昭和20年8月に終戦を迎えた太平洋戦争。終戦後も、シベリアなどに抑留され、寒さや飢えの中で強制労働に従事したことで多くの人が亡くなりました。戦後78年を迎え、その悲惨な抑留の記憶を語り継ぐことはますます困難になる中、父親が抑留された十勝の音更町の男性が、父が残した資料をまとめようと取り組んでいます。きっかけは97歳の抑留体験者との出会いでした。
(NHK帯広 嘉味田朝香)
あの日父は樺太にいた
厚生労働省によると、戦後シベリアなどに抑留された人は57万人を超え、およそ5万5000人が寒さや飢えなどで亡くなったとされています。音更町の木呂子真彦さん(71)の父親も旧ソビエトにおよそ2年間抑留されていましたが、生前、抑留の体験をあまり家族に語らないまま18年前に亡くなりました。

木呂子 真彦 さん
「時代も時間も共有していないので、話しても分からないだろうと思っていたからだと思う。こちらも体験を話してもらっても、何を言っているのか分からないということもある」
多くを語らずに亡くなった敏彦さん。しかし、抑留に関するメモや冊子など大量の資料を残していました。木呂子さんは今、その父が残した資料をまとめようと取り組んでいます。資料には過酷な抑留生活を送った父の記憶が残されていました。

父の敏彦さんは終戦時、陸軍の将校として、宗谷岬からおよそ40キロメートル離れた対岸に位置する樺太の西能登呂にいました。
敏彦さんの記録によると、8月30日に2隻のソ連軍の艦艇が近づいてきたといいます。ソ連軍は武装解除と、交渉のための使者を樺太の大泊へ同行させることを求めたため、敏彦さんが代表として艦艇に乗船しました。
しかし、大泊で武器の引き渡しの交渉を終えた後も、軍隊に帰してほしいという敏彦さんの要求を無視し、そのまま収容所に抑留されたといいます。
「死の伐採隊」へ
収容されてから数週間たった9月20日、敏彦さんは将校のみが集められた貨物船に乗って大泊港を出発しました。その後、ウラジオストクやタンボフ州の収容所などを転々とし1946年の8月に当時のタタール自治共和国のエラブカの「第717収容所Aラーゲル」に収容されました。この収容所には高級将校や官吏がいたということです。敏彦さんらは収容者の1人の大学教授を囲んでプラトン哲学や宮沢賢治の研究会も開いたといいます。
しかし、翌年「死の伐採隊」と呼ばれ恐れられていた「ボリショイボール(大森林)」での伐採作業に従事することとなりました。30メートルほどの大木をのこぎりで伐採するというもので、死者も出るような危険な作業でした。伐採組長となった敏彦さんは、木を倒すときは互いに声を掛け合うことや、枝の跳ね返りに注意することなどを呼びかけ、1人のけが人も出さずにすんだといいます。

1947年の10月には日本への帰国の話が持ち上がり、11月にはロシア極東の町、ナホトカから引き揚げ船に乗船。12月1日に函館に入港し、およそ2年間の抑留生活を終えました。
97歳 抑留の語り部
そうした父の抑留体験の資料について息子の木呂子さんはどうして改めてまとめようと思ったのでしょうか。そのきっかけは、おととし届いた1通の手紙でした。すでに亡くなっていた父あてに遺骨収集の関連で情報提供を求めるものでした。
手紙の送り主は、吉田欽哉さん。シベリアで強制労働を経験しました。自身の体験を後世に語り継ごうと97歳となった現在も、語り部活動や遺骨収集に熱心に取り組んでいます。吉田さんと連絡を取り合ううちに、木呂子さんは吉田さんの熱意に胸を打たれました。

木呂子 真彦 さん
「シベリア抑留の経験をされているので、切実な思いが伝わってきた。吉田さんの経験をみなさんに伝えたいと思った」
ことし6月、木呂子さんの姿は帯広市の講演会の会場にありました。これまでこういった講演会の運営を行ったことはないという木呂子さんですが「十勝の人たちにも自分の体験を伝えたい」という吉田さんの願いをかなえようと、運営をかってでたのです。

木呂子 真彦 さん
「若くしてシベリアの抑留体験をした方が今、97歳ですから、直接シベリア抑留の話をお聞きできるのは、もう吉田さん以外いないんです。ぜひ吉田さんのお話を聞いてほしい」
木呂子さんは、会場の設営はもちろん、来場者に配る資料の制作なども行いました。会場には木呂子さんの予想を超えて多くの人が集まり、吉田さんの語る体験に耳を傾けていました。
吉田 欽哉 さん
「収容所に入ったら、電気もなにもない。スープとパン一枚で作業に行くでしょ。鉄道の作業に行くと枕木というのがあるでしょ。あの中に石入れるでしょ。線路を直すのに。その石がねおはぎに見えるの。石が食べ物に見えるようになったら人間も終わりだね。8割が9割の人が栄養失調で亡くなったんでないですかね。こんなところで亡くなったら誰が線香あげてくれるんだろう。誰がお参りにくるんだろうってこんなところで死ねないなと」

「記憶の継承」どう向き合う
講演会には、木呂子さんが招いた地元の高校に通う新聞部の生徒も参加していました。
参加した女子生徒
「シベリアについて話を聞くことがなかったので聞いたことを周りの人たちにも教えたい」
参加した男子生徒
「次の世代に伝えていきたいと感じましたし、そういう役割が僕たちの世代にはあるのかなとは思います」
講演を終えて、吉田さんは支えてくれた木呂子さんへの感謝とともに、父親の記憶を引き継いでほしいと伝えました。

吉田 欽哉 さん
「やっぱりね、木呂子さんのお父さんの、その次の世代の人だから。お父さんの残したものをね大事にしてほしい。ただしまっておくだけではなく」
木呂子 真彦 さん
「シベリア抑留という問題が忘れられているのかなという印象があったので、ちゃんと知っていただきたいと思いました。そういうようなことも整理したい、広報をしていきたいと思う」
今後の「記憶の継承」への関わり方について、木呂子さんは「仕事もあるので、吉田さんのような活動は出来ないけれども、引き続き父の資料の整理を続けていきたい」と話していました。今後まとめて公開することも検討しているということです。
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