4年前に発生した北海道胆振東部地震。当時、新聞記者として現地で取材をしていた男性が、新聞社を早期退職して、被害が大きかった厚真町に移住しました。現在は、人口およそ4400人の町の役場で広報を担当しています。なぜ、会社を辞めてまで被災地で暮らす決意をしたのか。その理由は、厚真町に通い続けるうちにひかれていった町の人々の思いを伝え続けるためでした。
(室蘭放送局 小林研太)
新聞社を辞めて厚真町役場職員に

福島さん
「今までおざなりになっていた被災地との関係を最後にきちんと作りたい」
厚真町役場のまちづくり推進課の福島英博さん(60)。今から2年前、厚真町に移住することを決めた思いを語った言葉です。それまで、大手全国紙の新聞記者として、様々な現場を取材。平成7年の阪神・淡路大震災や、平成12年の有珠山噴火なども担当し、各地の災害現場の様子を克明に記録してきました。

4年前の胆振東部地震。福島さんは、所属していた新聞社の支局があった苫小牧市内で激しい揺れに襲われました。身の安全を確保するとすぐに取材活動を始めます。発生直後から周辺の自治体に電話をしましたが、なかなか連絡がつかなかったのが、厚真町でした。すぐに現地に向かった福島さん。その途中、住宅の塀や建物が倒壊するなど、今まで見たことのないような光景が広がっていたと言います。
地震発生から3時間近くたった午前6時前に厚真町役場にたどり着きました。地震で机の周りが散乱し、騒然とした雰囲気のなか、役場の職員は、情報を求める町民だけでなく、駆けつけたメディアにも丁寧に対応してくれたことが印象に残ったと振り返ります。
地震から1か月、半年など、その後も厚真町に通い続ける日々。そのたびに、役場の職員や町民が快く取材に応じてくれました。徐々に芽生えてきたのが、「これからも厚真町ともっと近くで関わっていきたい」という気持ちでした。
転勤のため、これまで取材してきた被災地を復興の途中で離れなければならないことにじくじたる思いを抱いていた福島さん。定年間際ということもあって早期退職を決意。新聞社を辞めて、厚真町の会計年度任用職員(専門職)として勤務することにしたのです。それは令和2年4月のことでした。
福島さん
「新聞社も定年まであと2年ちょっとあったんですけど、北海道で初めて観測した震度7の胆振東部地震からあと1年か2年で、また違うところに異動になってしまう。自分の年齢を考えると、これからは少しじっくりと腰を下ろして、今までおざなりになってしまっていた被災地との関係を、最後きちんと作っていきたいなっていう個人的な思いがありました」
広報紙で”ATSUMA LOVERS”を開始
役場では、町の広報紙「広報あつま」の編集を担当している福島さん。今、最も力を入れて取り組んでいるのが、みずからのアイデアで始まった裏表紙にあるコラムです。その名は、「ATSUMA LOVERS」。厚真町に思いを寄せ、前へ進もうとする人を毎月紹介しています。

福島さん
「自分にできることは何かと考えたときに、いろいろな考えや思いを持たれている町民、あるいは厚真に思いを寄せて頂いている人から本音を伺って、その人を通じて厚真町の今の状況を広報紙という公共媒体で情報発信をすることじゃないかと思いました。それによって、町民も何らかのメッセージを受け取ってくれるんじゃないかと思って、コラムを書かせてもらうようになりました」
今では誰のストーリーが翌月に掲載されるのか待ちわびる町民も少なくないそうで、広報紙の人気のコーナーの1つになっています。
そんなコラムの取材でとくに思い出に残っているという人の1人が、本郷地区に暮らす山口清光さん(85)です。4年前の地震で妻を亡くした山口さん。倒壊した自宅の庭の土を、現在、住んでいる災害公営住宅に持ってきたところ、その土の中に偶然、コスモスの種が交じっていて、去年、見事な花を咲かせたのです。その噂を聞きつけた福島さんが取材の依頼をしたところ、町のために奔走する福島さんの頼みならと快諾してくれました。地震から3年目となる令和3年の9月号のコラムには、山口さんと満開のコスモスが掲載されています。

山口さん
「(コラムで紹介してもらって)うれしかったです。私も耐えて頑張っているんだということが、みんなに知ってもらえたらいいなと思っています。今も邁進しているところです」
福島さん
「町民として認知して頂けた第1号というと大げさかもしれませんが、当時は『どう 受け入れてもらおうかな?』とか、『どうやって認知してもらおうか?』とハラハラ、ドキドキしながら山口さんのところへお邪魔しました。快く引き受けていただいたときは、『来てよかったな』というのが率直な感想です。もう感謝しかないです。コスモスを見せて頂いて、すごく元気をいっぱいもらいました」
地震4年には未来を担う若者を
地震の節目となる9月には特別な思いがあるという福島さん。コラムでは、その時の復興状況を象徴するような人に話を聞いてきました。4年目となることしの9月号のコラムに選んだのは19歳の西舘龍哉さんです。高校生の時に経験した地震では、大きな被害は免れましたが、自宅の家具が倒れるなどしました。
それから4年、西舘さんが追いかけるのは、特産のホッキ漁を営む祖父や父の背中です。

「無駄がない」という父の隣で、漁業者としての仕事を学ぶ西舘さん。福島さんに対し、「今はまだまだです。今は覚えることが多いのですが、それをほとんど覚えられれば、ちゃんとした漁師になれると思います」と語りました。それに対し、福島さんは、「すべてを覚えて、自分の体にしみ込ませた時に、初めて漁師になれたと自分の中で思っているんだね」と優しく声をかけました。西舘さんの前に進もうというその姿が、復興へと一歩ずつ進む町の姿と重なり合ったといいます。

多くの町民の声に耳を傾け、その思いを発信し続けることが、復興にもつながっていくと信じている福島さん。多くのATSUMA LOVERSに出会いながら、第2の取材人生はこれからも続きます。
福島さん
「私の仕事は1人では一切できません。すべての皆さんの支えや助けを頂きながら仕事をさせて頂いているので、それに対してどうやって感謝しながら、町に微力ですけど還元できるか。そこは永遠のテーマです。
若い世代の方も含めて、いろんな形で人のリレーをあの紙面を使って描いていきたいなと思っています。その人の個人史を書きつつも、今の厚真の状況、厚真の目指すところを描けていけたらと考えています」

厚真町の広報紙「広報あつま」は、厚真町のホームページにも掲載されています。
胆振東部地震から4年まとめページ
被災した人たちと地域の暮らしはいまどうなっているのか。あの地震から、わたしたちはいま何を学ぼうとしているのか。