NHK札幌放送局

外科医が農家になりました #十勝農業放送局

十勝チャンネル

2021年5月12日(水)午後5時34分 更新

今年度からNHK帯広放送局では「十勝農業放送局」という新たなプロジェクトをスタートしました。日本の食を支える十勝の農業を多角的に取材し、農業の未来図を考えていきます。2回目のテーマは「新規就農」です。

十勝には新規就農を希望する人を積極的に受け入れている町があります。
その町とは本別町。
そこに、少し変わった経歴を持つ新規就農者の男性がいます。

男性が畑作農家になる前に務めていたのは、なんと医師。

文字通り“畑違い”の世界に飛び込んだ男性の挑戦を追いました。

(NHK帯広 原祢秀平記者)


外科医が畑作農家に!?

本別町の畑作農家、荒井陽介さん(42)。
取材に伺ったのは4月下旬、ビートの苗の植え付けのため昼夜問わずに作業を行っていました。

慣れた手つきで農作業をこなしているように見えますが、3年前に本別町に移住してきた新規就農者です。

畑作農家になる前の職業は、なんと「医師」。
岡山県で生まれ育ち、手術で患者の命を救う外科医に憧れて医師の世界に飛び込みました。

難易度が高いすい臓がんの手術を担当する消化器外科医として、鳥取県の大学病院などで10年以上にわたり医療の最前線で活躍を続けていました。

手術は多い時で週2回行い、最長で20時間に及ぶものも。
月に10回程度の当直や土日に外来の診察も行うなど激務をこなす日々でした。

荒井陽介さん
「人の命を預かって手術をするということは責任ある仕事で、なかなか経験できることではありません。

大きな手術が終わった後はもちろん疲れもありましたが、充実感や達成感がありました」

人の命を救う外科医の仕事にやりがいを感じていた一方、別の世界への憧れも募っていきました。それが農業だったのです。

荒井陽介さん
「外科医として働いている時から、ふと街で工事現場で働く男性を見たときに、力仕事に対して惹かれるものがありました。

今から考えると、普段日光を浴びずに室内で仕事をする医師の世界とは逆の世界への興味があったのかもしれません。

テレビで外国の大規模農家の畑の空撮映像を見て、先が見えなくなるほど広い土地で、大きな機械を使って作物を育てていくということに漠然とした憧れを抱くようになりました。

もちろん医師として最後まで1つの仕事を突き詰めてやっていくのもきれいな形だと思いましたが、どうしても、もう一度、一から新しいことにチャレンジしたい、まだ知らない世界を見てみたいという気持ちが湧き出てきました」


新規就農には大きな壁が…

畑作農家への道を考えるようになった荒井さん。
広い畑で農作業をするなら北海道、その中でも十勝だと考え、十勝での新規就農を目指しました。

しかし、畑作への新規就農には大きな壁がありました。

荒井陽介さん
「今は新規就農に前向きな時代だとは思いますが、新規就農を募集しているといっても、大体は野菜や施設園芸を勧められることが多く、実際に“畑作をやりませんか?”と言ってくれるところはほとんどありませんでした」

農地の大規模化が進む十勝。
離農する農家の畑は近隣の農家などからすぐに買い手がつくため、空いている畑はほとんどなく、畑作で新規に就農するのは極めて難しいのが現状です。

道の調査によると、離農する農家の農地の中で、農家に引き継がれた農地のうち、およそ94%は認定農業者に引き継がれています。
つまり、新規就農者が参入できる土地はほとんどないということになります。

(令和元年 離農農家の保有農地の権利移動状況調査結果より)


本別町の担当者との出会い

希望する畑作への就農に難しさを感じていた中、親身に相談に乗ってくれたのが移住による新規就農に力を入れている本別町の担当者でした。

本別町は農業の人手不足や後継者不足を解消するため、新規就農者を町外から募ろうと、2015年から東京や大阪で、就農希望者向けの説明会を開いていました。

荒井さんはその説明会で本別町の担当者に出会い、「タイミングさえ合えば畑作での新規就農も可能ではないか」とアドバイスをもらい、町からの連絡を待つことになりました。

待つこと1年。町から連絡が届きます。
後継者がいない町内の農家の農地などを「第三者継承」の形で引き継ぐことを提案されたのです。

荒井陽介さん
「思ったより早く連絡が来たのでうれしかったですが、心の準備が追いつかず、少し迷いがありました。
いざ医師を辞めると考えると惜しい気持ちも少しはありました。

でも、やっぱりこの機会を逃したらもう就農することはないだろうと考え、本別町に移住して畑作農家になることを決意しました」

病院の同僚たちに話すと、最初は驚いていましたが、農業にかける思いを理解し、後押ししてくれました。


地域に支えられて

3年前の2018年3月、39歳で外科医から畑作農家への転身を決断。
妻の美代子さん、長女の花ちゃん、長男の麻くんと家族4人で本別町へ移住しました。

北海道には縁もゆかりもなく、農業については全くの初心者です。
寒い気候に慣れ、農作業や農機具の名前を覚えるところからのスタートでした。

町や農協、道の支援を受けながら、農家のもとで2年間の研修を受け、一から農業を学びました。

そして、去年、独立。
いま、22ヘクタールの農地で、小麦、豆類、ビート、飼料用トウモロコシを栽培しています。

農家として歩み始めたばかりの荒井さんが頼りにしているのは、地域の先輩農家です。

ビートの植え付け作業を控えた4月下旬、実際に先輩農家に作業を見せてもらいながら、作業の工程や植え付けに使う機械の整備についてアドバイスを受けました。

友人の農家 小泉大佑さん
「率直に、最初はすごい人が来たなと思いました。
医者が農家?という感想が一番でした。

荒井さんが本別町に移住して来た当初からずっと付き合っていますが、人一倍勉強しているし、事前準備が誰よりもしっかりしているから何にでも対応できています。
たまに失敗もありますが、みんなで一緒に考えながら乗り越えています。

取り組む姿勢も真面目で、長く農業をやっている人も見習わないといけないくらい真摯に農業に向き合っているのではないでしょうか」

研修中に住んでいた家が偶然隣だった縁で、小泉さんには、ビートの栽培方法を一から教わり、今では家族ぐるみの付き合いになりました。

荒井陽介さん
「小泉さんのように身近に相談できる農家がいて心強いです。
親身になってくれるので困ったら連絡しています。

最初は農家の常識が何も分からなかったので、普通にしゃべっているだけで発見があって、ずいぶん勉強になりました」


外科医の経験を生かして

日々農家からもらうアドバイスを生かすため、ある工夫にも取り組んでいます。
荒井さんがパソコンで作っているのが独自の作業工程表です。

季節ごとの作業のポイントや農薬を使う時期、どんな病気に気をつけなければいけないかなどを細かく書き込んでいます。
これらは農家にとっては当たり前のように体に染みついていますが、新規就農者の荒井さんにとっては感覚では分からないものです。

研修で学んだことや農家からのアドバイスを細かく記録している荒井さん。
記録する習慣は外科医の時代から培われたもので、カルテや手術の記録を作っていた経験が今に生かされているのです。

友人の農家、小泉さんも評価していた「事前準備」の秘密がここにありました。

外科医の経験は記録だけでなく、普段の農作業にも生かされています。

荒井陽介さん
「外科医の時は、この人はどうして具合が悪いのか、どうすればよくなるのか、どうすれば手術がうまくいくか、常に原因を考える習慣がありました。

農業でも同じように、うまくいかないことがあると原因を突き詰めて、次は失敗しないためにはどうしたらいいか、今年はどうすればうまくいくかを考えています」


一家を支える父として

新規就農から2年。生活は外科医の時代とは一変しました。
以前はなかなか持てなかった家族との時間も増えています。

妻 美代子さん
「夫がずっと家にいるというのが一番の変化です。親が働いている姿を近くで見られるので、子どもにとってはいいことだと思います」

こう話していた妻の美代子さんも、夫を応援するため、自らも一から研修を受けて、農作業を手伝っています。

荒井陽介さん
「前は子どもが起きている顔を見ることが少なかったので、いつの間にか大きくなってた感じがしていましたが、今はちょっとずつの成長を毎日見ることができています」

荒井さん一家が大切にしているのは家族4人での会話です。
子どもたちと話したり、遊んだり、時には怒ったり。
そのような当たり前の日常に喜びを感じ、荒井さんは2人の子の父としても奮闘しています。


畑作農家として

家族や地域の支えを受けながら農家として歩み出した荒井さん。
畑作農家として過ごす毎日には新たな発見があふれているといいます。

荒井陽介さん
「1年を通して農作業をすると広い畑の景色が一気に変わる時があります。

作物が育って一面緑になったり、収穫して作物がなくなると違った景色が広がったり、それを整地して平らにするとまた景色が変わったり。

当たり前のことかもしれませんが、自分がこの広い畑の景色を変えていると実感する時、大きなことをしている気がして楽しいです」

荒井さんが目指す農業とは…

荒井陽介さん
「本別町の人たちみんなが優しく受け入れてくれていて非常に感謝しているので、最終的には町のために手助けができたらいいなと思っています。
畑作の王道を目指したいです。

将来は子どもに『継ぎたい』と言ってもらえる農家になるのも目標です」
【取材を終えて】
初めて荒井さんとお会いした時、荒井さんはハウスの中でビートの苗の様子を見ていました。「初めまして」とあいさつしてくれた男性は、土で汚れた作業着がなじんでいて、外科医だった面影は感じられませんでした。

真剣なまなざしで生き生きと農作業を行う姿を見ると、すっかり農家の顔になっていて、3年間農業と向き合ってきた月日を感じました。

取材する中で荒井さんが何度も口にしていたのが、まわりの人たちの支えに対する感謝の言葉でした。新規就農は周りのサポートがあってこそ実現するものだと思います。

さらに新規就農への支援が広がり、荒井さんのようなさまざまなバックグラウンドを持った魅力的な新規就農者が、十勝に増えることを期待しています。

2021年5月7日放送


これまでの取材報告はこちら

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