朝4時。漁師たちが海岸線に集まってくる。荷台にクレーンのついたトラックは、一目で昆布漁師のそれだとわかる。
「寄ってるか?」
「ダメだ、今日は寄ってねえ」
煙草をふかしながら、仲間でもありライバルでもある漁師同士が情報交換。そして、5時。思い思いの浜で“拾い昆布漁”が始まる。

情報交換する昆布漁師たち
“拾い昆布”と聞いて、当初は野原でタンポポでも摘むようなものだとタカをくくっていた。落ちてるものを拾うという手軽さと、動物や魚のように動くことのない植物だという安心感。ところがどっこい、そうは問屋が卸さないのだ。
ひとたび海岸に出れば、押し寄せる波に立ち向かい、瞬間的に見える、海底から抜けた昆布を、カギ竿で素早く拾い集める。海岸線を走り回って、一本一本ものにしていくのだ。
潮の流れ、波の高さ、風向き……、海底から抜けた昆布をものにするためには、知恵と体力、そして何よりも経験がものをいう。広尾漁業史によると、“拾い昆布”は『古くからこの地域では欠かせない収入源であった』そうだ。


30年以上のキャリアをもつ名人福田さん
時には“マッケ”とよばれる、長さ50センチほどの錨型のカギ針を、ハンマー投げの選手さながら海に放り投げ、昆布を引っかけて手繰り寄せる。引き潮が強いと、身体ごと持っていかれるほどズシリとした重みが両手に伝わってくる。実際、昆布や雑海藻が沢山ひっかかりすぎると、ロープを切って“マッケ”を捨てざるを得ないこともある。
幅15センチ、厚みのある2年ものの昆布をものにするには、かなりの体力を要する。
“拾い昆布”は、一見、物腰柔らかく愛想もいいが、その実、バリバリの体育会系な、ゴリゴリの営業マン的恐ろしさを秘めた漁なのだった。

時には胸まで漬かって昆布を拾う

マッケを投げる保志さん
10年前までイカ釣り漁船に乗っていた、保志弘一さん37歳。本格的に昆布漁をはじめてまだ5年ほど、“拾い昆布”にいたっては去年からはじめたという、広尾町の昆布漁師界ではまだ“ぺーぺー”の部類だ。先輩漁師にテクニックや作法を教えてもらいながら試行錯誤の日々を続けている。
根っから真面目な保志さんは、学生時代にバスケで培った足腰も相まって、誰よりも浜を走り回る。そのひたむきな姿は、ベテラン漁師たちもついついコツを教えたくなるほどだ。
父、保弘さんと二人三脚の昆布漁。代々漁師をしてきた保志家の長男として、海への想いはひとしおだ。

保志弘一さん
台風はエモい!保志さん曰く、低気圧が通り過ぎると、浜に昆布のフィーバータイムが訪れるという。波にもまれ海底から抜けた昆布が、大挙として浜に押し寄せるのだ。
滞在5日目、朝4時半に保志さんから電話が鳴った。
「寄ってますよ!フィーバータイムです!」
100%寝ぐせの状態で、浜へと駆け付けた。
浜には既に漁師が10人ほど。タバコをふかし、談笑しながら朝5時の漁解禁を今か今かと待っている。保志さんはニヤニヤしながら、「運動会がはじまりますよ!」と目を輝かせる。
はて?運動会??と思っていると、いきなり一斉に漁師たちが動き始めた。保志さんも、とんでもない速さで波打ち際へ駆け寄る。

フィーバータイムが来たー!

浜にはゴロっと昆布が流れ着く
波打ち際には、ダマになった昆布がわんさか打ち寄せる。一本一本拾っていたこれまでの4日間とは、獲れる量が全然違う。浜が昆布で足の踏み場もなくなるほどだ。ものの30分で、トラックの荷台がいっぱいになるほどの昆布が獲れた。これはいい映像が撮れたと、こちらもほくそ笑んでいると、漁師としてのアドレナリンが全放出の保志さんは、場所を変え、2回戦に突入。もうこちらの撮れ高は十分ですが……、と思ったがどんな顔をして漁をするのか見てみたい欲が勝り、カメラを向け続けてしまった。
結局この日、保志さんは“拾い昆布”を4回戦まで行った。まったくもって、広尾で疲労困憊である。

父 保弘さん
頑張れば、昆布は安定的な収入を得られるが、簡単に儲かる仕事ではない。昆布をとったら終わりではなく、曇りがちな夏の広尾で晴れた日を見計らい、一気に乾燥させ、それを裁断し等級を選別、そして箱詰めと、手間がかかる。一等級の乾燥昆布20キロで数万円。時給換算すれば、決して割りのいい仕事とは言えない。さらに、前代未聞の赤潮被害によって、今年の昆布は製品にならない細くて若いものが多い。
だけど、保志さんは絶対にやめる気はないという。
それは、父であり先輩漁師でもある、保弘さんへの想いから来るところが大きかった。

親子二人三脚の昆布漁
父、保弘さんは、18歳から漁師をしてきた。サケマス、毛ガニ、イカ、と魚種を変えながらも、ひたむきに漁師の道を歩んできた。しかし二十数年前、2年続けての不漁によって、億という借金を抱えてしまった。一家は、巨額の借金を返済するため、爪に火をともすような暮らしを余儀なくされた。保志さんも、高校時代は新聞配達のアルバイトをして、家計を支えた。
「実入りが少ないからと、ここで自分が漁師をやめたら、ひたむきに漁師をしてきた父の人生はなんだったのだろう?と思ってしまう。父の人生を否定するようなことはできないから、自分は絶対に漁師を続けたいんですよね」
トラックを運転しながら、保志さんがふと話してくれたその話に、胸が熱くなった。父を想う気持ちが保志さんのひたむきさを支えていたのだと思うと、鼻の奥が痛くなった。

わたくしごとだが、取材に入るひと月前に、父を看取った。オトナになってから、父と時間を共有することなど皆無だった。盆暮れ正月に顔を見せるくらいで、特別これといって思い出に残る出来事も無かったし、いい歳をして、親友のような親子なんているはずがないと、勝手に思い込んでいた。
毎朝4時、ふたりで浜に向い、昆布を拾う。交わす言葉はさほど多くはないが、それぞれに思いあっていることが、見ていれば伝わってくる。浜にお邪魔するようになって、日を重ねるごとに、親子の姿がとても神々しく目に映った。協力して漁を行うという当たり前のこと。けれど、その当たり前の一瞬こそが、広尾で暮らしている本当の豊かさなんだな、と二人の姿を見ていると、じんわりと感じた。
2022年7月14日
金井良祐(札幌局ディレクター)
