あるとき、函館では有名なフリーペーパーの編集者と話す機会があった。40代の彼は、函館生まれ函館育ち。聞けば大門が好きで、もっぱら飲み歩いているのだという。なにがよくて、通い詰めるのだろうか。
「大門には“におい”があるんです。建物がどんどん変わって、前みたいに活気がなくなっても残っている“におい”に惹かれてしまうんだと思います。」
私が感じた「さみしい町」には、どうにも人を惹きつける“におい”が漂っているのだという。その“におい”をかいでみたいと思った。そして、その正体はなんなのだろうか。
大門の“におい”を求めて、カメラを片手に探訪することにした。
(NHK函館ディレクター 岡勇之介)
NHK+にて見逃し配信中! 4/28(金) 午後8:42 まで

「にぎわいの象徴」が無くなる―
駅前のデパート、「旧棒二森屋アネックス館 函館駅前ビル閉館」のニュースを耳にしたのは、おととしの1月のことだった。道内のメディアではこぞって報じられ、閉店を惜しむ声をたくさん聞いた。当時、函館に引っ越してきて間もなかった私には、ひとつのデパートが閉店することにここまで多くの人が感傷に浸るものなのかと、少し意外だった。聞けばデパート「棒二森屋」は「大門」のにぎわいの象徴であったのだという。
「大門」。函館駅前の一帯を、町の人はこう呼ぶ。行政的な地名ではなく、函館市民が呼ぶ通称のようなものだ。「ここからここまでが大門」という明確な区分けがあるわけではなく、人によって「大門」をさすエリアは様々だ。それは、各々がこの一帯に対して持つ記憶に由来する。かつて大門は道内でも有数の歓楽街だった。網目のように広がる通りには人とモノがあふれ、昼夜問わず活気にあふれる場所だったという。「この通りでこんなものを買った」「この通りでこんなに楽しい思いをした」。そんな思い出によって、大門という町が指す範囲は、人によって違う。それほどまでに、人々の大門への思いは、強いものがあるのだろう。

今の大門は、昼間は人はまばらで、夜になると観光客が飲食を楽しむために出歩く町になっている。市電が走る大通りから一歩脇に入れば、駐車場や空き地、空き店舗が目立つようになった。初めて大門を訪れたときに、「さみしい場所」だと思った。

終わりの時を待つ、ある喫茶店
大門の端、通称「音羽通り」。この通りをまたぐような形で、営業を終えた「棒二森屋」本館と、アネックス館が解体の時を待っている。二つの建物に挟まれるような形で喫茶店「サテンドール」はある。創業してから48年。ビルの解体に伴い、今年営業を終える予定だ。

今日まで店を続けてきたのは、店主の釡澤初子さん。創業当時、大門は喫茶店ブーム。流行りに乗じて夫婦二人で店を始めた。今は初子さんひとり。夫は出ていったという。
「繁盛したんですよ。隣が棒二さんだから。元旦那は借金おいて行っちゃったから。離婚届私出して。もう死んだって聞きました。」

お昼時は、常連さんたちで賑わう。話はもっぱら、賑やかだったあのころの大門について。
「お姉さん遊ばないって声かけられて。振り返ったらなんだババアかって(笑)」
「さいか(デパート)の地下に名画座ってあったよね。今でも忘れないね。イタリア映画でね、ひまわりって見た。感動したね。」
「今はほとんど観光客相手ばっかりですもんね。居酒屋、ホテルばっかりだもんね。どうすんだろうね。」
「私たち(ここが無くなったら)行くところがなくなるんですよ。若い人たちがいくところにはいけないし。」
この日、店内は満席になるほど客が入った。閉店が決まっている小さな喫茶店にしては少し意外な賑やかさだった。常連客の一人がワケを教えてくれた。
「今日は年金日だから。」

見渡せば確かに65歳以上と思わしき客ばかり。私の隣に座った常連客が、座ってすぐに初子さんに1200円を支払っていた。
「ツケてもらってる。2杯借りてるの。これで3杯目。私ひとりだからさみしいし、人と話がしたいし。」
初子さんによると、ツケでコーヒーを飲ませることはよくあることらしい。今時ツケとは珍しいのではないか。
「お金なくても顔見せてくれればそれでいいの。だからいつでもおいでって。」

午後1時を過ぎると、常連客は帰っていった。その後客足は少ない。
店内に二人きりになったところで、初子さんがあるものを見せてくれた。
「棒二さんの跡地の開発予定だって。ここ壊して、ホテルが建って、目の前の通りはアーケードを作って、若い人たちに店をやらせるんだって。」
ビルは解体後、跡地にホテルや商業施設などの再開発がされる予定だ。初子さんのもとには、再開発を担当する組合から定期的に進捗状況などの連絡がくる。この再開発は、資材高騰などが理由で、計画が遅れるおそれもある。もしかしたら、予定より長くお店を続けられるかもしれないのではないか。
「もう潮時。だってもう歳だもの。これ以上やっていたってみじめでしょう。でも、みんな(常連客)どこいけばいいのって。だって・・・ずっとここ(大門)にいるんだよ」

そう話す初子さんの瞳は濡れていた。
“玄関口”を見つめてきた、立ち飲み屋
喫茶店「サテンドール」から音羽通りを西に100mほど進んだあたりに、一軒の立ち飲み屋が営業をしていた。「丸善瀧澤商店」は、酒屋さんと立ち飲み屋さんが一緒になっている。正確にはわからないそうだが、創業は100年を超えるという。目の前には函館駅。函館の“玄関口”を見つめ続けてきた。

大門が最も賑わっていたのは、北洋漁業や青函連絡船があったころ。北海道の玄関口であった函館のなかでも、多くの人々が訪れ、去っていった場所が大門だ。長い航海に出る人や連絡船の出港を待つ人、市場で一仕事を終えた人などが一杯引っかける。そこで重宝されたのが、朝から営業する立ち飲み屋である。正確な数はわからないが、数十件の立ち飲み屋が大門にあったそうだ。
朝10時。店を開けて仕込みを始めたのは、瀧澤博さん。この店に婿養子としてやってきた。博さんの朝は、店前の掃除と氷作りから始まる。店には常にFMラジオが流れ続ける。店の営業時間は朝10時~夜10時までだ。

せっかくなので、一本酒を注文してみた。注文したレモンチューハイは250円。
「乾杯」
博さんが炭酸水で乾杯してくれた。
「漁師さんが夜イカづけ終わって、朝あがってきて、一杯飲んで帰るとか国鉄の人たちが夜行列車に乗って、朝入ってきてとか。店出て表で喧嘩してたりとか、見たことありますよ。それくらい人がいっぱいいたんだね。肩ぶつかっただけで喧嘩してるから。」
11時ごろ、店に一本の電話がかかってきた。酒の配達の依頼で、市内の焼肉店からだった。
「コロナ前はもうちょっと配達の依頼あったんですけどね。いまは常に依頼があるのは4,5件くらい。いまはインターネットとか大型スーパーとかで買えちゃうからね。」
12時ごろ、博さんの妻、真理子さんが買い出しから帰ってきた。彼女がこの店の3代目である。幼少期から店に顔を出し、手伝っていた真理子さんいわく、「昔の大門はちょっとあぶない町」だったそうだ。

「ここら辺はパチンコ屋さんがたくさんあって、パチンコやりながら来て、グッとお酒空けて、お釣りが間に合わないくらいにすぐ出て行って、またパチンコへ走ってく。
組の人なんかも来てて・・・。昔は多かったんですよ。でも私は全然怖くなくて、かえってここの娘だっていうんでかわいがってくれた。素人さんには手出すなってちょっとえらい人がね。」
午後1時頃、ひとりの男性客が来た。注文はワンカップの日本酒。
「今日は3本で帰ります」
以前飲み過ぎて、博さんに怒られたことがあるらしい。1時間後に函館駅前から出発する、札幌に向かうバスに乗るまでの間に一杯ひっかけにきた。
「札幌から単身赴任で来てて。明日息子の誕生日なんですよ。それで今からバスで帰ります。ここで飲んでバスで寝れば、あっという間に札幌です。」
息子にあうのが待ち遠しい父。ここで飲む酒は、息子と会うまでの時間を短縮させてくれるような、そんな力があるのかもしれない-などと思った。

そんな話をしていると、またバス待ちの客がやってきた。函館市内に住んでいて、近くの病院に行った帰りにやってきたそうだ。
「もうガタガタだ。毎週病院通いだ。血圧は高いし、心臓は爆弾みたいだし、目は悪いし、おしっこは出にくいし、まいっちゃうよ。」
医者に控えるよう言われているという酒を次々にあおっていく。飲まなければやっていけない理由がありそうだった。
「夜は寝るから、昼間に来て飲む。でも寝れねえけどな。いろいろ考えちゃって。人生いろいろだよ」

「すみません。やっぱりもう一杯」
今日は3本と言っていた男性が追加注文をし始めた。博さんは無言で手渡す。むやみやたらに客にあれこれ聞くことはない。男性は最後の一杯をかき込むように飲み、バス停へ向かっていった。

午後4時を回ったあたりから、次々に客がやってくる。午後5時過ぎにはカウンターに立てないほどの満員になった。私もこの日何本目か分からなくなったレモンチューハイを頼んだ。客同士はこの店限定での顔見知り。でも長年の友人かのように話を弾ませているのが印象的だった。
「息子が高校の推薦入試で、落ちたって知ってここに来たの。もう帰りたくなくて。なんて伝えたらいいんだろうって。(酒の力を)めっちゃ借りた。いざ伝えたら、冷めててびっくりした」
「お父さんの前だから意地張ってんじゃないの」

そんな話を横目にレモンチューハイを飲んでいると、隣の女性が気さくに話しかけてくれた。もう何年も通っているらしい。いつも夕方前に来て午後8時までには帰るというルーティーンができているのだという。
「母親の介護をずっとしていて、仕事が終わってからヘルパーさんがいてくれる間にきていたら、このルーティーンになっちゃった。本当につらかった。よく介護疲れで親を殺しちゃったとかニュースで聞くけど、本当にその気持ちが分かるくらい。多分この店がなかったら私も(母親の)首しめてたかもしれない。朝から晩までやっていて、いつ来ても無言で受け入れてくれるから耐えられたと思う。」
午後9時。閉店まであと1時間のところで、男性2人一組の客がやってきた。話を聞いていると久しぶりにこの店にやってきたのだという。
「あれ、中村さん!?」
2人のうち一人が私の隣で飲んでいた客に向かって興奮気味に叫んだ。偶然、数年ぶりに再会した友人同士だった。
私の隣で飲んでいた「中村さん」は、大門で30年以上営業する服屋のオーナーだった。大門では知らない人がいないほどの有名店で、現在中村さんは大門地区の商店街の、副理事長を務めているという人だった。

「中村さんにずっと負い目があって」
中村さんに謝っていたのは12年前、函館市議選に立候補して落選してしまったという人だった。地元の有力者だった中村さんに、応援してもらっていたらしい。
「この人ね、市議の給料下げるって公約掲げて落選しちゃったの(笑)」
「あのとき函館というか大門は、どんどん衰退していて、なんとかしたいと思って脱サラして、中村さんに応援してもらって立候補したんだけど、下から2番目(笑)。」
その後もふたりは様々な町おこしをしていたが、中村さんを残して、東京に行ってしまったということだった。
「全然気にしてないよ。大門は心ひろいから。懐深いから。これからまたまた一緒になんかやろうよ!」
午後10時。閉店の時間だ。まだまだ話が尽きない様子の客たち。連れだって出て行く人たちもいた。次の店にいくのだろうか。そんな客たちに瀧澤夫妻がかける言葉は
「いってらっしゃい」
昼も夜も眠らなかった町、大門。きっと、そのまま帰らずに別の場所に行く人も多かったのだろう。そんな当時の“におい”を感じる言葉だな、と思った。
最後に頼んだレモンチューハイを飲み干して、店を出た。後ろから「いってらっしゃい」と2人の声が聞こえた。夜の大門は、人影がまばらだった。

いまも響く大門の“音”
大門がかつて道内有数の歓楽街と呼ばれた訳はいくつかあるが、ひとつには「業種の多さ」にある。この小さな町に、ありとあらゆるものがあった。飲み屋はもちろん、無数の喫茶店に衣料品店、映画館とデパートも数軒、本屋にレコードショップなどなど、ここに来れば楽しいことは全てある、といった具合だ。なかでも一大ブームとなったのがキャバレーである。テーブルでお酒を飲みながら、バンドが奏でる音楽を生で聴く。そういった楽しみができる場所がいくつもあった。各キャバレーには「箱バン」と呼ばれる、店に在籍するバンドがいくつもあった。つまり、大門は至る所から音楽が流れてくる町でもあったのだ。
今、大門に当時のようなキャバレーは存在しないが、音楽が流れ続けている場所がある。それが、大門仲通りにある「多目的スペース あうん堂」である。

いまや国民的バンドといっても過言ではないGLAYも、ここで演奏していた。コロナ禍で存続の危機に立たされながら、今も音楽が聞こえてくる。
私が訪れた日、あうん堂では、アコースティックの弾き語りライブが行われていた。
この日の出演者は3組。そのうち一組が、開演前にリハーサルをしていた。
KAZUSAさんとコヤマさんのデュオ。この日10年ぶりに組んで演奏するのだという。
KAZUSAさんは、このあうん堂で働くスタッフでもある。さらに、よく五稜郭周辺の路上で弾き語りをしている、いわば「現役」だ。一方のコヤマさんは大学卒業後はバンド活動から離れていたという。
「働き始めるとなかなか時間取れなくて。あと大きいのは仲間がいなくなっちゃったことですね。バンド仲間はみんな外に出ちゃったから、演奏する機会がなくなりました。学生じだいはよくここで演奏してたんですけど、さみしいですね。人前で演奏するのは本当に久しぶりなので緊張してます」
そしてトリの3組目。KAZUSAさんが一人で出てきた。まずはソロで弾き語り。
曲目は全て、函館で活動をしていたアマチュアバンドのオリジナル曲のカバー。インターネットを検索しても、曲も歌詞も出てこない。どれもさみしげな曲だ。
2曲を演奏したところで、コヤマさんが出てきた。演奏する曲は「月の下で」。KAZUSAさんのオリジナル曲だそうだ。
『考えごとが波のように 引いては戻ろうとする 逃げることをジャマするかの様 考えごとが波のように 引いては戻ろうとする 待ってるだけじゃ未来には届かない』
開発が繰り返されかつてあったものが消えても、町の未来のために新しいものが生まれていく大門に、この曲が重なった。
「また一緒にやろうよ。曲考えといてよ。」
「え~どうしようかな。考えとく(笑)」
10年経っても、また一緒に演奏できる仲間と空間。それが大門には残されていた。

初老の男性2人組のデュオが出てきた。一人がギターとハーモニカ、もう一人がカホンを叩いていた。1曲目、歌なしのボサノバ調の曲が終わった後、カホンを叩いていた男性がMCを始めた。
「実は俺が癌になって、余命宣告されて、ステージ4ってことで。いまもちょっと体きついんですけど・・・ちょっとごめん。多分先そんなにないと思いますけども、ここでできるのも多分ですけど最後になると思いますので、魂こめて命削ってやります。」
カホンを叩いていたのは「北都の平八」さんというシンガーソングライター。かつてはトラック運転手として、全国を旅しながら、日本中で音楽を奏でてきたのだという。2021年に末期の食道がんで、余命一年を宣告された。それでもライブ活動を続け、宣告された一年を超えた。
「本来だったら僕が歌うんです。でももうお客さんに聞かせられるような声じゃない。前歌ってた歌は歌えなくなりました。。やっぱりここは歴史がある場所で僕個人も思い出がたくさんある場所。自分の青春の1ページ。やりたいことやったからもういいやって笑って死にたいです。」

最後の曲、平八さんはギターを手にとった。女性のボーカルが入り、平八さんはギターを弾いた。聞いたことがある有名な曲だった。弦を押さえる手が震えているように見えた。時々息を切らしながらも、どこか清々しくも思える表情で、平八さんはギターを弾いていた。

大門の“におい”
大門の“におい”を探し求めて、いろいろな場所を訪れた。いろいろな人の「つぶやき」を聞いた。そのどれもが、どこかまっすぐで、素直で、人間くさかった。もしかすると、集う人を「人間くさく」してしまうのが大門のにおいの正体なのではないか。そして、集う人は、日々の一時でもそうなりたくなって大門に来るのではないだろうか。新しいホテルが次々と立ち、駐車場だらけになっても、この「におい」はなかなか消えそうにない。きっと皆、この「におい」にあてられてしまっているのだ。そんなことを考えながら、私は取材を終え帰宅した。またあのにおいをかぎたくなった。

道南スペシャル「函館大門にて」
総合 4月14日(金) 午後8時17分 (北海道向け)