「楽しい島だし、裕福な島なんだよ。のりはとれるし、サケマス、昆布。もう船が沈むくらい魚を積んでいくんだよ」
函館市に住む一戸幸雄さん(91)は生まれ育った北方領土・択捉島の思い出をそう語ります。
76年前、船に乗せられた一戸さんは「故郷の島を見るのも最後だ」と思いながら択捉島を離れました。元島民の記憶と思いをたどります。
(函館放送局 毛利春香)
楽しい裕福な島
一戸さんは択捉島の留別村で生まれ育ちました。
祖父と父が島で漁業をしていて、夏は漁場を遊び場にしていました。
盛んだった漁業の様子もよく覚えていると言います。

「冷蔵船がやってきてはもう沈むくらい魚を積んで、それでまた次々来るからね。沈まないでまた来たんだなと思っていたよ。すごいときは海が盛り上がったように見えるほど魚が陸めがけてきて、川に入っていく。川に行ったら魚につっかかって進めなくなるくらいだった。漁場ではカニとったりウニとったり魚釣りをしたりして遊んでいたし、島の各地をまわる船に乗せてもらって友達が来たり、友達のところに遊びに行ったりしていた」

一戸さんにとって択捉島は「楽しくて裕福な島」。しかし、過ごしたのは16歳まででした。1945年、終戦を迎えたあと旧ソビエト軍が上陸したからです。
自宅はソ連軍に取り上げられ、両親と兄弟の9人家族は家の裏にあった蔵で生活を始めます。そして、草刈りや漁場などでの仕事をさせられるようになったといいます。
一戸さんは旧ソビエト軍が来た時のことも覚えていました。

一戸さん
「外国人は大きいなあとまず目についた。いろいろな顔をした人がいて、ロシア語がわからない人もいた。不安と言うよりもね、家の中に土足で入って来て、『この野郎』と思ったな。すると、時計をさして眠るようなしぐさをする。そのあとピーっと口笛を吹いて『出て行け』という風に身振り手振りで伝えてきた」
村では旧ソビエトの人たちとの暮らしが始まります。
一戸さんは野球のルールを子どもたちに教え、チームを分けて一緒に試合をしていたといいます。相手は体が大きく投げ方も打ち方も知らないのに、当たればすぐホームランになったそうです。
ほかにも、スキー板やストックをあげると喜ばれたこと。洋裁が得意な一戸さんの姉が着物でつくった洋服が将校の妻たちに喜ばれ、白いパンやバターをもらったこと。酒に酔って暴れる兵士を隊長が引っ張り出していったこと。気性の荒い馬でも旧ソビエトの人たちはあっという間に乗りこなしていたこと・・・。
さまざまな交流があったと言います。
一戸さん
「来てしまっているから、一緒に暮らすんでしょうがないでしょ仲良く。役場が娯楽の場所になって映画や舞台が開かれたり、コサックダンスを見たりした。仕事も時間になるとソ連の人たちはやめるので、強制労働ということは感じなかったかな。魚がとれすぎると仕事が増えるから、とるなと言うソ連の人もいた」
その後、1947年に強制的に日本への引き揚げが始まり、一戸さんは函館の叔母の家に身を寄せました。

「行けと言われてどうにもならなかった。残っていたいと言ったってだめだということでしょう。もう占領されるのか、一生来られないのかと。親父もそういう感じだった。真っ赤にさびた大きな船が来て、だーっと人を乗せて。船のふちには階段がついていてそこにのぼって島を、最後の島を眺めていた。ああこれでもう終わりかなと思って」
かなうなら もう一度故郷へ

一戸さんは2016年、およそ70年ぶりに択捉島の地を踏みました。
建物は残っていませんでしたが、山や川、自然の景色は変わっておらず、当時の暮らしがよみがえったといいます。その後も数回、島へ足を運びました。
しかし今、新型コロナやウクライナへの侵攻の影響で択捉島を訪れる見通しはたっていません。
一戸さんは今年92歳になります。年を重ねる中で体力的にも厳しく、訪問への諦めの気持ちも生まれてきたといいます。
それでも択捉島での思い出を楽しそうに話す一戸さんに、故郷への思いを重ねて聞くと、こんなことばが帰ってきました。
一戸さん
「美しい自然をそのままに、あまり開発しないまま住めるようにしておいてほしいね。かなうなら死ぬまでにもう一度行きたいし、返してもらいたい。でも体がいうこときかなくなってきているから。それでも行けるなら行きたいなと思って頑張ってるんだけど」

択捉島の記憶が次の世代につながり、いつか自由に行き来できるようになってほしいと願っています。
2023年2月9日

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