NHK札幌放送局

定山渓鉄道の記憶

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2022年10月19日(水)午後8時28分 更新

昭和44年まで走っていた「定山渓鉄道」
定山渓から真駒内、豊平などを通り、東札幌から当時の国鉄に乗り入れて札幌駅までのおよそ30キロを結んでいました。
「定鉄(じょうてつ)」と呼ばれ親しまれた鉄道が廃止になって、およそ半世紀。 多くの人が利用していた頃を知る方に話を伺いました。(札幌放送局 清水希理) 

昭和初期の定山渓鉄道


話を伺ったのは、定山渓鉄道の元駅員、相沢光春(あいざわ・みつはる)さん(89)と元運転士の藤原光男(ふじわら・みつお)さん(84)です。相沢さんは昭和27年、藤原さんは昭和28年に入社し、ともに定山渓鉄道(以下、定鉄)を多くの人が利用していた時代を経験しました。

左:相沢光春さん 右:藤原光男さん

藤原光男さん
「私の父は、明治の中ぐらいに岩手から北海道に来て、藤の沢、藤野に土地を持っていた。定山渓に線路を通すため『藤原さんの土地を通ってもいいか』という話になった。それで父は畑を『いいですよ』と定鉄に売った。そんな関係で父親が保線整備で入社した」

藤原さんは父親から、定鉄が開通した当初は沿線の農家が線路の雪かきをしていたと聞いたことがあるそうです。

藤原光男さん
「最初は定鉄にラッセル(除雪車両)がなく、除雪作業は沿線の人がやっていた。冬、農家は仕事がないから、小遣い稼ぎで除雪した。定鉄と“持ちつ持たれつ”、そんな状況だった」

昭和8年ごろ 真駒内駅に到着する列車

鉄道のデパートと言われていた

定山渓鉄道は昭和4年に電化し、蒸気機関車、ディーゼル機関車、ディーゼルカー、電気機関車、電車が走っていました。ひとつの路線で様々な車両を見ることができるため、「鉄道のデパート」とも言われていたそうです。

昭和初期 簾舞駅に停車している電車と木材を運ぶ蒸気機関車

昭和初期 豊羽鉱山の鉱石を運ぶ蒸気機関車

約15年運転士を務めた藤原さんはディーゼルと電気の免許を持ち、貨物と旅客両方の輸送を担っていました。

藤原光男さん
「乗客はディーゼルカーと電車で運び、ディーゼル機関車では掘り起こした鉱石を水松沢(おんこのさわ)から運んだ。電気機関車では貨物列車を引っ張った。結構、貨物輸送があった」

東札幌駅で電気機関車の横に立つ藤原さん

また、定山渓鉄道には当時、国鉄から乗り入れた車両も走っていました。

藤原光男さん
「途中まで国鉄の運転士が運転して、東札幌で交代して、定鉄内は僕らが運転した」
相沢光春さん
「本州から修学旅行の寝台車が定山渓まで入ってきた。藤原さんが運転されたエルム号もあった。定山渓鉄道だけど国鉄の車両がどんどん入ってくるというのが印象深かった」

昭和40年ごろ 定山渓に到着した国鉄のエルム号と藤原さん

当時、定山渓温泉には全国から行楽客が訪れたほか、「月見列車」などの企画が人気を博し、札幌駅から定山渓温泉に向かう人たちで混雑していたといいます。

藤原光男さん
「札幌駅から定山渓に『観楓会』に向かう人たちが乗った。飲みに行く人は車両が1両しかなかったせいもあるが乗りきれなかった。そういうときは、車内の座席を取った。4人向かい合って座る席を取れば、そこに8人ぐらい入れた。そこまでして多くの乗客を運んだ」

賑わう定山渓駅前 『じょうてつ100年史』より

さらに、昭和21年から10年ほど、アメリカ軍の輸送列車も走っていました。
戦後、現在の真駒内団地や自衛隊の駐屯地には、アメリカ軍の駐屯地「キャンプ・クロフォード」がありました。敷地内には軍人や物資輸送のために専用の線路が引かれ、定山渓鉄道は運転や保線管理を担っていました。

黄色部分=キャンプ・クロフォード 赤色=専用線 水色=定山渓鉄道 
地図は『じょうてつ100年史』より

昭和27年に入社した相沢さんは、駅員になって最初に担当した真駒内駅でアメリカ軍と仕事をしたことを記憶しています。

相沢光春さん
「RTOという米軍の鉄道輸送事務所があって、米軍と国鉄と定鉄の駅員で仕事していたが私が入社して半年くらいで縮小し、全部真駒内の駅員に任された。『next morning car request』 米軍から貨車のリクエストが前日に来た。それを受けて、千歳や石狩当別、稚内に駅員が連絡し、次の日の朝には全部注文のあった貨車が入った。一般の沿線の人はひと月も待っても貨車は来ないのに、米軍だからべーと来て、すごかった」

昭和22年ごろの真駒内 アメリカ軍の専用列車と定鉄マン 
久保ヒデキ著『定山渓鉄道』より

最盛期から廃止へ

昭和32年、定山渓鉄道は国鉄札幌駅まで乗り入れを果たします。同じころ、沿線の宅地開発が進み、学校を誘致したことなどで、利用客が一気に増加します。

相沢光春さん
「定山渓から来る通勤客と、慈恵学園、藤の沢の方に向かう通学客で、朝は上りも下りも混んだ」
藤原光男さん
「車両が追い付かず新車両をどんどん増やした。あんまり続かなかったけどね」

昭和30年代の藤の沢駅 久保ヒデキ著『定山渓鉄道』より

しかしその後、国道や周辺道路の整備が進み、移動手段は自家用車やバスに。定山渓鉄道の利用者は減少していきます。
さらに追い打ちをかけるように、昭和42年には、当時66か所あった踏切が交通の妨げになるとされ、警察から立体化あるいは事業廃止を早期に実現するよう迫られます。

昭和44年ごろ 国道36号線の踏切 久保ヒデキ著『定山渓鉄道』より

また同じ年、札幌オリンピックの開催に向けて真駒内を終点とする地下鉄南北線の建設計画が決まります。定山渓鉄道は現在の地下鉄南北線の地上区間にあたる用地を札幌市に売却し、鉄道事業を廃止することを決めました。

地下鉄南北線の地上区間

こうして昭和44年、定山渓鉄道は51年の歴史に幕を下ろします。

昭和44年 さようなら電車

“定鉄マン”のその後

相沢さんも藤原さんも、廃止の時にはすでに配置転換されており、鉄道業務には携わっていませんでした。

相沢光春さん
「父親は廃止の時、豊平駅長だったが、僕はもう別の担当になっていて、定鉄の最後は見れなかった。鉄道がなくなるというのも人づてに聞いた」

当時30代後半だった藤原さんも、バスをはじめボウリングやスーパーなど、畑違いの仕事をすることになり、苦労の連続だったといいます。

藤原光男さん
「苦労の話はいっぱいある。いい年して、若い人に頭を下げて教えてもらった。最初にじょうてつバスの車掌を1年やった。首から下げて『次はどこです、何十円です』と切符を売った。駅から出るバスに国鉄の運転士が乗ってくるが、『定鉄がなくなって、運転士さんたちはどこいっちゃったんでしょうね』と言う。『自分がそうです』と言えなかった。こんなことしてるって思われたくなかった。非常に悔しかった」

それでも、定鉄をやめようとは思わなかったといいます。

藤原光男さん
「やっぱり父親のせいもある。線路を敷くときの仕事をずっとやってましたからね。途中でやめたらなんか申し訳ない気はするからね」
相沢光春さん
「鉄道が好きだったんですよね、やっぱりね。面白かった。辛いけど、面白かった記憶の方が多いです」


定鉄がなくなって半世紀。北海道ではその後も各地で鉄道が廃線になりました。
最後に、おふたりはどう思われているのか、聞いてみました。

相沢光春さん
「本当に残念ですけど、鉄道があって赤字が増えるということであるなら、やむをえないことだと私は思いますね」
藤原光男さん
「やっぱり時代の流れだ。ねえ…」

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