NHK札幌放送局

沖縄戦77年 兄は帰ってこなかった

ほっとニュースweb

2022年6月23日(木)午後1時50分 更新

77年前、住民を巻き込んだ激しい地上戦の末、20万人を超える命が失われた沖縄戦。
北海道出身者は、沖縄を除く都道府県で最も多い1万800人余りが戦死しました。
遺族は、遠く離れた北海道から平和を願い続けています。
(室蘭局 篁慶一)

手を振り続けた兄

6月23日の「慰霊の日」、苫小牧市に住む高橋善雄さん(90)は、正午になると手を合わせて目をつむりました。
思い浮かべたのは、沖縄で戦死した兄、俊男さんです。
高橋さんは、20年ほど前まで慰霊の日に札幌で行われる慰霊祭に参列してきましたが、今は体調を考慮して自宅で追悼しています。

高橋さんは、現在の新ひだか町静内の農家に生まれました。
兄の俊男さんは10歳年上で、農耕馬の世話をしたり、荷物を運ぶ仕事をしたりしていたことを覚えています。
「働き者でやさしい、憧れの兄」だったそうです。
しかし、昭和17年に兄が20歳の誕生日を迎えると、すぐに召集令状が届きました。
旭川の陸軍の部隊に入隊することになり、その年の6月頃に静内駅から出征しました。
当時9歳だった高橋さんは、駅での見送りが兄との別れになりました。

高橋善雄さん

「駅には家族だけでなく、近所の人たちも大勢見送りに来ていました。列車に乗って、窓から一生懸命手を振っている兄の姿が、今も目に焼き付いています。写真が無くてもすぐに思い出せますし、死ぬまで忘れないと思います」

白木の箱は空だった

兄の俊男さんは、旭川から旧満州、現在の中国東北部へ派遣されました。
しかし、昭和19年にアメリカ軍の侵攻に備え、所属する部隊は沖縄に送り込まれました。俊男さんは、馬の扱いに慣れていたことから、野砲を引いて運ぶ軍馬の世話を任されていたということです。

兄の高橋俊男さん

昭和20年8月の終戦直前、両親の元に兄の戦死公報が届きました。
そこには、昭和20年6月22日に沖縄南部の糸満で戦死したと書かれてあったそうです。
旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされ、「慰霊の日」に定められている6月23日の前日でした。
戦後、高橋さんが沖縄戦の生存者から聞いた話によると、兄の所属する部隊に最後の命令が下り、兵士たちは夜明け前に銃剣を持ってアメリカ軍に突撃した後、機関銃で撃たれて亡くなったということです。

また、両親は役場から白い布に包まれた白木の箱を渡されましたが、その中に兄の遺骨は入っていませんでした。
兄の戦死を知った当初、両親は「国に命をささげた」、「よく頑張ってくれた」と話して気丈に振る舞っていましたが、時間がたつにつれて、「戦争が無ければ大切な子どもが亡くなることはなかった。残念だ」と語るようになりました。
昭和39年に初めて沖縄へ慰霊に行った母は、糸満の激戦地だった場所から小石を持って帰り、墓に入れたということです。

出征先から届いたはがき

高橋さんにとって兄の形見と言えるのは、出征先から届いたはがきだけです。
厳しい検閲のためか、はがきには「家族みんなお変わりありませんか」といった当たり障りの無い言葉が多く並んでいます。

ただ、その中には「もう学校へ行く頃だと思う しっかりやりなさい」という一文もあり、弟に対する愛情も感じられます。
高橋さんは、「このはがきには兄の命が宿っているような気がする」と話し、紙が劣化して破れても、テープを貼って大切に保管しています。
はがきを読む度に、兄が23歳の若さで亡くなったことへの悲しさや悔しさがこみ上げると言います。

「兄は長生きして、親兄弟のために頑張ろうと考えていたはずです。戦争は人の命を簡単に失わせて、人に悲しい思いやつらい思いをさせる。誰も何の得をすることもありません。帰ってきてくれたら戦後も心強かったし、楽しく過ごすことができた思う。本当に残念です」

平和願い続けて

沖縄戦の後も、世界各地で戦争による悲劇が繰り返されています。
今年に入り、高橋さんはロシアによるウクライナ侵攻に心を痛めています。
軍人だけでなく、住民も容赦なく巻き込まれていく状況が、沖縄戦と重なって見えると言います。
高橋さんは無力感を感じながらも、早く戦争の無い世界が訪れてほしいと願い続けています。

「平和であれば兄は戦地に行くことも無かったし、私たちと仲よく暮らせたし、長生きもできたと思う。平和であれば皆さんが安心して生活が出来て、いろんなことができるはずです。1人でも多くの方に、戦争というものは本当に残酷で、絶対に起こしてはいけないという気持ちを持ってほしい」

【取材後記】

最後の激戦地となった沖縄南部の糸満には、北海道出身の戦没者をまつる「北霊碑」があります。
昭和29年に他の都府県に先駆けて建立された慰霊碑で、これまでに2度改修されています。
この北霊碑に手を合わせるため、高橋さんの母はパスポートを取り、予防接種を受け、円をドルに交換し、本土復帰前の沖縄へフェリーで渡りました。往復で2週間かかったそうです。
ふるさとから遠く離れた地で戦死し、遺骨も見つかっていない息子に対する母の気持ちを思うと、沖縄戦がもたらした惨禍の大きさを感じずにはいられません。

沖縄県糸満市

沖縄戦で兄を亡くした高橋さんは、地元の静内でアメリカ軍機の機銃掃射を受けたこともあります。
戦争がどんなものかを身をもって知っているだけに、「絶対に起こしてはいけない」という言葉には重みがありました。
高橋さんは、「自分の話が何か役に立つのなら、今のうちに話したい」と取材に応じてくれました。
戦争を体験した世代は高齢化し、直接話を聴ける機会は減り続けています。
戦争の記憶を風化させないために何ができるのか、今回の取材を通じて改めて問われているように感じました。

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