十勝・足寄町。
広大な牧草地に佇むチーズ工房で、職人は牛乳を銅釜で煮詰める。
工房の外に目を向けると、酪農家が夏草の茂る大地で牛追いをしている。
酪農の原風景ともいえる空間で生み出されたチーズは去年、世界で最も権威のあるコンテストで、日本勢として唯一最高ランクに輝いた。
「足寄町でしか作れない牛乳で、世界で一番おいしいチーズを作る」
飼料価格の高騰や生乳の生産抑制などで厳しさを増す北海道の酪農。
世界で評価を得たチーズは輸入飼料などに頼らず、大地の恵みと職人たちの情熱によって生み出されていた。
銅釜でチーズをつくる職人
足寄町の西部、茂喜登牛地区の牧場の一角に本間幸雄(ほんま・さちお)さんのチーズ工房がある。大きな銅釜を直火で熱するヨーロッパの伝統的な製法で、直火による焦げ目がキャラメルのような味を作り出すという。

銅釜の前で作業する本間さん
銅釜を使う一番の理由は「なんだかかっこいいでしょ」。本間さんはふいに少年のような笑顔を見せて、銅釜とまた向き合った。
本間さんの作るハードチーズ
本間さんが作るのはハードチーズ。牛乳を加熱・圧搾し、長い熟成期間を必要とするチーズで、硬く濃厚なうまみが特徴だ。このハードチーズの中でも、本間さんはフランス発祥の「コンテ」という種類のチーズをモデルに製造をしている。

数か月から1年ほどの長期の熟成を経てナッツやコーヒーのような複雑なうまみが生まれる。フランス東部にあるジュラ山脈の長く厳しい冬を乗り越えるために作られている大型のチーズで、その歴史は1000年以上にもなる。現在では、「世界のスタンダードチーズ」の一つとされ、よりよい味を求めて世界の職人がしのぎを削る。
本間さんの作るチーズは、世界的な権威があるイギリスの「ワールドチーズアワード2022」で、4000品以上から上位98品のみにおくられる世界最高ランクのスーパー金賞に唯一日本勢として輝いた。熾烈な競争があるハードチーズで、ヨーロッパにはない麹や味噌のような独特な風味が特徴の本間さんのチーズが世界的な評価を受けた。

「ワールドチーズアワード2022」トロフィー(左)
本間さんは長野県茅野市出身。八ヶ岳の麓にある自然豊かな場所で育った。高校2年生の時に岡山のチーズ職人・吉田全作さんのドキュメンタリーを見た。職人が牛を育て、その搾りたての牛乳を使うチーズ作りの魅力を知り、自身の道を決めた。

本間幸雄さん
早速、吉田さんに弟子入りの手紙を送るが、断られてしまう。しかし、返事には「牛のことから学ぶといい」とあった。本間さんは、新得町でチーズを製造している牧場で酪農とチーズ作りを学ぶことにした。
答えは牛乳にあった
チーズ作りを学ぶ中で本間さんは、大切なのは「牛乳」だと気がついた。そこで道内の酪農家を訪ね歩き、牛乳を分けてもらっては試作を重ねた。なかでも気になったのは放牧酪農家が分けてくれる牛乳だった。牛乳には「土地の個性」が詰まっていた。放牧牛は、大地にはえる牧草を食べて育つ。牛が食べる草によって牛乳の味が変わり、さらには、チーズの味わいや風味を大きく変えると本間さんは感じた。
探求の果てに迎えた出会い
酪農家に牛乳を分けてもらおうと、本間さんは足寄町にある「ありがとう牧場」を訪ねた。牧場を運営する吉川友二(よしかわ・ゆうじ)さんは、20年ほど前にニュージーランドで放牧酪農を学び、足寄町で自らも実践してきたパイオニアだった。

牛と吉川友二さん
吉川さんの放牧酪農に対する情熱もさることながら、牛乳は群を抜いて味がよかった。
「吉川さんの牛乳なら、きっとすごいチーズが作れる」
そう直感した本間さんは、吉川さんの牛乳でチーズを作ろうと決心した。
世界に誇るチーズの“命”である牛乳
吉川友二さんの牧場は、70ヘクタールの敷地に110頭ほどの牛がいる。東京ディズニーランドより広い、広大な牧草地で牛が自由に牧草を食べて育っている。吉川さんは牛乳に牧草の風味が凝縮されているという。
吉川友二さん
「自分の放牧酪農の牛は草を食べて牛乳を出してくれるから、野菜ジュースと言っているんだよね。おいしいだけじゃなくて人間の健康にもいいんですよね。放牧酪農の牛乳って。本間君がおいしい係、私が元気係」

吉川さんは牛の幸せを追求した先には、人の幸せもあると話す。
日本の酪農は、一頭の牛からなるべく多くの牛乳を搾るために、穀物を含んだ配合飼料の導入や牧場の大規模化を進めてきた。しかし、牛乳の消費量が落ち込んだ上に、新型コロナやウクライナ侵攻によって、飼料価格も大幅に上昇した。さらに農林水産省の調査によると、酪農家の戸数は過去20年間で半数に減っている。酪農を取り巻く厳しい状況が続くなか、牛乳の供給を維持するために少ない人間が長時間働き、多くの牛からできるだけ多くの牛乳を搾る構造が常態化してしまった。
吉川さんは、こうした状況だからこそ放牧酪農の可能性に目を向けてほしいを話す。
牧草地に牛を放牧することで、大規模酪農では必要となる牧草の収穫やふん尿の処理に必要となる機械も最小限にできる。牛の世話にかかる手間を省き、自然のままに飼うことで人の労働時間も減らすことができるという。
さらには、放牧酪農は牧草地の維持にも役立つ。吉川さんの牧場がある土地は山や谷が多く大きな岩もあり、大型機械を使うことができない耕作放棄地だった。そうした土地でも牛を放つと、笹などが減り牧草地に置き換わっていく。特別な機械で耕す必要はなく、牛が雑草を食べながら土をならして、牧草の種をふんや尿で大地に戻すことで、牧草地が自然と広がっていく。

吉川友二さん
「農業の基本は、自然の力を最大限に引き出すこと。放牧をしていると牛の偉大さが本当によくわかる。牛を放牧している限り、牧草地を耕す必要はない。牛たちが土地をならして、種をまいてくれるから」
夏はチーズ作りの最盛期
牧草が生い茂る夏は牛の乳量が多くなり、夏はチーズ作りの最盛期を迎える。牛はたくさんの種類の草を食べ、牛乳の風味も豊かな味になる。搾乳所から5分ほどの場所にあるチーズ工房へ生乳を運び、銅釜へ注ぐと本間さんのチーズ作りが始まる。

牛乳から水分を抜いて型にはめたチーズ
チーズ作りでは原料の牛乳から水分を十分に抜くことが最も重要な作業となる。
銅釜で牛乳に熱を加え、乳酸菌や酵素などを入れ、水分をとり除く。500kgほどの牛乳が、40kgほどに濃縮される。
指先の感覚を研ぎ澄ます
この行程の中で繊細な技術を求められるのが、乳酸菌や熱の作用で固まり始めた牛乳から水分をとりのぞくために、米粒ほどに細切りにする工程。指先の感覚を研ぎ澄ませ、切り込みを入れるタイミングを見極める。

本間幸雄さん
「水分のコントロールはここが最後だから。牛乳が固まったときは、表面を指でなぞったときに、“スー、ピタッ”と指に抵抗が生まれて止まるんだよね。ここでチーズのすべてが決まると言っても過言ではない」
この夏、北海道では暑い日が続いた。取材をしたこの日も足寄町では36度を超える猛暑日だった。本間さんは牛乳の固まり具合がいつもより柔らかいことに気がついた。暑さで酵素がうまく働かず、水分が抜け切らないためだ。そのため、固まり始めた牛乳を傷つけないように、均一な大きさを維持しながらいつもより細かくチーズを刻んだ。

米粒ほどに細切りした牛乳をチェックする
本間幸雄さん
「ほぐれ方もすごく細かい。水分があると細かい玉がいっぱいになる。きれいな粒にもどらないんだよね」
放牧される牛から搾られる牛乳は、天候や牛の健康状態などによって質が日々変化する。
本間さんは手のひらなど感覚を研ぎ澄ましてわずかな変化を見逃さず、最良の方法でチーズを作る。
他者の幸せが自分を導く
本間さんはチーズ作りで一切の妥協をしない。その原動力はどこにあるのか。
手がかりは、本間さんが高校2年生の時にチーズ職人の吉田全作さんからもらった手紙にあった。

チーズ職人の吉田全作さんからの手紙
「困難を避けていたら、いい仕事はできない」
本間さんはチーズ職人として足寄町で歩みを始めてことしで10年目の夏を迎えた。順風満帆な道のりではなかった。思い描くチーズを作ることができず、「なぜこんなにおいしくないチーズしか作れないのか」と苦悩する日々があった。それでも、本間さんの熱意を信じてくれる酪農家の吉川さんやチーズを購入してくれる人たちの存在が支えとなっている。

本間幸雄さん
「他者の幸せが自分を導く。何者でもなかった自分を支えてくれた人のためにもチーズを高めたい」
自分を信じてくれた人がいたからこそ今がある。その人たちにチーズを通して感動と幸せを届けるために、力を尽くしたいと本間さんは語る。
“ありがとう”と“しあわせ”をとどける

本間さんのチーズのほか、道産4種類のチーズを使ったピザ
本間さんのチーズを目当てにたくさんの客が訪れる店がある。
オホーツクをはじめ、道内の旬の食材が集まる北見市の洋食店では、3年前から本間さんのチーズを料理に採用している。食材のうまみを引き上げてくれるチーズは、メニューに欠かせないという。

洋食店店長 加藤誠さん
「おいしいチーズと食材の相乗効果でウチのメニューが成り立っています。野菜はもちろんですし、パスタやピザに使ったり肉と合わせてみたりとか。チーズの中に、甘みや辛味、香ばしさや苦味があったり、いろんな味のバランスが保たれています。本間さんのチーズを食べると、お客さんはやっぱりいい顔をします。本当にいい笑顔で、これはすごいねと。声高らかに喜ぶと言うよりはうなずくという感じ。うまみの余韻が長く、2 ~3秒後にぐっと体が喜び始める。そういう素晴らしさがあるのかと思います」
店には、遠軽や網走など北見市外からも本間さんチーズを求めて客が訪れる

「香りがよくて、後味もすっきりしていて、くどくない。プレゼントで人に送ったり、入荷があったらよく買いに来ます」
店で料理を食べた後、家族のためにチーズを買って帰る客も多い。
土地の個性に翻弄された“ここでしか作れないチーズ”を

取材をしていたある夜、本間さんは吉川さんとチーズ作りについて話し始めた。
本間幸雄さん
「やればやるほど、ちょっとした気づきがある。毎年、吉川さんの夏の放牧牛の牛乳には感動する。なんだかこの牛乳だったらすごいチーズができるかもって。そうすると過去のできなかったこととか、絶対にこのままじゃいけないっていうモチベーションがふつふつと浮かんでくる」

「もっと土地とか気候とかに翻弄されたチーズをつくりたい。
クオリティもめちゃくちゃ大事だけど、土地の味がスゴイ大事だなと思っていて、すごくおいしいものも大事だけど、それより大事なのってその土地に個性を感じるチーズ。どこにでもある味っていうより、“ここでしか食べられない味”、“ここだからこういう味になった”というチーズ。自分がここで作っている意味はそこだなって。ここでしかできない牛乳で、世界で一番おいしいチーズを作りたい。できる気がするんだよな」

唐突に語られたその言葉に込められた気迫が、本間さんの覚悟を物語っていた。
本間さんは吉川さんの牛乳を使ってより新しい挑戦をしようと考えている。今後、より深い味わいのチーズを作るために、日本でも非常に珍しい2年間の長期熟成チーズ作りに挑戦したいと考えている。チーズは、熟成する期間が長くなるほど、味にうまみが増すが、途中で味が悪くなることもあり、うまみのピークを調整するのが難しい。
吉川さんと本間さんの歩みが切り開くチーズの新境地をこの先も取材していきたい。
2023年9月13日

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