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「特攻に異議」沖縄戦を戦った芙蓉部隊 今に伝えるメッセージ

  • 2022年05月13日

「生あらば後便りにて 便り楽しみに待つ」

女性が私に差し出したのは、77年前、鹿児島から沖縄戦に向けて飛び立った兵士が書いた、家族への最後の手紙でした。特攻隊の取材でこれまでに読んできた別れの手紙とは異なり、どことなく未来への希望を感じさせる内容。

いったい、どういう背景があったのか。私の取材はおよそ2年前、この手紙から始まりました。

(鹿児島局記者 西崎奈央)

地元でも知られていなかった秘密部隊

その女性は前田孝子さん(76)。2020年10月、私は鹿児島市にある前田さんの自宅を訪れていました。

さかのぼること2か月前。曽於市に「芙蓉部隊」の展示室が完成したというニュースを見たのが、訪問を思い立ったきっかけでした。軍の命令に逆らうことが困難だった太平洋戦争末期に、特攻に異議を唱えた部隊だというのです。その存在を初めて知って衝撃を受けた私は、すぐに芙蓉部隊の歴史を語り継ぐ活動を行っている「芙蓉会」に電話をしていました。

芙蓉会のメンバーの前田さん。初対面の私を孫のように温かく迎え入れてくれました。そして、「芙蓉部隊のことを知ってくれてうれしい。もっと広めてほしい」と開口一番に話すと、芙蓉部隊の歴史とこれまでの活動を熱く語り始めました。

前田さんは、大隅半島北部の山間部にある、いまの曽於市の出身です。終戦の年に防空壕で生まれたといいます。

その後、33歳の時、中学教師として働いていたことがある曽於市の岩川地区に慰霊碑が建てられます。青空に向かってそびえ立つ碑に刻まれた「芙蓉之塔」という文字。前田さんはそのとき初めて、地元に日本軍の飛行隊「芙蓉部隊」がいたことを知りました。慰霊碑が建てられた場所は滑走路だったのです。

前田孝子さん
「私も30何年生きてきて全くその存在を知らなかったんですよね。ひとことも聞いたことがなかったんです。地元なのに多くの人がみんな知らない。なんでなんだろうと不思議に思いました。」

芙蓉部隊が地元で知られていなかったことには理由があります。部隊の拠点はもともと静岡県の藤枝市。岩川地区に置かれたのは、沖縄戦に密かに加わるために作られた秘密飛行場でした。

部隊は機体からガソリンを抜き、林の中に隠すなどした上で、牛を飼って牧場に見せかけるようカモフラージュ。そして夜間に訓練を行い、実際の攻撃も暗闇にまぎれながら出撃するなど、徹底して秘密を貫いていました。

当時、アメリカ軍は、航空写真で日本各地の軍事拠点を丸裸にしていましたが、岩川地区の秘密飛行場は空襲を受けませんでした。

芙蓉部隊とは~隊長が残した手記~

2009年、前田さんは岩川地区で元隊員と知り合ったことがきっかけで芙蓉部隊について調べ始めます。記録が限られる中で貴重な資料になったのが、隊長の美濃部正少佐が残した手記でした。

およそ1000人の隊員を率いていた当時29歳の美濃部。昭和20年2月末、特攻作戦が決まった木更津基地での軍の会議で、並み居る大幹部に対して末席から異議を唱えたと記しています。

「全機特攻の作戦が芙蓉部隊以上に戦果を挙げるとは思えません」

この驚くべき発言が認められ、特攻ではなく夜間の攻撃を行うことになったというのです。

手記を読んで感銘を受けたという前田さん。その“美濃部スピリット”に突き動かされるように活動してきました。7年前に地元の仲間と「芙蓉会」を結成。おととし(2020年)2月には、芙蓉部隊の平和資料館設置を希望する投書を地元紙に投稿しました。この投書が曽於市議会で取り上げられ、郷土資料などが展示されている曽於市の埋蔵文化財センターの一角に、展示室を設けることにつながりました。私がニュースを見たおととし8月のできごとです。

前田孝子さん
「当時は上の命令は絶対ですから。特攻に反対することは非常に勇気が必要だったと思うんです。特攻のように絶対に帰ってこないような片道作戦だけの燃料を積んでいくのとは全然違った。人として上官としてリーダーとして素晴らしい。美濃部精神を伝えていきたいなと思ったんですよ。私ももう70代ですから、そんなにいつまでも元気に動き回れるわけでもないですし。だから今だなと思って、今1日1日が勝負だなって。平和であってほしい、子どもや孫を戦争には絶対に行かせたくない。美濃部さんのことを伝えることくらいが、私ができることかな。」

難航した遺族や体験者への調査

展示室が設置されたことで手応えを感じていると話す前田さん。より詳しく伝えるための調査を始めるということで、私も密着取材を行うことにしました。

まず、前田さんが行ったのが元隊員や遺族への連絡です。

中々手がかりがない中、芙蓉部隊が配備されていた静岡県の自衛隊基地などへ問い合わせた結果、遺族を支援する関係者に行き着きました。特攻をしなかったとはいえ、芙蓉部隊では105人の戦死者が出ています。関係者に調査の趣旨を説明したところ、名簿をもらうことができました。

それを元に電話をかけた結果、連絡がついたのは北海道や東京、愛知など全国の50人。

遺族や支援者たちからは、遺影や遺品が寄せられました。中には、部隊が使用していた爆撃機「彗星」の部品や、冒頭で紹介した家族へあてた手紙もありました。

ただ、遺族への調査は簡単なものではありませんでした。戦後、特攻が大きく取り上げられるようになったことで、“特攻をしなかった”芙蓉部隊に所属していたことを言い出しにくくなった人もいたのです。前田さんには、部隊の存在を知らなかった遺族から「芙蓉部隊ということを家族は知らず本当に残念です」「特攻隊で沖縄で戦死したといわれておりました。伯父も喜んでくれていると思います」といったメッセージが寄せられました。

そうして集められた20人ほどの遺影や遺品。展示室がオープンした3か月後、毎年11月11日に開かれる芙蓉部隊の慰霊祭に合わせて公開されることになりました。

前田孝子さん
「やっぱり遺影は生きた証ですので、訴えられるものが違う。遺影を飾ってあげないと、この人たちの存在って分からなくなる。もう少し早かったらご両親も生きていて分かったかもしれませんが、今残っている遺族に電話をしても、『そんな人は知りません』という答えが返ってきますから、電話を切られないように心がけながら、『実はお宅のおじさんはこうこうして』と説明するんです。その辺の世代になったら芙蓉部隊を全然知らないんですよ。命がけでふるさとを守ってくれた人たちを、遺影で伝えなければと思いますよね。」

そして、さらに難航したのが体験者の話の聞き取りでした。芙蓉部隊はもともと静岡県に拠点を置いていたこともあって、鹿児島県内で健在の元隊員はいませんでした。さらに、新型コロナウイルスの影響で、11月の慰霊祭に参加した元隊員もいなかったのです。

前田さんは調査が広がればと期待し、慰霊祭や遺影を撮影したDVDを作成して連絡がついた遺族に送りました。私も、そうした前田さんの取り組みを取材し、ニュースやリポートとして放送。インターネットにも記事や動画を載せて、鹿児島県内だけでなく全国へ発信してきました。

およそ1年後の去年10月、前田さんから連絡がありました。展示室などの様子を見て、翌月に行われる慰霊祭に、数年ぶりに元隊員が参加することになったというのです。

元隊員が語る指揮官、美濃部正

通信士だった渋谷一男さん(95)と、整備士だった山本卓さん(93)。

「インタビューしてはどうか」と前田さんからすすめられ、私は2人の元隊員に話を聞くことができました。90代とは思えないほど背筋が伸び、記憶は鮮明なままでした。

芙蓉部隊の活動は、指揮官だった美濃部の手記などで伝えられているものの、明らかになっていない部分も残されています。元隊員たちが話したのは思いがけない内容でした。

渋谷さんは、沖縄へ向かう特攻機に情報提供するなど、特攻に協力していた面もあると話しました。特攻に異議を唱えて芙蓉部隊自体は夜間の攻撃を行ったとはいえ、やはり軍の命令に逆らうことは難しかったというのです。

渋谷一男さん
「岩川は沖縄へ連日、天候さえよければ攻撃に向かうわけですね。そのときに沖縄の上空の状況を知覧へ電話しましてね。それで陸軍の知覧からの特攻が沖縄に行くと。そういう毎日の繰り返しでした。」

そうなると、なぜ芙蓉部隊だけ特攻への異議が認められたのかという疑問が出てきます。

特攻作戦が決まった軍の会議で、「今の若い搭乗員の中に死を恐れるものは居りません。只、精神力一点ばかりのカラ念仏では心から勇んで立つことは出来ません。同じ死ぬなら、確算ある手段を建てて戴きたい」と発言したという美濃部。そのまま命令を受け入れては部下に説明できないと考えたと手記の中で振り返っています。

軍の最高幹部たちは芙蓉部隊を視察。夜間の攻撃に備えて厳しい訓練を積んでいることなどから部隊を特攻から除外する異例の変更が行われたとされています。背景にあったのは、厳しい訓練と夜間の戦闘であげてきた戦果でした。

渋谷さんは、美濃部が部下への信頼を感じさせる出来事もあったと振り返りました。戦局が悪化して燃料が少なくなってきていることを包み隠さず説明。当時の指揮官としては異例の振る舞いです。

そして、戦術的な合理性で判断するだけでなく、部下の無事を案じる美濃部の姿も目にしていました。

渋谷一男さん
「美濃部さんは、搭乗員が1人でも帰ってこないと非常に肩を落としますよね。必ず滑走路の一番最後のとこに軍服を着て、戦闘態勢の中だから椅子に腰かけて、全機帰ってくるのを待っているわけですよ。その表情たるやね…。普段はおとなしいんだけどね、いざとなると強烈な発言をする人でした。ほかの兵隊がとてもじゃないけど太刀打ちできないくらいの能力を持っておる指揮官で、非常に人情の強い方だった。」

一方、16歳の整備士だった山本さんは、当時は任務をこなすことに精いっぱいで、特攻や芙蓉部隊の戦術について考える余裕はありませんでした。戦後になってから美濃部が軍の会議で特攻に異議を唱えていたことを知りましたが、こうした美濃部の生き方は、いまの世の中にも教訓を投げかけていると話しました。

山本卓さん
「特攻全盛の時代で、指揮官が自分の意志を貫いて秘密基地で普通の攻撃を行った。こんな人は日本で1人しかいないでしょう。伝えたいことは、やっぱり信じたことを突き通すこと。立派なことだと思いますね。」

後世に語り継ごうと新たな動きも

この2人の元隊員の話は、全国のニュースだけでなくNHK WORLDでも特集として放送されました。前田さんの元にも様々な連絡や意見が寄せられ、芙蓉会も新たな動きを踏み出しました。芙蓉会結成時からの目標、「平和資料館」の設置です。

これまでの活動で、遺影や資料はおよそ100点まで蓄積されました。いまは、郷土資料などと一緒に曽於市の埋蔵文化財センターに保管されていますが、資料館を設置して広く公開することで、歴史を伝え、子どもたちへの平和教育にも活用してほしいと考えているのです。

ことし2月、前田さんは芙蓉会のメンバーとともに、曽於市の五位塚剛市長に要望書を提出。そこには、「芙蓉部隊は夜襲戦法を行い、そのため徹底した努力をしてきました。しかし、芙蓉部隊でも悲しいことに105人の若い隊員の戦死者が出ました。不条理な戦争をこの世からなくすためにも、戦争の実態や悲惨さを語り継いでいきたい」と書かれていました。

前田孝子さん
「遺族や元隊員も高齢化する中で、戦争を知らない世代にしっかりと伝えなければいけないと危機感を覚えています。平和資料館を通して芙蓉部隊のこと、「美濃部スピリット」を知ってもらいたい。大きな意見に流されない、子ども達には美濃部さんが伝えようとした教訓をひとりひとり感じ取ってもらいたいですね。」

取材後記

2人の元隊員の特集のあと、新たに6人の元隊員から前田さんの元に連絡が寄せられました。前田さんの活動がより広がりを見せる中、私は美濃部が今の世の中に投げかけている教訓とは何なのか、考え続けています。

「空気を読む」ということばがあります。そのことに違和感を覚えつつも、これまでそうした目に見えない「空気」によって論理的な根拠などなく行われる意思決定が往々にしてあるものなのだと理解してきました。

ただ、この「空気」が時に間違った方向に世の中を動かす危険性があることは、歴史が示しています。私は美濃部の生き方から、そのことを改めて強く意識したのです。

美濃部は戦後、航空自衛隊に入隊し、最終的に空将まで務めました。遺稿となった平成11年の手記の最後には「未来に託す孫やひ孫への願い」と書き出される一文が記されています。

「我々大正っ子は、天皇親政国家のもと、富国強兵政策、国を愛し近隣諸国を同一家族のごとく仲良くするために、これを阻害する敵に対しては、身命を捧げ戦うべく育った。(中略)その結果があの敗戦。誰を恨む筋合いもない。(中略)問題はこの教訓を正しく認識して、同様の過ちを次の世代に繰り返さないことである。平成っ子達よ、君たちは別の意味の太平洋戦争を繰り返そうとしている。」(美濃部正「大正っ子の太平洋戦争記」)

自分の意志を貫いた美濃部が私たちに残した警鐘。重く受け止めなければならないと改めて感じています。

取材の中で、美濃部の娘の竹内聡子さんに話を聞く機会がありました。聡子さんは「平和が当たり前にある今のあなたには、もしかしたら分からないかもしれない。しかし、父の残した教訓は未来にいかされる日が来るかもしれない。今を生きる人にも忘れないでほしい」と話していました。

21世紀になってもなお、人と人が殺し合う戦争はなくなりません。美濃部のことばの意味を問い続けていきたいと思います。

  • 西崎奈央

    NHK鹿児島放送局 記者

    西崎奈央

    2019年入局。警察担当を経て薩摩川内支局。戦争体験者を取材し今に伝えるメッセージを 考えていきたい。

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