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あの日の詩は今も~北海道南西沖地震30年

  • 2023年7月28日

1996年に発行され、現在は絶版となっている詩集『駆け抜ける夏』。 北海道南西沖地震から30年が経った今年、偶然図書館で出会った。(取材・文 NHK函館放送局 ディレクター 岡 勇之介)

詩集には、奥尻島に壊滅的な被害をもたらした、未曾有の災害を経験した子どもたちの詩が収められている。詩は、子どもらしい表現でつづられているものの、彼らが当時経験したことと、それに対する恐怖、悲しみ、そして希望が鮮やかに表現されていた。
当時島では、児童にネガティブな感情を抱え込ませないように、作文や詩を書かせる取り組みがされていたという。

詩集を編纂したのは、奥尻島出身の詩人、麻生直子さん。
地震当時は東京都に住んでいたものの、故郷のためになにかできないかと、奥尻島に通うようになった。
そうしたなかで、子どもたちが詩を書いているということを知り、詩集『駆けぬける夏』にまとめた。

麻生さんはいまも東京に住みながら、詩人として活動している。
『駆けぬける夏』について詳しく聞きたくて、ご自宅を訪ねた際、麻生さんは地震の詩集を「ポエムドキュメント」と表現した。麻生さんが詩集をまとめ上げるまでに、6年間島に通い、詩を通じて子どもたちと触れ合った。詩集のなかには、麻生さんが子どもたちとの詩の創作会を通じて生まれた作品もある。その年月のなかで、島の復興が進むにつれて、子どもたちの変化とともに、詩の変化を感じていた。

たしかに詩集を読むと、被災直後から段々元通りになっていく奥尻島が、子どもたちの視点から感じ取れ、詩でドキュメント(記録)されている。では、その詩集の続き、30年経ったいま、詩を書いた子どもたちがこの30年をどう生きて、いま何を思って暮らしているのか、会ってみたくなった。

詩を書いた子どもたちはいま―

まずどうしても会ってみたかったのが、
当時小学6年生で被災し、40歳だった父を亡くした大須田洋介さんだった。彼が書いた詩だ。

お父さん元気か
おれは元気だよ
お父さんの時計 だいじにはめてるよ
この時計はめて
お父さんは
つぶかごのあみをなおしたよね
「洋、ひももってこい」といって
おれに手伝いをさせながら・・・
家でひるねする時も はめてたよね
だけど今は お父さんののこしていったこの時計だけ・・・
つぶかごから帰る時間になっても
お父さんは 来ない
だからおれはさびしい
かっぱを着て しおをかぶって
かみがぬれたお父さん
元気にわらって帰ってきて
みんなまってるから早く帰ってきて

初めて奥尻島を訪れたとき、車を借りたレンタカー屋さんに聞いてみると、大須田さんは知り合いの知り合いだという。島の人々はみな、見知った間柄なのだ。

大須田さんは、島で唯一の介護施設で働いていた。
高校卒業後島を出たが、結婚を機に島に帰ってきたという。
父が亡くなった青苗地区の近くで、妻と息子、娘と暮らしていた。

詩を読んで一番気になっていたこと、それは亡くなった父の形見である時計の行方についてだ。
亡くなる少しまえに漁師だった父が買ったもので、水深200mまで耐えられるというダイバーズウォッチだったらしい。

「どこかいっちゃった(笑)」

大須田さんはあっけらかんと答えた。意外だった。

「まだ自分は小学生で、はめたけど全然ぶかぶかで入らないから、大きくなったらつけようかなって。でもいつだったか、気づいたらなくなってて。でも思いはあるからね。」

大須田さんの言葉は、30年という月日の長さを象徴しているように思えた。
震災後、大須田さんが中学生になる直前に書いた詩だ。

『ぼくは』
ぼくは 二人の好きな人がいる
いつも やさしい笑顔の母
ときどき こわかった父
でも あの日から父は
いなくなった
地震と津波のために・・・
海で仕事をしていた父
ぼくを はげましてくれた父
おこるとこわかった父
父が いなくなって
かなしい日やさびしい日もある
ぼくは 中学生になる
どんなことがあっても
父にまけず
母にやさしく
ぼくはがんばる

大須田さんにとって、この30年はどういう時間だったのか。

「ただ普通に暮らしてる。普通に過ごしてる。何もなかったかのようにとは言えないけど、みんなと変わりなしに暮らしてるって感じかな。」

津波で全壊した稲穂小学校

大須田さんが通っていた小学校は、島の北にある稲穂小学校。
現在は閉校し、校舎は町の資料館として活用され残されている。
当時、稲穂小学校には10人の児童が通っていた。児童と先生方は奇跡的に全員無事だった。

稲穂小学校は、津波で被害を受けた唯一の学校で、全壊。1年後に建て直されて、現在残っている校舎になった。
10人の児童は、地震があった年から5年間詩を書き続けた。地震と津波への恐怖をつづった詩だ。

『南西沖地震』
今日は なぎいいな
明日は いい天気になるかな
でも おまえはぼくをおどかした
ドドド・・・という音と
はげしいゆれ
ばくは びっくりして 目がさめた
ふとんの中に小さくなっていた
さっきよりはげしいゆれになった
ぼくたちは 山へ逃げる
だが おまえたちにつかまってしまった
ぼくの家族 他の人たちも
必死に逃げた
だが 助からなかった人もいる
逃げるとき ぼくたちはスピード違反した
津波もスピード違反した
でも 津波はもっと速かった
ぼくは おまえのこわさをしった

『私たちのかよった学校』
お父さんのほかの人もかよった学校
おにいちゃんのほかの人もかよった学校
中学校のえり子さんのほかの人もかよった学校
私たちが通った学校
つなみでグチャグチャになった学校
こわかったでしょう
さびしかったでしょう
さむかったでしょう
ふるい学校がよかったのに
つなみのあほ

地震から日が経つにつれて、詩は少しずつ、子どもたちの覚悟のようなものがつづられるようになっていく。

『つなみ』
グラグラドドドドー
つなみがまるでかいじゅうのように
おそってきた
そのかいじゅうはぼくのいえ
友だちのいえそしてぼくたちの学校を
ふみつぶしてしまった

そのかいじゅうは口から炎をはき出して
青苗をやきつくしてしまった

そのかいじゅうはまたくるかもしれない
その時ぼくはまたいっしょうけんめいにげる
生きていればまたうちも学校もたてられるから

やい かいじゅう ぼくはぜったい
まけないぞ

『つなみ』
つなみなんて もうこわくない
もしつなみがきても
がんばっていきるぞ

つなみなんて もうこわくない
もし つなみにのみこまれても
手や足をうごかして
いっしょうけんめいおよぐぞ

つなみなんてもうこわくない
もうつなみがわたしのへやをながしてしまっても
わたしは 金づちとくぎをもって
じぶんのへやをたてなおすぞ

『これからのわたし』
ガターン ゴトーン・・・
悪夢のような災害
思い出すたび
わたしはためいきをつく

それから二年

ゴトガタ ダダダダダ・・・
工事のつち音がひびく

クレーン車が鉄きんをつりあげ
ユンボ―が土を盛る
ダンプがひっきりなしに土を運び
ミキサー車がコンクリートを運ぶ
土盛りの上には 新しい家が建ってきた
学校もあたらしくつくりかえられた

お父さんは砕石場で
お母さんは加工場で
一生懸命働いている
だから
私も勉強や運動をがんばるぞと思う
地震でなくなったひとたちのためにも
私たちの町・奥尻を大切にして
生きていきたい

『ぼくの奥尻島』
あの夜
思い出すたびに恐ろしくなる
津波があった
その時のことを思い出すだけで
ぼくの歯はかたかた鳴る

それから二年の歳月が過ぎた
島の様子もがらりと変わった
土盛りの上には
ぼくたちの新しい学校と新しい家が建ち
防潮堤の工事が始まった
ユンボ―はいそがしく土を盛り
ダンプがひっきりなしに土を運ぶ
復旧のつち音が大きく響く
工事の人達のひたいに汗が光る
ぼくも勉強や運動を頑張らなくては思う
悲しんでばかりはいられない

ぼくの家も新しく建つ
ぼくらの稲穂も大きくかわるだろう
どんなに奥尻島が変わろうが
ぼくは この地で立派な漁師になりたい
そして
奥尻島が昔のように
魚がたくさんとれ
緑でいっぱいの島にしたい

『私の願い』
奥尻の復興が見えてきた
ダンプがたくさん走っていく
通るたびに家が揺れ こわれそうだ
まるで地震のように
通学のときクレーン車やダンプが
私たちの横を通りすぎて行く
一年生の通学が大変だ

でも あの時はもっと大変だった
ゴー グシャグシャ
津波で稲穂じゅうの家がこわれた
私は 立ち直れないくらい
すごいショックを受けた

でも今は稲穂に新しい家が新築されてきた
学校も新しくなった
草や木も緑をいっぱいにし
生き生きしている
青い海に漁船も増え 活気が出てきた
あと何年で元の島に戻るのだろうか
将来の奥尻は地震の前より
立派になっていてほしい
何年か後の奥尻は
地震に『あっ』といわせる
奥尻になってほしい

あの日から30年 世代を超えて受け継がれる島

「私の願い」を書いた、福野由紀子さんは、いまでも小学校の近くに住んでいる。
島で社会福祉士をしながら、2人の男の子の母親になった。
毎年夏になれば、津波と同じ高さの防潮堤の下で磯遊び。2人の息子は海が大好きだ。長男の蒼斗くんは小学4年生。福野さんが地震に遭った年頃だ。
次男の絢斗くんは、5歳。島で漁師になることが夢なのだという。

『南西沖地震』を書いた、桜花和馬は島で欠かせないバスの運転手だ。
今年、稲穂岬の賽の河原で開かれる、亡くなった人を供養する祭りで、灯篭を海に流す役目を担った。

灯篭流しは、100年以上つづく稲穂地区の伝統で、古くは海難事故や水子への鎮魂、30年前からは南西沖地震の犠牲者に対する祈りも含まれるようになった。
灯篭流しを終えた桜花さんは晴れやかな顔で語った。

「こうやってみんな海にかえっていくんだなって。自分もいずれ誰かにこうやって祀られて流されるのかなって。やっぱり海の近くで育ってるから、海にかえりたいって気持ちが強いんで。津波を受けてる身ではあるけど、そんなに恐怖とかなくて、やっぱり海に世話になってきたし、海にかえるのかなっていうのがあると思います。」

未曾有の災害を経験し、壊れてしまった島で生き延び、島の再生とともに成長し大人になった子どもたち。
いま彼らは、地震や津波のこと、それよりずっと前から大切にされてきた島の伝統、生活、誇り・・・それら全てを糧にして生きてきたのだろう。
これが、この30年が奥尻島にもたらしたものなのかもしれない。

NHK函館放送局トップページ
https://www.nhk.or.jp/hakodate/
南西沖地震30年ポータル
https://www.nhk.or.jp/hokkaido/articles/slug-n065475eecb4a

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