本土復帰50年 日本と沖縄のはざま 奄美の“外国人”が見た復帰
- 2022年04月27日
戦後、アメリカ軍の統治下に置かれた奄美群島や沖縄。1953年に奄美群島が復帰したあと、沖縄が返還されたのは、その19年後のことでした。
“先駆け復帰”とも言われた奄美の人たち。そこには、日本と沖縄のはざまで抱える複雑な思いがありました。
(奄美支局記者 平田瑞季)
「やっとわが家に帰った」
「沖縄祖国復帰」と書かれた横断幕や国旗を大きく振る人たち。50年前、沖縄が復帰した日に奄美大島で行われたパレードを写した写真です。
祝っているのは地元、奄美の人たちです。
かつては同じ「琉球王国」だった奄美と沖縄。戦後もともにアメリカ軍の統治下に置かれるなど共通する歴史を歩んできただけに、島の至るところで歓喜の声が上がりました。
奄美市の上原照之さん(86)もその1人でした。
(上原照之さん)
「沖縄が復帰した日は街では大きな歓声が上がり非常に沸いていました。やっとわが家に帰ったようで、なんとも言えませんでした。両親も泣いていたことを覚えています」
上原さんのルーツは、漁師の街として知られる沖縄の糸満です。親の代で奄美群島に移住するも、門中と呼ばれる一族の墓はいまも糸満にあります。
大型木造船が薩摩藩時代に制限されていた奄美では漁業があまり行われておらず、明治以降、沖縄から多くの漁師たちが販路を広げようと移り住んだのです。
故郷の沖縄では”外国人”
上原さんは21才の時、専門学校で学ぶため沖縄へ渡りました。すでに復帰していた奄美からアメリカ統治下の沖縄へ行くにはパスポートが必要な時代でした。
当時、沖縄では住民の土地が接収されアメリカ軍基地の建設が進められていました。沖縄全島に広がっていた基地に対する反対運動。
上原さんは故郷を知りたいと考えていましたが、奄美から来た“外国人”。パスポートの期限が1年で切れると“帰国”せざるを得ませんでした。
(上原照之さん)
「パスポートの期限が1年で切れてきましたので帰らざるをえませんでした。なんで帰らなきゃいけないんだと悔しい思いをしました。両親の故郷であり郷里の沖縄が切り離されていることに寂しさとひっかかるものはありましたよね。納得いかない気持ちでした」
今も縮まらない距離
そうして迎えた復帰の日。沖縄が日本に返還されることで、再び以前のようなつながりを期待した上原さんは、経営する会社での食品の取り引きなどで、沖縄との関係を深めてきました。
しかし、切り離された距離は縮まらず、むしろ開いているとさえ感じています。
いまも基地が残り続ける沖縄と、奄美や日本本土との違いを肌で感じてきたからです。
日本と沖縄のはざまに生きてきた上原さん。なくなったはずの国境を感じながら、沖縄とつながり続けています。
(上原照之さん)
「奄美には軍の仕事に携わっている方はいないですから、全然街の様子がちがいますよね。どこを通ってもアメリカ人や軍の兵隊が往復していて、生活模様はガラッと変わったと思いますね。沖縄県民の心持ちと、日本の方なんかが考えている沖縄県民の気持ちは多少ずれはあるでしょうね」
取材後記
奄美は来年、復帰70年を迎えます。奄美支局の記者として、これまで1年以上、奄美の復帰を取材してきた私にとって、復帰は喜びの象徴としての歴史の1ページでした。
ところが奄美とは対象的に、沖縄にとっての復帰は、今なお続く苦悩の中でのひとつの過程にしか過ぎないのではないとも感じます。基地を残したままの沖縄を本当に”復帰”と表現していいのだろうかと葛藤し続けました。
距離的に近いだけでなく共通する歴史も多い奄美と沖縄。奄美から見た沖縄を今後も取材し続けます。