全盲の精神科医・福場将太さん(43)。美唄駅前の小さな精神科クリニックで、17年にわたり診療を続けています。網膜色素変性症と診断を受けたのは、医学部5年生のとき。徐々に視野が狭まっていく症状に悩みながらも、患者さんと向き合い続けてきました。放送に入りきらなかった内容もweb記事でお届けします。(札幌放送局 ディレクター 堀越未生)
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心の声に耳をすませる

美唄駅前の小さな精神科クリニック。
17年間、診療を続けてきた精神科医・福場将太さん(43)です。福場さんは全盲で、診療は聴覚に頼って行っています。

福場さん:おはよう。調子どう?
患者:ちょっと寒暖差が…
福場さん:どんな感じですか?症状としては?
患者:体がだるいっていうかあたまがしゃきっとしないっていうか…
最近あつくなったり涼しくなったりするじゃないですか?その関係で
福場さん:ご飯は食べれてます?
患者:食べれてます。
福場さん:眠りのほうはどう?
患者:眠れてます。
患者さんの姿を目で見ることはできなくても、とてもスムーズにやり取りしながら、診療をしていきます。穏やかでやさしい声色、ニコニコの笑顔で、診察室は和やかな雰囲気。
診察の手がかりとなるのは、耳を澄まして聴こえる音のすべて。
話の内容だけでなく、診察室に入るときのドアの開け方や、椅子に座るまでのテンポ、声のトーンなどから、その患者さんの心の状態を耳で感じ取っているといいます。
福場さん
「声色ってなかなかね、ごまかしにくいところかと思ってます。表情や顔色よりも。声って毎回違う。トーンも違うし、抑揚も違うし。早いな、遅いなとか。言葉の選び方、前向きだな、ネガティブだな、とか全然違うので。僕の思い込みかもしれないですけど。」
診察は周りのサポートを受けながら

もちろん、医師の仕事は診療だけではなく、カルテや処方箋の内容の確認や、書類の作成など多岐にわたります。どれも視覚障害のある人にとっては簡単にできる作業ではありません。
診療の度に、看護師から患者のカルテの情報と、その日の服装や雰囲気などを読み上げてもらい、確認します。覚えておきたいことを全部メモにとっておくためのボイスレコーダーと、音声の読み上げ機能があるパソコンは手放せません。
支えられる立場で暮らして
サポートを受ける場面は日常生活でも。

この日は友人と近所のスーパーへ。
背中に手を触れながら店内を周り、棚の商品を読み上げてもらって、週に一度の買い出しです。
こうして買い物やごみ捨てなどを手伝ってもらうようになって、10年以上。
特に、雪が積もる冬は、一度外に出ると自分の居場所が分からなくなってしまい、電話で助けを呼ぶことも。友人の存在は、大切なライフラインのひとつだといいます。

お礼はアイスコーヒーで
白衣を着ているときは医師として患者を支えている立場の福場さん。
でも、病院の外では、支えられなくては生活できない支えられる立場。
そんな自分でも医師を続けていいのか、悩んできた日々がありました。
バンドに青春かける医学生 病気が分かって
東京の大学の医学部に通っていた当時、夢中になったのはバンド活動。100曲以上のオリジナルソングを作ってきたといいます。

ギターを弾く福場さん
医学生の悲哀を描いたオリジナルソング
『Medical Wars』で部内の人気を博したという
目の病気が分かったのは、医学部5年生の時。眼科の実習の担当の先生から指摘を受け、正式に「網膜色素変性症」と診断されました。
網膜色素変性症は徐々に進行していく病。すぐに全く見えなくなることはありませんでしたが、当時、暗いライブハウスは特に見えづらく、懐中電灯を口にくわえて機材の準備していたこともありました。

見えづらさを抱えながらも医師免許を取得。当初から興味があった精神科の道へ進むことを決め、就職活動することになりました。
いつかまったく目が見えなくなるかもしれない、という事情を話しても受け入れてくれたのが、美唄の病院でした。
福場さん「医師不足で困ってて目が悪い医者でもいいから来てほしいというふうに言ってくれたので。やっぱり必要としてもらえたからっていうのが一番大きいですかね。やっぱり新宿の大学病院とは全く違う世界だったので。もう地平線が見えそうなくらい野原が広がってたりとか、何かそういう全く違う世界で。逆にもう、目の病気によって人生が変わるんなら、もうとことん変えようみたいな気持ちになって。」
同じ視覚障害を持つ医療従事者の仲間と出会って
美唄に来て4、5年。想像よりも早く症状が進行し、30歳になるころにはまったく見えなくなっていました。スタッフや患者さんには悟られないように診療を続ける日々、引退が頭をよぎるようになります。
福場さん「もうパソコンの文字も見えなくなったし、患者さんの表情も見えなくなったときに、さすがにこれはもうアウトだなって思いましたね。いくら精神科医で手術とかするわけじゃないとはいえ、やっぱり精神科医は文章を書く仕事がすごく多いですし、文章を書けない読めない、患者さんの顔も見えないでは、これはちょっともう引退しかないかなと。」
そんなとき、職場の同僚がインターネットで見つけて紹介してくれたある出会いで、新たな道が拓けていきます。それは、視覚障害当事者の医療従事者が集う会でした。
「視覚障害をもつ医療従事者の会 ゆいまーる」
視覚障害の当事者の医療従事者が情報交換を行なったり、親睦を深めていこうという趣旨の下に 2008年6月8日に発足した会。代表は全盲ではじめて医師免許を取得した守田稔医師。

現在もオンラインミーティングを中心とした座談会に参加している福場さん
音声読み上げパソコンなど実際の診療に活かせる様々な工夫を教えてもらったことはもちろん、視覚障害を抱えながらも仕事を続ける仲間たちの存在そのものに大きく背中を押されたといいます。
福場さん「目が悪い医者は多分日本に僕しかいないんじゃないかと思い込んでいたので。でも普通に考えたらそんなはずなくて、いろんな事情で目が悪くなることってあり得るんで、医者も人間ですから。だから、(ゆいまーると出会って)こんなにいたんだっていうのが、まずすごく励みになりましたね。やっぱり勇気が出ましたね。」
自分にしかできないことを見つけたい
「ゆいまーる」と出会ったことで、医師の仕事を続けてみようと思えるようになっていった福場さん。
当初は、『見えない部分をどう補うか、どうしたら見えている医師と同じ医療が届けられるか』ということに気を向けてきたといいます。
医師になって17年経ったいま、目指すようになったのは、自分にしかできない医療を届けること。

5年ほど前から企画しているのは、得意のギターを使って患者と合唱しながら交流するプログラムや、患者同士が語り合う就労支援の勉強会。
自ら診察室を出て、患者との接点を増やす機会を増やしてきました。
今では、診察の中で自分が目が見えていないことを明かすこともあります。
支える立場も、支えられる立場も、どちらも経験している自分だからこそ、伝えていることがありました。
福場さん
「やっぱりこういう病院に来てる方々、苦しさ、何らかの苦しみとかつらさがあって、分かってほしいっていう願いの人が多いんですよね。でも、なかなか分かってもらうってね、簡単なことじゃないし、自動的にはやっぱり伝わらないのが当たり前だと思うから。でも、分かってほしいばっかりにとらわれず、やっぱり相手を、だからこそ分かろうとしなくちゃいけないと思うんですよね。
どうしても自分に余裕がないときって、なかなか相手を分かろうとする余裕って持てないけど、分かってもらいたいなら分かってもらえるように自分も動かないといけない。実体験としてね、僕の実体験としてやっぱり伝えられる気がするんですよね。
仮に、いや、先生は健康だからそういうふうに言うんですよって言われても、いや、実はって、言えますしね。」

一日の終わりに

一日の診療が終わった後、誰もいなくなった病院の待合室に、ギターを持った福場さんの姿が。
目が見えなくなったことをきっかけに、作曲をしたというオリジナルソングが聞こえてきました。

病院でひとりギターを弾くのは美唄に来てからの大事な時間
終わりの中の始まり
作詞・作曲・編曲:福場将太
どう考えても 考えても
無理があった生き方なのに
生きてる 生きている
もうあきらめて あきらめて
消えなかった悔しさだから
負けない 負けてない
(中略)
どうだい どうだい 新しい人生は
どうだい どんなもんだい
誇らしいかも
どう考えても 考えても
無理があった生き方なのに
生きてる 生きている
生きていける
