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鹿児島県十島村 沖縄本土復帰と“もうひとつの日本復帰”

  • 2022年05月17日

沖縄の本土復帰から5月15日で50年。
その沖縄と「アメリカ軍の統治下に置かれた離島」という同じ条件なのにも関わらず、対照的な道のりを歩んだ場所があることをご存じだろうか。
鹿児島県の十島村。その戦後の歴史は、ここにしかない数奇な“もうひとつの日本復帰”だった。

(鹿児島局記者 高橋太一)


復帰70年となる7つの島

2月10日。十島村役場で行われた式典は、新型コロナ対策もあってひっそりとしたものだった。

十島村は、屋久島と奄美大島の間に点在する、トカラ列島からなる自治体だ。北から見ると、口之島・中之島・平島・諏訪之瀬島・悪石島・小宝島・宝島と7つの有人島が並んでいる。

終戦直後の1946年、GHQが北緯30度以南をアメリカ軍の統治下としたことから、奄美群島や沖縄などとともに日本から切り離されたが、1952年に最も早く復帰。ことしはそれから70年の節目にあたる年になる。

小さな会議室の画面には、7つの島とつないだテレビ電話の画面が映し出され、肥後正司村長が「先人の足跡をしっかりと踏みしめ、これからの十島村の新たな一歩を踏み出すきっかけとなることを願う」と式辞を述べる中、およそ70人の参加者たちが復帰の喜びを分かち合った。

兵士がいない米軍統治下の島

同様にアメリカ軍の統治下に置かれた沖縄と奄美、そして十島村だが、十島村には他の場所と大きな違いがあった。アメリカ軍の兵士は、ほとんど姿を現さなかったのだ。

ただそれは、配給が限定的になることも意味していた。

松下傳男さん

当時、中之島の役場で働いていた松下傳男さん(89)は、「占領」とは名ばかりだった復帰前の暮らしについて、他の地域とは違う独特なものだったと振り返る。

松下傳男さん

「米、脱脂粉乳、缶詰、使い古した米兵の軍服が時々運ばれてきていました。島の人たちは軍服を一回ほどいて生地にして、仕立て直して着ていました」

暮らしを支えた“闇船”

ある意味“放置”されていた島の人たちは、自給自足とわずかな配給物資に頼る貧しい暮らしを余儀なくされた。

そこで頼った手段が「闇船」だ。非合法に北緯30度の“国境”を越え、本土などとの密貿易で物資を調達したのだ。トカラ列島最北端の口之島は、ちょうど北緯30度の境界に位置していたため闇船の拠点となり、多くの船が集まった。

北緯30度の石碑

松下さんもその頃、「渡船場使用料」と呼ばれる港の使用料を徴収するため、役場がある中之島から口之島へ訪れたことがある。そこで見たのは、密貿易によってもたらされた、思いがけない島の姿だった。

松下傳男さん

「海岸、港の近くに何十軒も家が建って、ご飯を食べるところや、飲むところがありました。店のあるところは一晩中みたいに明かりがついていました。闇船だから、法律をくぐってやってるわけだから、いいとは思わなかったんですが、悪いとも思いませんでしたね」

闇船の存在は大きかった。松下さんは、トカラ列島が日本に復帰して本土と自由に行き来できるようになっても、そのことで豊かになったとは感じなかったと振り返る。

松下傳男さん

「復帰当時の島の人たちのうれしさ、そういうものはあったと思うんですが、表面に出てなかったのか、私が感じなかったのかは分かりません。闇船で往復できていたので、そういうことをあんまり言えなかったのかもしれません」

闇船による“脱出劇”も

闇船によって、想像を絶する体験をした人もいる。

日高重成さん

日高重成さん(86)は、平島で生まれたあと中之島で育ち、1951年に高校進学のため奄美大島へ渡った。しかし翌年の1952年、十島村だけが日本に復帰。米軍統治下が続く奄美で暮らしていた日高さんは、ふるさとが突然“別の国”になったことに衝撃を受けたという。

日高重成さん

「奄美と一緒に復帰できたら非常に良かったのに、と思いました。奄美群島政府はB円という通貨を使っていたので、トカラが日本復帰したことで、親からの仕送りも受け取れない。今後はどうなるんだろうという不安が非常に強かったです」

トカラへ戻る航路がなくなり、奄美が日本に復帰するかも見通せない中、日高さんは闇船で奄美を脱出し、本土の高校へ転校することを決意する。

闇船は非合法な存在で、もちろん運航表などは公になっていない。毎日、情報を得るために港へ通ったところ、ある日、港湾労働者から耳打ちされた。

「今夜、宝島行きの闇船が出るぞ―」

 

日高重成さん

「黒糖を積んでる船があるから、それで行きなさいと。夜に「タバコの火が見えたら走ってこい」と言われ、友達と小さなかばんを抱えて走りました。畳1枚ぐらいのところに「ここにいなさい、砂糖のたるを乗せるからじっとしてなさい」と言われ、エンジンをかけないで名瀬の外海までずっと流されて島を出ました」

闇船を乗り継ぎ、命からがらたどり着いた本土で高校に入り直した日高さん。その後、県職員となって農政畑を歩み、再び十島村と関わるようになる。


大きかった“1年の差”

十島村が日本に復帰した翌年、同じように米軍統治下に置かれていた奄美群島も復帰。国境がなくなった島々と本土の間で自由な行き来が可能になる中、期待されたのは経済発展だった。

ところが、十島村には思わぬ苦難の道のりが待ち受けていた。奄美より復帰が1年早かったことで、特別措置法の対象にならなかったのだ。

十島村 肥後正司村長

十島村の肥後正司村長は、この“1年の差”がその後の発展に大きく影響したと指摘する。

十島村 肥後正司村長

「奄美群島に足を運ぶ中で、私たちの地域の整備が立ち遅れているというのは、目に見える形で感じてきました。占領下に置かれた環境というのは同じであったにもかかわらず、十島村は特別措置法が受けられなかった。今でもなぜなのかという気持ちがあります」

進まなかった開発

「特別措置法」は、日本から切り離された歴史を「特殊事情」としてとらえ、復帰後に施行された法律だ。これによって、復興や開発のための特別な財政支援などが行われることになる。奄美に加えて、小笠原や沖縄といった日本に復帰した十島村以外の全ての地域が対象になり、急速にインフラ整備などが進んだ。

奄美大島のインフラ整備

ところが十島村に適用されたのは、他の一般的な島と同じ「離島振興法」。復帰当初に期待されたほど開発は進まなかった。肥後村長は「村の港湾整備はもう30年以上かけていますが、補助は少額規模でなかなか進みづらい状況です」と話す。

なぜ、十島村だけ対象にならなかったのか。

諸説あり、どれも定かではないが、考えられるのは地元出身の有力な政治家の有無だ。奄美群島を対象にした「奄美群島復興特別措置法」(現在の「奄美群島振興開発特別措置法)の成立過程では、保岡武久衆議院議員が国会での議論をリードしていた。ただ、過去の議事録をつぶさに見ても、「十島村」や「トカラ」といった言葉はほとんど出てこない。

「奄振法」成立の数年後に、「十島村を奄振法の対象にしてはどうか」という質問が出たことがあったが、当時の自治省行政局長は「奄美群島復興の特別措置の対象として十島村を持ってくるということについてはいろいろ差しさわりもあり、問題もあり、困難な事柄だ」というあいまいな答弁にとどまっていた。

“臥蛇島の悲劇”繰り返さないために

臥蛇島を去る人々

復帰後、十島村では、仕事を求めて島から出て行く人が急増していく。20年弱で人口は半分以下に。そして1970年、医療や教育など行政サービスが維持できなくなった臥蛇島では、全島民が移住する事態に至ってしまった。皮肉なことに、島にとって多額の税金が投入された初めての政策が、無人化のためのものだった。

第2の臥蛇島を出してはいけないー。いつしか、村にとってはこれが共通の問題意識となる。そして村は人口減少を食い止める対策を、住民などを巻き込んで模索し続けてきた。そのひとりが、闇船で奄美を脱出した日高重成さんだ。島で住み続けるためには産業を育てる必要があると考え、17年前、特産品を全国に販売するNPOを立ち上げた。

長年、県職員として農業振興に関わってきた経験を生かし、今は農家の育成や生産の仕組み作りにも力を入れている。復帰から70年となるいま、人知れず苦難の道を歩んできたトカラについて知ってもらいたいという思いを強くしているという。

日高重成さん

「トカラ列島には農協もない。特産品協会も、観光協会もありません。課題を捉えて島の復興、活性化に繋げていくということが非常に重要になると考えています。トカラが苦しい環境に置かれたんだということを全国のみなさんに知ってもらいたい。私たちには、それを次の世代に引き継ぐ役割があるんだと感じています」

70年で育んだ“自ら生きる力”

村も積極的に動き続けている。全国に先駆けて移住者の呼び込みを開始。一時、人口増加率は国内2位の高さになった。最近では、村営フェリーで全島を一斉に巡るワクチンの巡回接種や山海留学生など独自の取り組みを次々と行い、規模が小さいからこその魅力を発信し続けてきた。

ワクチンの巡回接種

一方、国が「地方創生」を打ち出す中、全国で移住者の獲得競争は激しくなり、十島村の人口も再び減少傾向に転じている。

そうした中、支援を求めるだけではなく、自ら生き残るための力を蓄えるのが、復帰後の苦難の道のりの中で独自性を磨き上げてきた十島村の強さだと、島の人たちは口を揃える。

十島村 肥後正司村長

「生活環境の劣悪な時代から、村民と行政が一緒に、今日の十島村を作り上げてきた。復帰の歴史は村の原点だと思う。地元で様々な活動に取り組んでいる方々も巻き込んで、人口対策を進めていくことが今後の島にとって重要だ」

  • 高橋太一

    NHK鹿児島放送局 記者

    高橋太一

    2017年入局。奄美支局を経て現在は安全保障や県政を担当。これまでに県内18の島を取材。離島からは地方の課題と解決のヒントが見えてきます。

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