事故(所蔵:アメリカ軍)

県民の怒りは沖縄全体を巻きこんだ復帰運動に発展していきました。

津留さんの脳裏にも、高校時代に恩師から伝えられた「政治運動ではなく民族運動」ということばがよみがえりました。

公務員をあきらめ、永住権がなくてもつける仕事を探した結果、当時は琉球政府から独立していた教育委員会で教師となっていた津留さん。ようやく得た仕事に影響が出る可能性もありましたが、再び復帰運動へ身を投じることになりました。

津留健二さん

「支配され続ける異常な状態から抜け出して、ただ自由に暮らしたい。沖縄県民として日本国民として平穏に生活をしたいという気持ちでした」

歴史を伝え続ける

そして訪れた1972年5月15日の復帰の日。初代知事になった屋良朝苗のあいさつは、“奄美のガンジー”と呼ばれた泉芳朗の喜びにあふれた宣言とは対照的な内容でした。

復帰を宣言する屋良朝苗知事

沖縄の復帰の日は、疑いもなくここに到来しました。しかし、沖縄県民のこれまでの要望と心情に照らして復帰の内容をみますと、必ずしも私どもの切なる願望が入れられたとはいえないことも事実であります。(沖縄復帰記念式典でのあいさつから抜粋)

多くの基地が残されたままの復帰は、県民が望んだかたちではなかったのです。

沖縄戦の影響が教育現場にも色濃く残る中、さまざまな境遇の子どもたちと関わってきた津留さん。次第に教壇に立つだけでなく、教育環境を整える仕事へ移行していきます。その後、沖縄県教育委員会の教育長になった復帰20年の際に取り組んだのが平和教育の手引きの作成でした。

当たり前のように基地がある中で育った子どもたちに、基地問題とその背景にある沖縄戦について伝える必要があると考えたからです。

そして復帰50年となったいま。

沖縄には、いまだに在日アメリカ軍専用施設のおよそ70%が集中し、過重な負担が続いています。津留さんは、なかなか減らない基地に無力さを感じつつ歴史を伝え続けるしかないと考えています。

津留健二さん

「沖縄に住む奄美人として2つの復帰を体験して、いろんな苦しみも体験してきました。時間がたつにつれて、当たり前じゃなかったはずの光景が少しずつ当たり前のように変わってきているように感じます。そんな今だからこそ、2度と同じ思いをする人が出ないよう、次の世代が同じ選択をすることがないよう、苦しかった経験を伝えていくことが大事なのではないかと思います」

奄美で感じる沖縄の現実

奄美と沖縄では復帰の捉え方が異なるのではないか。ふだん私が沖縄に近いようで遠い奄美大島で暮らしながら取材しているからこそ、より強く感じたのかもしれません。

沖縄より19年早く1953年に復帰した奄美。来年は70年の節目となり、多くの人にとって復帰は祝いごととして受け止められています。

一方、これまで取材で訪れた沖縄では、一概にそうとは言えない難しさがありました。それだけ沖縄にとって基地問題は過酷なもので、その負担は今も続いているのだということを突きつけられました。

場所も時代も異なりますが、今回の取材で沖縄戦や、その後アメリカ軍によって土地を奪われていく映像を見ていると、ロシア軍による軍事侵攻が続くウクライナの状況が頭をよぎりました。そして、津留さんもインタビューの中で「ウクライナ侵攻のニュースを見ると他の民族に支配されていた過去を思い出し苦しくなる」と話していたのが強く印象に残っています。

沖縄の復帰50年という機会に、基地負担が続く現実とあわせて、津留さんのことばを改めて考える必要があると思います。

  • 平田瑞季

    NHK鹿児島放送局 記者

    平田瑞季

    2018年入局。事件事故の担当を経て奄美支局。奄美と沖縄の復帰や、世界自然遺産の取材している。休日は海や山で生き物を追いかけている。

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