NHK札幌放送局

コーヒーに心を添えて、札幌の焙煎豆専門店の日々

ほっとニュースweb

2022年7月25日(月)午後2時57分 更新

“いかにコーヒー以外の話をするか”
オープンから2年で急成長しているコーヒー専門店が札幌・宮の森にある。最も大切にしているのは、いかに客とコーヒー以外の話をするか。自然体で会話を重ね、その人に合った味を探っていく「コーヒーカウンセリング」。コーヒーにまつわる難しいことは言わない。街の話題や流行、日々の暮らしぶりなど、店を訪ねた人は、店員の接客を受けているうちに自然とコーヒー以外の話をしてしまう。人の心をつかんで離さないコーヒー専門店の魅力に迫る。(札幌放送局カメラマン 前川フランク光)

店内に入ると火をいれたばかりのコーヒー豆の柔らかい香りが漂ってくる。
「こんにちは」
そんな香りのする店内を眺めていると、ひげをはやした優しい目の男性が話しかけてくれた。店主の川原英佑さんだ。
店を構えて僅か2年で、月に4万杯分も提供する道内屈指の人気店に成長させた。

タンザニア、インドネシア、ドミニカ、ホンジュラス。
コーヒー豆焙煎専門店「アルケミストコーヒー」の店内には世界12カ国からえりすぐりの豆が並ぶ。

自分が“一番良いな”と思って、“超おいしいから飲んでください”っていう豆しか選んでないです。」

話を聞きながらコーヒー豆を眺めていると、「飲んでいきます?」と川原さんが提案してくれた。焙煎豆販売の専門店なのに、しっかりコーヒーを飲ませてくれるのが、この店の特徴だ。

「良い豆を提供するだけではなく、店を訪れる人の心もあたためること。」
挽き立ての豆にお湯を注ぐと、再びいい香りが漂ってきた。
一般的なカフェにあるような専門器具は使わず、家庭用の道具を使いながら試飲してもらう。お店で飲んだ味をそのまま家庭でも味わえるようにする、ちょっとした工夫だ。
丁寧にお湯を注ぎ、3分間待つ。この3分間に川原流の接客が始まる。独自の“コーヒーカウンセリング”だ。

少し緊張したような面持ちのこの女性。
豆の説明を一通り済ませた川原さんは「今日は歩いてこられたのですか?」とさりげなく聞いた。出身の町のこと、進学でやってきた札幌のこと、大雪で大変だった去年の冬のこと。ぽつりぽつりと二人の会話が広がってゆく。
次第に女性の肩の力が抜けてきて、二人の会話に安心感が広がっていった。

「実は仕事の異動で、札幌を離れちゃうんです。
 今日は引っ越し作業を手伝ってくれる人にお礼のコーヒーを買おうと思って。大学から来ているので8年目で、ちょっとさみしいですよね。」

ふと、女性から自然と出てきた言葉。
川原さんは、じっと話を聞きながらできあがったコーヒーを差し出した。
「タンザニアからきたコーヒーです。焼いたオレンジのような味がしますよ。」
一口飲んだ女性の顔は、柔らかくほころんだ。

「このお店は、“いい接客で、いいお豆を出す場所”ではないと思っています。お客さんがお店に来ていただいて、買い物をするだけではなく心も充電してもらう。そのためにコーヒー以外の話をどれだけ出来るのか、心がけています。」

『オリンピック選手にはなれない。死を考えた』

美味しい豆を買ってもらうだけではいけないのか?
なぜ心を満たすのが大切なのか?
川原さんの原点には、アスリートの夢を諦めた若き日の深い挫折があった。

オリンピックに出場したスピードスケート選手の父と、フィギュアスケート日本代表だった母を持つ川原さん。テレビや雑誌で特集されているようなトップ選手達が自宅で父を囲んで食事をするような家庭で育った。

「父のように、日本の国旗をつけたユニフォームを着て、オリンピックの舞台に立ちたい。」

3歳からスピードスケートをはじめ、世界を目指すためにひらすら練習に取り組んだ。
けれども、夢が叶うことはなかった。
「世界で一番苦しいことをして、一番自分を犠牲にした人が、世界一になれる。」
高校最後のシーズン直前に自分を追い込みすぎた結果、急性腸炎で入院。その年、同級生の選手がワールドカップで4位という快挙を成し遂げた。必死にもがきながら練習してもスピードが上がらない自分と世界のトップ選手と渡り合う同級生。漠然と抱いていた「生まれ持った資質の差」をはっきりと自覚した瞬間だった。
「誰よりも練習できることが自分の一番の才能だ」と思っていた自負が崩れ落ちた。
競技の権威である父の顔に泥を塗ったと、自分自身を激しく責めた。

「選手は自分のフォームを日常的に鏡でチェックするんですけど、それができなくなった。スケートをするポーズをとれなくなったんですね。“もうだめだ”って。」

部屋に引きこもった。世界は回り続けるのに、自分は部屋の中でなにもせずにいる。
「生きている価値がない」と死を考える日々が続いた。

『自分を許す』

失意の底にあった川原さんにある日、父親の友人の経営者が電話をくれた。
「まずは自分を許しなさい。すぐに許せなくてもいいから、まずは言葉に出してみなさい。言葉が扉を開くから。」
アスリートとして、厳しく律していた自分自身を許す。
口にするだけでもいいから“生きていてもいい”と自分を許す。競技のフォームをとれなくなった鏡の前で、笑顔を作る練習から始めた。
「人にも、自分にも優しくありたい。」
人々を笑顔にする接客を学ぶため、川原さんはリゾートホテルのマネージャーとして再起した。

『コーヒーと出会う』

ホテルマンとして仕事を続ける中、ニセコのカフェでコーヒーに出会った。
羊蹄山を眺めながら飲む一杯は心が軽くなるような体験だった。

「コーヒーってすごく自由で自分らしくいられると感じて。コーヒーショップに感じる自由な雰囲気の中なら、一日中自分らしく働けると思ったんですよね。」

ホテルマンとして旅人に非日常の幸せを届ける喜びを感じる一方、人々の日常にもっと寄り添いたいと感じていた。

「お客様がチェックアウトをされるときに“ああ現実に戻っていくわ”と口にされることが多くて。もしその現実の日常がより楽しくて幸福だとしたらいいなと思って。非日常の点の幸せより、日々続く日常の面の幸せに寄り添いたいと思いました」

一人のバリスタが届ける一杯のコーヒーで、人々の日常に寄り添えるのならば。

「生きながらえたこの人生、私はコーヒーを届けたい。」

妻も背中を押した。決断しきれずにいた自分の状態こそがリスクだと思い、脱サラ。
予算なし、コネなし、夫婦二人で札幌にやってきた。
自宅の台所に小さな焙煎機を持ち込み、試行錯誤を重ねた。

【子ども達がおつかいに来る専門店】

「おつかい!」

開業して2年、二人がはじめたコーヒー豆焙煎の専門店はいま、子ども達や人々の笑顔があふれる空間となっている。

運動会に向けて練習をしている人、山スキーをはじめた人、最近子どもが生まれた人、ピアノコンサートに向けてリハーサルを重ねている人。
とめどない会話が、客と店員という関係性を取り払い、心を通わせてゆく。

「最初は何もなかったお店が、英佑くんの気持ちや、お客様の気持ち、スタッフの気持ちが入って、今はお店が“生きている”ように感じます」

妻の竹香さんは、川原さんのコーヒーをあたたかいコーヒーだと話してくれた。
美味しいだけではなく、ほっとするあたたかい一杯。

『大丈夫だよ』

かつて死を考えた自分に、川原さんは「大丈夫だよ」と声をかけたいと話す。

「アスリートの世界で報われる人は一握り。上を目指していけばいくほど、幸せは限られていく。けれども、今自分が志す道ならば、お客さんが“日本一このお店が好きです”といってくれたり、自分たちが確かな幸せを感じていれば、それでいいんです。日本一のコーヒー屋さんはいくらあったっていいんですよね。オリンピックの金メダルは世界で一つだけれど、自分にしかかけることのできない金メダルがあれば、みんなが金メダルをもらっちゃう。その方向性をすごく大事にしています。」

【理由のない幸せが一番の幸せ】

取材の終盤、川原さんが20代にカナダ・バンクーバーでホームステイをした時のことを話してくれた。
ホストマザーと家の中庭に座り、コーヒーを飲みながら何気ない会話をしていた。
そのときホストマザーが「幸せってこれよね。」と川原さんを見つめた。

幸せとは、何か利益を得たり、大きな成功を収めたときだけに感じるものではない。
心を預けられる人と、何気ない瞬間を共に過ごしているときこそが幸せなのではないか。
川原さんにとってバンクーバーは、選手時代に出場を目指していた冬季オリンピック開催地だ。その地で金メダルをつかみ取ることはなかったが、大切な物は確かに受け取った

5月に父となった。
アスリートとして歩んだ険しい道が、夫婦二人三脚で歩むコーヒーの道へとなり、やがて家族と多くの人が歩む幸せの道へと変わった。

「朝、コーヒーを飲んで良い気分になって、少しだけ自分に優しく、人にも優しくなれたら。そんな気持ちがたくさんの人々に伝わり広がっていったら良いなと思います。」

生きていると辛く苦しい時間が続くことがある。深く暗い海に沈んだ気持ちになることもあるかもしれない。けれども自分を許し、出会う人に笑顔を向けていれば、きっと道は開ける。取材者として川原さんと人々の笑顔を見て思った。

『訪れた人がカウンセリングを受ける焙煎所』

2022年7月25日

足寄町のオンネトーで出会った、大自然を目一杯楽しみながら仕事をする金ちゃんの記事はこちらです
大地と森と星を愛する案内人

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