7月28日(木)の北海道まるごとラジオは、『夏 戦争の記憶を見つめる』と題して、北海道で戦争の記憶と向き合う人たちをご紹介しました。
スタジオゲストは、札幌市内で音楽制作会社を経営し、音楽に特化した通信制高校の校長も勤める、中間真永(なかま・まえ)さん。

中間さんは、終戦直後に樺太で起きた悲劇を伝える舞台を手がけています。
進行は、芳川隆一アナウンサーと、キャスターの寺前杏香(筆者)でした。

中間さんが手がける舞台。電話交換手として働いていた9人の女性たちが、迫りくるソ連兵から身を守るために集団自決した「九人の乙女」の悲劇について、実際に起きた出来事を描いています。
太平洋戦争の終戦直後の昭和20年8月20日の出来事です。北海道の北に広がる樺太にあった港町・真岡(まおか)に、ソビエト軍が侵攻しました。日本との間に結んでいた中立条約を一方的に破っての侵攻でした。真岡には軍や行政の通信を担う電話交換室があり、多くの電話交換手が働いていました。ソ連軍の艦砲射撃が降り続く中、電話交換手たちは電話を繋いで状況を伝え続けました。上陸したソビエト軍が目前に迫る中、9人が青酸カリを飲んで自ら命を絶ったのです。
中間さんの母は元電話交換手で、亡くなった9人の元同僚でした。9年前に母が亡くなるまでは、当時の話を母から聞いても疎ましく思っていたといいます。
中間さん)(母が)元気なときは「またその話?」とか、バブル世代の私には現実と思えないような話だったので、遠い昔の絵そら事を聞いているみたいに、疎ましい感じもあったんですよね。けど、だんだん時代も変わってきて、母が亡くなって初めて、その話の重みに気づいてきたという感じでした。
そこで、2017年に初めて舞台を開催。当時の電話交換手と同世代の高校生たちも出演しています。脚本から演技指導、劇中の音楽まで、中間さんみずから手がけました。
九人の乙女の出来事を深く知ったことで、中間さん自身の考え方にも変化があったと言います。
中)どんな命も絶対に失ってはいけないんだということ、それから、自決という間違った教えを信じてしまった過去の過ち、それと、女性の仕事を持つということのあり方、それらのすべてのことを、過去の事実をきちっと見ることで、私たちの未来と平和をひとりひとりが考えないといけないんだということを重く受け止めました。
中間さんの手がける舞台『九人の乙女~氷雪の門』は、8月18・19日に小樽市で上演されます。
中間さんの活動については、こちらの記事もあわせてどうぞ!
芳川アナの取材記事「高校生が伝える“乙女たち”の記憶」
「九人の乙女」元同僚 木本孝さんの記憶
放送では、亡くなった9人の元同僚で現在も千歳市に暮らす、木本孝(きもと・たか)さん(94)に、中間さんと芳川アナがおととしインタビューした内容もご紹介しました。まず木本さんは、ソ連軍が攻めてきた日、自宅でその報に触れたことから話してくれました。
木本さん)8月20日、朝の7時40分ぐらいに、外の方から、軍艦、ロシアの軍艦が入ったぞってね、叫んだ男の人がいたんです。それで私がびっくりして、あっ、来たかと思って表へ出て崖のそばまで、走っていきましたら海一面真っ黒い軍艦が何隻も、止まっていました。それを聞いた途端にもう、ものすごい勢いで機銃掃射がバラバラっと入ったんです。
その日、当直明けで職場にはいなかった木本さん。乙女たちの自決については、後日、人づてに耳にしたといいます。電話交換手として働いていた女性達には、自決のための青酸カリが配られていました。乙女たちはどうして自ら命を絶つ決断をしたのか、その心情を代弁してくれました。
芳)青酸カリがみんなに配られていたということは、もちろん木本さんにも配られていて…?
木)みんな欲しい人はあげるよっていうぐらいの軽い気持ちで、身を守る、守り袋のようなつもりで皆さん持ったと思うの。
芳)守るっていうのはどういう意味ですか?
木)要するに自分の気持ちを守るという。
芳)実際に飲むという事ではなくてですか?
木)飲むまでいかなかったと思う。ただ身を守る、守り袋ぐらいに思っていたと思うの。
芳)誰からもらったんですか?
木)みんな上の方、主任さん方がね、知人から頂いたとか。私は言わなかったけど憲兵隊の方からもらったりして
芳)じゃおのおのいろんなもらい方が…
木)看護婦さんから、お姉さんが看護婦さんだからっていただいた人もいる。それはね。あの、どこからきちっと出たものっていうものではないんです。おのおの頂いた。お守り程度の軽い気持ちでね、最初は。それがあれば安心と。 犯されるんです、兵隊が入ってきて犯されるのが嫌で、身を守りたいと思って、その前に飲みたいと思った。何をされるか分からないですからね。護身、初めは身を守るなんて軽い気持ちで言ってたんですけどね。
芳)そのお守り程度の軽い気持ちだったはずが…
木)はずが、いざ攻めてこられて、命があるかないかっていう事になった時に初めて、自分は職場を守るんだという気持ちになったんです。土足で(電話交換室があった郵便局の)下から入ってくる所ですから、何かしなきゃと思うじゃないですか。今黙っていたらすぐ上がってくるんですから。それに、銃の音がバラバラバラバラ聞こえてあっちでもこっちでズドンズドンと大砲の音、そういうのが聞こえている煙だらけの中ですから、もう想像を絶して、その場にいなかったら分からないですよね。いたら殺される。ですから殉職したんですよ、変な死に方したくないから。汚されたり、変な殺され方するよりも、職場を守りたいという一心だったと思います。
芳)どうして逃げなかったんでしょう。
木)逃げません。教育といえばおかしいですけど、そういう風な気持ちにならされていたんですね。職場を守るのが一でしたから、死ぬなんて2も3も後です。
木本さんは当時18歳、亡くなった乙女たちは多くが先輩でした。最後に亡くなった乙女たちへの思いを語りました。
木)いつも冗談言ったり、私が当番で、掃除してると手伝ってくれたり、本当に、みんな優しい人達でしたね。あなたそっちやってなさい、私こっち手伝ってあげるからとかってね。昔ですから石炭ストーブでね、毎日アクを取らなきゃならないんです、ストーブの。そのアクを、引き出しを引くと粉が散るもんですから、散らないようにと思って静かに引っ張っていると、それを押さえてくれたりね、そんな優しい事をしてくれました。
仲良かった方と、一緒にああしよう、こうしようと、一緒に旅行もしたかったし、いろんな事をしたかったのに、いなくなってしまって。かわいそうに。それぞれ夢、あったと思います。結婚間近の人もいらしただろうと思います、口には出さなくてもね。そういう事やら、いろいろな事、全部、その場で、自決に持っていったんですから。
戦争って、やはり皆さん感じていらっしゃると思うけど、恐ろしいですよね。だって、人ひとりオギャーと生まれた時から教育されるんですから。それが死ぬまででしょ?恐ろしいです。
中間さんと芳川アナがおととし行った木本孝さんへのインタビュー全文は、こちらに掲載されています。ぜひごらんください。
木本さんの証言は「読むらじる」にも掲載中! 戦後75年に語る 旧樺太「九人の乙女の悲劇」 前編
戦後75年に語る 旧樺太「九人の乙女の悲劇」 後編

1945年、ソビエト軍の占領によって故郷を追われた北方領土の元島民たち。今も、自由に島に渡ることはできません。そんな北方領土の「返還運動原点の地」であり、今も元島民が多く暮らす根室市。ここで、元島民だったひいおばあちゃんの記憶を伝える活動をしている高校1年生、近藤妃香(こんどう・ひめか)さんにリモートで出演してもらいました。

妃香さんは、中学1年生の時から、国後島出身で85歳のひいおばあちゃんの体験談を聞き取って記録する活動をしてきました。中学生の時に学校の弁論大会に出場したのがきっかけで活動を始めます。その後、3年間をかけて少しずつ体験談を聞いてはメモにし、中学3年生の時、道が募集した北方領土についての作文コンクールで最優秀賞に選ばれました。さらに、それを基に全国規模のスピーチ大会にも出場して、見事、準優勝!
スピーチでは、ひいおばあちゃんの国後島の思い出や、島を追われるときのつらい体験にも触れました。
妃香さん)チャチャ岳という山がとてもきれいだったこととか、お腹がすくと友達やきょうだいと、近くの山にイチゴやフレップという果物を採りに行ったことなどを教えてくれました。
でも、ある日、ひいおばあちゃんは、「ロシア人が攻めてきたぞ!殺されるぞ!早く逃げろ!」と言われ、夜な夜な、大きな船でたくさんの人たちと一緒に、大荒れの海の中、船から投げ出されそうになりながら根室に向かいました。家族がバラバラになって、みんなに会えたのは数年先になったそうです。
ひいおばあちゃんの過酷な体験を聞いた妃香さんですが、スピーチには「北方領土を日本とロシアの交流の拠点にしたい」という思いを込めました。タイトルは「四島(しま)の架け橋」。その一部を放送でご紹介しました。
根室から国後島に瀬戸大橋のような大きな橋を架けると良いのではないでしょうか。船や飛行機に乗れないお年寄りでも橋を架ければビザなし交流(墓参り)も車やバスで移動ができます。そして、資源の輸出・ 輸入がしやくすなり、エネルギーや技術の交換が可能となります。両国の欠けている部分を補い合い、良い部分を高め合い協力し合うことで経済が発展していき日本人もロシア人もお互いが豊かに生活することが出来ると思います(中略)
現在、曾祖母は84歳になりました。曾祖母の夢は、曾祖母、祖母、母、私の四世代で生まれ育った国後島へ行くことです。その夢を何とか叶えさせてあげたいです。
ひいおばあちゃんにつらい経験をさせた国であるロシア。それでも、どうして交流を深めたいと書いたのか、妃香さんに聞きました。
妃)どんな人にも、ふるさとを失ってほしくないからです。ひいおばあちゃんは故郷を失ってつらい思いをしたけれど、今はそこにロシアの人たちが住んでいて、彼らにとっては故郷になっているので、だからもうこれ以上、誰かが故郷を失うのではなく、お互いが行き来できるようなかたちで交流ができたらいいかなと思いました。
こうした“元島民4世”の妃香さんの活動をみて、“元島民3世”である母の和世(かずよ)さんも刺激を受け、北方領土に関心を持つようになったと言います。
芳川アナ)これまでは、あまり北方領土については調べたり、関心を持ったりということはなかったんでしょうか?
和世さん)正直ほとんどありませんでした。今、私は39歳になるんですが、同世代の根室で生まれ育った友達なども、同じような感じだったと思います。戦争と言われても、遠い過去の昔の話なので、あまりぴんとこない人も多くて。妃香を通して、私も一緒にひいおばあちゃんのお話を聞くようになって、興味を持つようになって、たくさん調べたり、「この記事は妃香がまた作文を書くのに使えるかもしれないな」というのを提供してみたりとか、私もすごい興味を持って調べるようになりました。
根室の近藤家では、戦争の記憶が「下の世代から上の世代へ」と継承されていました。
軍事侵攻に揺れる 平和への思い
そんな妃香さん。ロシアによるウクライナへの軍事侵攻を受けて、「北方領土を日本とロシアの交流拠点にしたい」という思いに、少し迷いが生じてきているといいます。
妃)日本とロシアが交流することで領土問題を平和的に解決していきたいと思っていましたが、ロシアのウクライナへの軍事侵攻をみて、もし橋を架けちゃったら、根室にもロシアの戦車が簡単に攻めてきちゃうかもなとか、すごく怖くなりました。交流を深めるべきということは間違っていないけれど、いまは何も出来ない、ただ待つしかないのかなと思います。
芳)お母さんは、16歳の妃香さんの気持ちの変化を見ていてどう思いますか?
母・和世さん)妃香には小学生の妹がいるんですが、もし根室でも戦争がおきてしまったらどうする?と2人で話しているところも聞いたことがあって。
芳)え?
和)うちには愛犬がいるんですけれども、小学生の妹は「愛犬と離れるくらいだったら私はここに残る」って。家族は逃げてしまっても、私は愛犬と残ると真剣に話しているのを聞くと、胸が苦しくなりました。やっぱり北方領土と根室ってすごく近いというか、軍事侵攻も本当にリアリティなので、そういう気持ちが子どもたちにも伝わっているんだなと感じました。
一方で、妃香さんは、ことし入学した高校で、北方領土問題について研究する部活に入りました。部活では、元島民の方にお話を聞いて地元のラジオ局で放送する活動を行っており、妃香さんも8月にお話を聞く予定だそうです。妃香さんは、ひいおばあちゃんが語ってくれたのと同じように、元島民の方の「故郷への思い」を聞いてみたいといいます。そうすることで、「北方領土を日ロの交流の拠点にしたいという気持ちがまた強くなるかもしれない」と感じています。そんな妃香さんの姿に、母の和世さんは大きな成長を感じていました。
和)(妃香が)大きく変わったのは、「私はこう思う」っていうことを思っているだけじゃだめで、「たくさん発信していかないといけないんだ」という気持ちがすごく強くなったことです。「だったらどんな風に伝えていかないといけないかな」って、作文がんばろうとか、スピーチコンテストがんばろうとか、全国の人に、どんな風に自分の気持ちを伝えたらいいんだろうっていう発信の仕方がすごく変わったなと思いました。そこがすごく成長して、とても素晴らしいことだなと思っています。
放送を受けて
50分間の放送。最後に「九人の乙女」の舞台を手掛ける中間真永さんと寺前キャスターが、戦争の記憶を継承するとはどういう事なのか、改めて思いを語りました。
中間さん)現在も起きている戦争に対して、私たちは無力なのかなと憂うこともあるんですけれども、目を背けずに一人一人が発信することが本当に大切だと改めて勇気をもらいました。
寺前)正直身近には感じていなかった戦争のことですが、私の同世代の方たちのお話も聞いて、本当にいろいろ考えて、ここで止めてはいけない、次の世代に私たちも発信していかなければいけないなと感じました。
この夏休み、お子さんに「一緒に近くの資料館に行ってみよう!」などと声をかけてみてはいかがでしょうか。今回の放送が、みなさんそれぞれの「戦争の記憶を見つめる」きっかけにつながれば幸いです。


夏 戦争の記憶を見つめる 聞き逃し配信中です!(2022年8月5日(金)午後0時まで)
2022年8月1日