ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まってから半年以上が経ちました。この間、ロシアが北方領土問題を含む平和条約交渉を中断する意向を表明したり、北方領土の元島民らによるいわゆる「ビザなし交流」などの日本との合意を破棄したと発表するなど、日本とロシアの関係にも大きな影響が生じています。
北海道の北に広がる、かつて樺太(からふと)と呼ばれた大地・現在のロシア極東サハリンには、戦後の混乱の中でさまざまな理由で帰国せずに残った日本人が、今も暮らしています。こうした「サハリン残留日本人」の日本への帰国を支援してきたのが、NPO法人「日本サハリン協会」の会長で、元フリーアナウンサーの斎藤弘美(さいとう・ひろみ)さんです。日露関係が冷え込む今も、1人でも多くの人を帰国させるための模索を続けています。
戦後生まれで、かつてサハリンと関わりが無かった斎藤さんが、今も残留日本人の問題と向き合い続けるのはなぜなのでしょうか。8月にラジオ深夜便の「戦争・平和インタビュー」で放送した内容を全文、お送りします。
栄えていた樺太 そこにソ連が攻めてきた
芳川:戦後、日本へ帰国できずにサハリンに残り、そこで今も暮らす人たちがいらっしゃいます。どうしてなのか、歴史的経緯から教えていただけますか。
斎藤:まず、今のサハリンとかつての樺太が同じ場所だということを知らない人が多いですね。 樺太という地名は少し前の人たちにとってはとても親しみがあったんですけど、今の若い人たちはほとんど知らないと思います。
南樺太は、日露戦争で日本がロシアに勝利してから第二次世界大戦終結までの40年間だけ日本のものでした。そこに日本人がたくさん住むようになりました。樺太ではとても質のいい石炭が採れたんですね。 それと、パルプを生産するための森林もたくさんありました。海洋資源も豊富で水産業も盛んでした。豊かな自然の宝庫のような所だったので日本からたくさんの人が移住していって、終戦直前ぐらいの人口が40万人ぐらいだったんです、 驚きますね。みんなが行きたくなるぐらい資源が豊富で、“宝の島”って呼ばれるほど、あそこに行くと一旗揚げられるといった気分でみんな行っていたんですね。

戦前の樺太・真岡の様子

樺太のカニ漁の様子
芳:それほど栄えていて人々の往来もあった樺太に、太平洋戦争末期に当時のソ連軍が攻めてきました。
斎:ソ連は日本に攻めてこないと思っていたし、実際にずっと攻めてこなかったので、みんな何の用意もなくて、いきなり普通に住んでいた人たちのところにソ連軍が来たわけです。ですから大混乱だったわけです。南から日本に帰れるわけですから、女の人も子どもたちもみんな南へ南へと逃げ惑ったんですね。そこにソ連の機銃掃射や爆撃があって、亡くなったり傷ついたりして。南にたどり着いて避難船に乗れた人も非常に少なかった。たくさんの人が亡くなっているんですね。
本土では8月15日を終戦と言いますけれども、15日をこえても爆撃はあちこちでまだ続いていました。緊急避難をするためには船に乗らなければなりませんが、その船が沈没させられたり。ですから逃げることもできなくなって樺太に残されてしまった人たちがたくさんいたんですね。
芳:サハリン残留日本人の方々は、全体で何人ぐらいいらっしゃるんでしょうか。
斎:それをいつも聞かれるんですが、実際何人の日本人が残ったかわからないんです、調査したことがないので。
現在残っている、まだご存命でいらっしゃるというと、70人ぐらいはいらっしゃるんじゃないかなと思います。でも、あくまでも「ぐらいはいらっしゃるんじゃないか」というほど、あいまいなんですね。
自分で好んでそういう選択をしたわけではなくて「せざるを得なかった」人たちが、それからずっと何十年も残されてしまった。 それをその人の責任にしてしまう事は、非常に理不尽だと思ったんです。 確かに世の中にたくさん理不尽なことがありますけれども、
そういう事実と向き合った時、私たちは「仕方なかったね」と言うのではなくて、「なぜそんなことになったのか」をもっとちゃんと考えたほうがいいと思ったんですね。それをいいかげんにしたら、私たちはまた同じことに出会ってしまうし、サハリン残留日本人の問題は全くひと事ではない。
戦争のときに起こった出来事が今また同じように世界のいろんなところで起こっているわけで、過去の出来事ではないということですよね。
サイドボードに飾られた、菓子袋やタバコの箱
芳:斎藤さんは日本サハリン協会の会長でいらっしゃいます。残留日本人の方々を日本に帰国させる引き揚げ事業に携わっているのでしょうか。
斎:そうです。基本的には一時帰国、つまり別れ別れになってしまった親きょうだいや自分の大切な人たちに会ってもらう、とにかくそれだけをまずやりましょうと始めました。その後、一時帰国だけではなくて永住帰国という選択もできるようになったんですね。そのお手伝いも1992年からするようになりました。
芳:具体的にどういうことをするんですか。
斎:まず日本人である証明をしなければならないんですね。
この人が確かに日本人だから日本人としてかえってきていいと許可するためには、たくさんの書類が必要だったんですが、普通の家庭の人だったらそうした書類をしっかり探したり作ったりすることはとても大変なんです。それで何度か試みたけれども挫折してやめてしまった人もたくさんいたんですね。
そういうことを協会として組織的に手伝ってあげる事で、その人たちの負担を減らしています。それから、いろんな形で資金的にも何らかの援助ができるように募金をしたり、政府からのお金が下りるように交渉をしたりしています。
芳:一時帰国者の方々と永住帰国者の方々は、これまでに何人ぐらいいらっしゃるんですか。
斎:協会としては今まで3700人ぐらいを一時帰国として呼んでいます、実数はその半分ぐらいになるのですが。ただこれは協会が係わった一時帰国の数で、これ以外にも個人的にたくさんの方々が一時帰国していますので、この数よりもっと多いはずですし、同じ人が何度か来るわけですからね。
それから永住帰国の人は137世帯で309人、300人ちょっとぐらいですね。家族できたりしてますから。

芳:斎藤さんは、そもそもどんなきっかけから、サハリン残留日本人について関心を持たれたのですか。
斎:そもそも私は樺太のことを全く知りませんでしたし、サハリンに日本人がいることはもっと知りませんでした。 ただ私はラジオの仕事をしていていろんな方に会ったりニュースに触れたりする機会がありました。最初は社員のアナウンサーでしたが、その後フリーになって、今は亡くなりましたけど筑紫哲也さんがやっていたTBSのラジオ番組でアシスタントをしていました。このとき、いろんな話題やニュースに触れることができました。
その中に、朝鮮の方々の樺太残留朝鮮人、そのころは韓国となっていたので、 樺太残留韓国人の帰還運動というのがあったんですね。ゲストが来てそのことを伝えてくれたんですけど、それは樺太と韓国の話だと思っていたので日本人のことは全く考えてなかったんです。
その後、筑紫さんの番組がなくなって私も時間ができたのですが、そのころに筑紫さんがピースボートによく乗っていたんですね。世界各地の戦争があった場所へ行って、その地で学んでまた違う場所へ船で移動しながら平和について考えたり原発のことを考えたり社会の問題を考えるきっかけをつくるような船なんですね。
私も番組がなくなったときに、ピースボートのサハリンツアーに参加したいと思ったんです。

民放ラジオ番組でアシスタントを務める斎藤弘美さん。
左はジャーナリストの筑紫哲也さん

FM東京アナウンサー時代の斎藤弘美さん
1988年、あのころはロシアではなくまだソ連だったので、私はソ連に行ってみたかったんです。 だんだん崩壊していく社会主義というものを見たいという好奇心で行ったんですね。ですから私が行ったときに日本人に会うなんて考えもしなかっただけにショックは大きかったです。
芳:そのときに現地の日本人の方に会われたんですか。
斎:そう。私たちは団体旅行ですから、バスで移動するんですね。
あるとき集会のようなものがあって、そこへ日本人の男性が私の脇に来て「日本人に会いたくないかい」て言うんですね。その方も残留日本人で日本語ができる方だったので、私は「日本人がいるんですか?」って。行きますって答えて、そこをそーっと抜け出して連れて行かれたアパートに日本人の女性が4、5人、おばさんたちがいる部屋に行ったら、カニだったり炊き込みごはんだったり、本当に日本的な食事が並んでいて、ごちそうしてくれたんですね。
芳:だいたい何歳ぐらいの方々だったんですか?
斎:その当時で50代の終わりぐらいたったかしら、50半ばぐらいだったですかね。きれいな日本語でした。私たちが忘れてしまったりあるいは接することができなくなっているような日本語が冷凍保存されたようでした。
興が乗ってきてみんなで日本語の歌を歌い始めたとき、1番は一緒に日本語で歌えるんだけど、2番からはいつのまにかロシア語で歌ったりしていて、「そうかロシア語なんだ」って思った記憶がありますね。
どうして私をもてなしてくれたかと言うと、つまり日本人に会いたかった、日本語で話したかった、そういう事ですよね。 そのお宅に行ってサイドボードに並んでいるものを見たときかなりショックだったんですけれども、きれいに並んでいるのが、多分、日本からの墓参団などが来て、食べ終わったものを捨てていったお菓子の袋とか、吸ったたばこの箱とかマッチの箱、つまり日本語が書いてあるものなんですね。
芳:どうして飾っているのか、聞いたんですか。
斎:はい。そしたら「だって日本語が書いてある。日本語を見ると、懐かしいし痛ましい思いになる。胸がキュンとするというか、本当に日本語を見ているだけで気持ちが落ち着くんだよ」とおっしゃったんです。
みんなごみなのに、ごみではなくて宝物になっていた。私たちにそれらの物が訴えていることってとても大きかったと思います。
私も長女だったから
斎:稚内からサハリンのいちばん南まで43キロしか離れてないわけですね、稚内からも見えるし、サハリンからも稚内が見えるのですね。そのぐらいの距離なのに行ったり来たりがずっとできなかった。その人たちがここにいたっていうことを初めて知り、その人たちがこんなに日本のことを思っていたなんて想像もしてなかったので、私にとってはとてもショックでした。
知らなかったっていうことをとても申し訳なく思いました。私たちはその方々を“いないこと”にしていた。 本当はもっと早く何かできたかもしれないのに、ずっとその方々のことを考えることもなく、しかもその時代、私たちはバブルの中で本当に物の溢れる生活をしていて。
その人たちのことを考えたこともないし、そういう存在を想像したこともなかったということをとっても申し訳なく思いました。
芳:どうして申し訳ないっていう気持ちが芽生えたんでしょう。そのまま無視することもできたかもしれないし、自分だけがそう思わなくてもいいかもしれないし。
斎:それは1つには、やはりそこに残っていた人たちが女性だったからだと思います。私も女性だったから。しかも、そこにいるほとんどの人たちは長女だったんですね。当時は、家にはたくさん子供たちがいて、お父さんは戦争に行っていなくなっているという家庭が多くありました。そうすると、長女は早くに大人になりますから、お母さんや弟や妹たちを食べさせるために、大体長女が朝鮮韓国の人やロシアの人と結婚して養ってもらっていたわけですね。 その後、引き揚げ船が出る時にお母さんと弟や妹は日本へ帰ったわけです。だけど結婚して子供もできて、自分だけが帰ることはできなくなっていた長女は、やむなく残留することが多かったんですね。
私自身、長女だったんです。だから私がもし樺太に生まれてここに住んでいたら、その時代だったら、私はきっとここに残っていたんだろうと。そして同じように日本のことを恋しく思いながらロシアの中で生きてきたんだろうなっていう。この方々が私だったかもしれない、私がこの方々だったかもしれないっていうふうに思えたから、申し訳ないと思ったのだと思います。

1991年、斎藤さんが取材でサハリンを訪れた時に撮影した写真。
空港の金網越しに多くの残留日本人との別れを惜しんだ
降籏英捷さん帰国劇に込めた思い
芳:斎藤さんは、その後、どういう思いで日本サハリン協会の会長になられたのですか。
斎:長くフリーランスでアナウンサーをやっていて、ちょうど1度仕事が切れたんですね。その頃に日本サハリン同胞交流協会(現・日本サハリン協会)の事務所に「ボランティアをしに来ました」って行ったんですね。
その時にちょうど当時の会長が「もうこの会、やめるんだよ」と言っていて、その時は「それは残念だけど、じゃあやめるまでボランティアします」と、その程度だったんですね。
ところが、サハリン残留日本人たちの間では「この会がなくなったら私たちはどうしたらいいんだ」と、会をやめないで欲しいという声がとても大きくありました。でも、既に80歳を過ぎた方々は「俺たちにはもうできない」って。そこへ、当時56歳だった私が「ボランティアします」とやってきた。そこで「あんたがやんなさい」って言われたんですね。
サハリンで会ったおばさんたちへの思いもずっとあったし、できることがあるなら、それは天から私に降って来た仕事なんだなって。だったら受けとめようと思いました。
残留日本人の方々は、日本の人たちから忘れられて、長い時間を過ごして、とても大変だった。その時間を埋めないで私たちがまた無視をしてしまう、また捨ててしまう、そんなことできないでしょう。 ずっと知らん顔して来たんだから、もうそれはできないでしょうと思いましたね。
芳:ロシアによるウクライナへの軍事侵攻は、サハリン在留日本人の帰国にも影響を与えているんですか。
斎:もちろんです。もともとコロナで2020年と2021年の一時帰国ができなかった。ともかく今まで皆さんは毎年、日本に行くことを生きがいにしてきたわけですね。でもコロナがあって全然来られなくなって、じっと我慢して、でもきっとコロナが終わればいけるんだって思っていたのに、戦争のせいで全く来られなくなってしまった。
ロシアから日本に来る飛行機がすべて無いわけです。
ロシアから日本に来ようと思ったら、ロシアと行き来のある、例えばトルコなど第3国を通って日本に来るルートを探すしかないんですね。
今までサハリンから成田へは2時間半でこられたんです。新千歳空港であれば1時間半です。1時間半と言ったら、ほとんど国内便と同じですよね。本当にちょっと行ける場所だったのに、その直行便が一体いつ再開されるのかわからない、本当に再開されることがあるんだろうかと、とても不安になりますよね。
永住帰国をした兄や姉がこのコロナで往来ができない間に亡くなってしまって、お葬式にも来られないし納骨にも来られないし、亡くなったっていうのを聞いただけっていう人もたくさんいるんですね。
以前だったら、親族が具合が悪くなったらすぐに飛んでこられたわけです。場合によっては看取ってあげることもできたし、お葬式を一緒にやることもできたんです。コロナが明けたらせめてお墓参りをしたいと思っていてもそれもできなくなっていて、今後もずっとできないかもしれないと思ったときに、本当につらい思いが伝わってきます。そういう人たくさん今もいるんです。実際にこの来られなかった2年間の間に亡くなった人たちがたくさんいます。
芳:そうした大変厳しい状況の中、ことし3月、サハリン残留日本人で、長くウクライナで暮らしていた男性が北海道に避難してこられました。 78歳の降籏英捷(ふりはた・ひでかつ)さんです。日本サハリン協会の支援で北海道に避難して来られました。降籏さんはサハリン・元の樺太に生まれて終戦後に日本に帰国できないまま残留を余儀なくされまして、その後ウクライナに移り住んでいらっしゃいました。そして、軍事侵攻から逃れるためにポーランドを経由して日本への帰国を果たしました。
降籏さんを帰国させることは、最初は何がきっかけだったんですか。
斎:私が会長になって割合すぐの頃から、降籏さんだけがきょうだいの中で日本に永住帰国してなかったんですね。
彼は1歳半ぐらいの時に終戦を迎えました。だから彼自身には樺太という記憶はもちろんないわけですね。
樺太で生まれてそのままサハリンで育つんですけれども、ソ連の中でソ連の人として生活していくんですね。学校も出てサハリンで就職をして、就職した工場から派遣されてレニングラード(現サンクトペテルブルク)の学校に行って、大学で奥さんと知り合ったんです。その奥さんがウクライナ人だったので結果的に彼は奥さんのふるさとであるウクライナに住んだんです。
ロシアによるウクライナ侵攻が起こったときに、ずっと一時帰国できていなかったお兄さんを心配して、日本にいる妹たちから日本サハリン協会に連絡がありました。テレビを見ていると、あの中で生きているなんてありえないと思えるぐらいすさまじい戦闘状態でしたから、日本で見ていたらお兄さんがどうなっているかってとっても心配だったわけですよね。
芳:帰国に向けては、具体的にどういったサポートを行ったんですか?
斎:降籏さんの息子は亡くなっていたんですが、息子の子供、孫たちが「おじいちゃんと一緒にともかく逃げた方がいい」ということになりました。彼一人が逃げるのではなくて一緒に逃げてくれる人ができたので、じゃあ一緒に逃げようっていう事になりました。ともかくポーランドまで行けば日本大使館が助けてくれるから、自力でポーランドまで行って欲しい、そうすれば私たちにも何かできると伝えました。ポーランド大使館には「こういう人がくるからビザを出してほしい」と伝えました。また航空券のお金がないとも言っていたので、募金を集めてこちらでチケットを買いました。
芳:結局、日本にやって来るまでどれぐらいの時間がかかったんですか。
斎:8日間ぐらいだったと思いますが、ただやはり、どこかでだめになるかもしれないっていう思いがいつもありました。途中で爆撃にあって亡くなっている人もたくさんいましたし、車で移動していたんですけれども、ポーランドに入る途中で車が故障してしまって立往生したりして、もうここで終わるかもしれない、もうここでだめかもしれないっていう時がたくさんあったんですね。
ポーランドに入った後も、パスポートのことや、飛行機がちゃんと飛ぶかどうかとか、ずっと大丈夫なんだろうか、大丈夫なんだろうかっていうのが続いていたので、後で考えると8日間ぐらいですけれども、そんなに短い感じはしませんでした。

帰国後、成田空港で取材に応じる降籏さん
“行ったり来たりできること”がとても大事
芳:降籏英捷さんの帰国に斎藤さんがそこまで力を注いだのは、どうしてだったんですか。
斎:必要なことをしている。これが必要だからこれをする、これがなければ困るからこれをするって言うことなので、何か特別なことではなくて。
ただ彼がどう思うかということまではやっぱり私たちはあまり分かっていなくて、勝手に私が思い込んでいる部分と、実際に彼が来て「そうだったのか」って、わかっていなかったと気付かされたことがありました。
降籏さんは日本人だから日本に帰ってくるのがあたりまえだ。
前からもちろん永住したいとか一時帰国したいって言っていたので当然日本に来て幸せだろうと勝手に思っていた。でも彼は実はそんなに単純に「自分は日本人で日本に暮らすのが幸せなんだ」とは思ってなかった。
50年間もウクライナにいて、ウクライナに自分の拠点をつくり、奥様は亡くなってしまわれたけども奥様のお墓もあるし、思い出の地があるわけですね。その日々を捨ててくるわけですね。
何だか私たちはつい美談のように「日本人が日本に帰れてよかったね」とか「ウクライナが戦争状態だから逃れられてよかったね」とか、そんなものの言い方をしてしまうけれど、その人たちにとってはそんな簡単な話ではない。
自分の価値観や自分から見えるものだけで判断しないようにしなきゃっていつも思っているのに、その時、私も「ああ、分かってなかったな。そんなふうに思うっていうことにどうして気が付かなかったんだろう」と思いました。
芳:それは降籏さんに限らず、もしかしたら今、サハリンにいらっしゃる方々も、本当に日本に来ることが一番の幸せなのかどうかは分からないという事ですね。
斎:“行ったり来たりできること”がとても大事なんだと思う。とかく私たちは、どこかに住んだら、ずっとそこにいるというのが当たり前というような気がするけれども、行きたい所に行く、帰りたいところに帰れる、いつでも帰れる、それが重要なのね。
それができなくなったらって思うととても不安になる。大事なことは、自由に自分の行きたい所に行けて会いたい人に会える、そういう状態をつくっておくことなんですよね。
芳:本来、一緒にいるべき人たちが離れ離れになってしまっている状況を、どうにかしたいと。
斎:今、一時帰国が止まってしまっていますが、どうやったら来られるかという事をすごく模索しています。いろいろな情報を集めたりいろいろな方法を考えたりしてます。
やっぱり残念でしたねとか、諦めなさいとか、言ってしまいたくないですよね。
しょうがないでしょうとかね。 ずっとそう言われてきた人たちですよね。
自分の住んでいた場所が日本じゃなくなって残されて、日本の国籍がなくなったわけですね、樺太じゃなくなってね。 そうすると無国籍だったんです、みなさんしばらく。もしかしたら日本に帰れるかもしれないから。でもだいぶ経ってからソ連に住んでいる限り移動の自由もないし、国籍を取らないと何もできないということで、これは国籍を取らなければしょうがないでしょうと思って取ったわけですね。
どこかでそういうあきらめがあったりするわけですけれども、あきらめは本当に最後ですよね。だから、「しょうがないでしょ」ってほかの人が言っちゃおしまいですよね。
本人がもうこれはしょうがないって思わない限り、周りの人たちが何とかできるようにしないといけないと思うんです。

自宅でも熱心に日本語の勉強をする降籏英捷さん
出会った人の責任
芳:究極的には、どうして私たちはサハリン在留日本人の方々のことを無視してはいけない、無視すべきではないと斎藤さんはお考えですか。
斎:よく言われることですが、私もいつもそれは思っていて、出会った人の責任、そのことに気付いた人の責任。気付いた人は気付いていない人にきちんと伝える、あるいは気づいた人はその責任をきちんと果たさなくちゃいけない。出会ったり気づいたりした人にはそれを受けとめる責任があると思う。
本当にたくさんの離散家族が生み出されて、しかも再生産されていますよね。
樺太と日本がつながっていたように、ウクライナとサハリンは同じ国だったように、国が一緒だったら、国の壁がもっと低かったら動けるのに、国が違ったら動けなくなるということが起こるわけですよね。
国と国がけんかをしていたら、別々のところに住んでる人が動けなくなる。
それは別にサハリンの問題じゃなくても世界中の至る所にありますよね、そしてそれは再生産されている。今、本当にウクライナの人たちはつらい思いをしていると思いますし、サハリンだって何世代にもわたってそういうことが続いてしまっているわけです。だから終わった話ではなくてずっとそれは続いているし、そういう状態をおかしいと思った方がいいと思うし、そのことに気付いた方がいいと思う。日本だってね、もしかしたら東と西に分断されていたかもしれないわけですよね、そしたら違う国として生きていたかもしれないし。
だから、「それはおかしいでしょう、そういうふうな状況が起こること自体がおかしいでしょ」って思わなければいけない。「国があって、国と国がケンカしたら交流できなくなるのは当たり前でしょう、そんなのは当たり前」と受け入れてしまうのではなくて、そもそもおかしいって思えるような感性が必要だと思うんですよね。
今、サハリンに行けないのがとても残念ですけれども、もし行けるようになったらたくさんの人にサハリンに行ってみて欲しいですね。行ったらきっといろんなことが分かるし感じるし、人と出会う事でいろんなこと分かると思いますから。

以上、8月に放送したラジオ深夜便「戦争・平和インタビュー」の斎藤弘美さんのお話をお送りしました。終戦から77年。サハリンに暮らす残留日本人も孫やひ孫の時代を迎え、その歴史を知らない世代も増えているといいます。斎藤さんは、帰国支援事業に加えて、サハリンと日本の若者同士が共に過去の歴史を学ぶための交流事業も、今後、状況が整えば、進めていきたいと考えています。
札幌放送局アナウンサー 芳川隆一
北海道の戦争の記憶を見つめる 他にも取材しています
侵攻に揺れる根室の高校生 | 芳川 隆一 | NHK北海道
「なぜ自分たちと同じ世代が…」“乙女の悲劇”たどる高校生